常の変化こそ
家にいて、畑にいることがとても落ち着いて大好きなわたし。
やりたいことも山ほどあるし、少しの作業のタイミングがその後に影響もするので、お天気を考慮しても、いくら時間があっても足りないぐらい。
お家のぞうきんがけをした廊下や階段も大好きで、こちらも体調を考慮すれば、いくらでも時間が欲しいくらい。
なので、変化が苦手。
出るのも億劫。
予定外や、急なお誘いに、体がすぐ重くなってしまいます。
自分でバッチリ予定を組んだりすれば、完璧に過ごしてこなせられますが、そう考えると、もうそこに体験も、学びもなくて、変化にこそ、即対応できる柔軟性を体験する方が今の私の課題なんだろうな、と。
誰に会うというのとは全く関係なく、何が嫌なのか、どうして行きたくないのかわからないほど猛烈に億劫になるのだけれど(いや、仕事ができていないのに外出するということに当たり前に強い抵抗があるのだな。)
何であっても、いつでも、どこへでも如何様にも軽く動ける自分をつくる。
常の変化こそ、執着もない、軽い自分の状態。
周りを制御しようともしないし、気分ももちろん荒れない。
そう。ここも、周りではなく、自分に全てがある。
そうやって動いてみた方が、自分の硬い考えや自分のパターンでやっているより、結果的に何故かキチンと近道や大事なポイントに案内されるようになっているのだけれどね。
行動を起こす前に、その意識に気付いたことで、行動そのものをスキップできたりすることもあるのだけれど、どんな時も先に自分が差し出すこと。
と、あたまに置きながらも、あーだこーだと言い訳して、嫌になって、結局動く(笑)
スマートにできるまで、結局その課題がくるのだからと、逃げる自分のパターンに気づくのは少しタイミングが早くなってきましたが。
思考の癖もあって、出掛けないととなると、モヤッとがきて。
いやいや、いやいやいやいや行くでしょう。
どう考えたって。
と頭を書き換えて向かった大阪。
誘ってくれた友達の想いと、全てを大きな真の愛の意識で見てご指導くださった先生の想いとが満ち満ちて、
あぁ、写真に撮っておけばよかったなぁと思うほど、泣けるほどの優しい味がした湯葉とゴーヤのお料理。
これはもう、食べながら、泣ける優しさで。
こんなに優しい味ってあるんだな、と、ほんとにほんとに泣けました。
どんなに最高の食材を選んでも、最後の仕上げは作り手やその場の意識、ということを再確認。
そうだな、農園のお野菜であんな料理を作ろう。
この先にある、泣けるほどのお料理の味を体験させていただいた今日。
ここまでの全てに感謝を。
*画像は、今日のお店で使われていた、滋賀県みのり農園さんの玄米ポン🍚