Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Chapter:A 北上由紀の話

2017.09.06 18:14

一つ空席を跨いだ隣には高齢の男がいて、ガムをクチャクチャさせている。「最近の若者は」なんて手垢のついた文句を盾にしてきそうなこの手の存在すらも、今日は何だか神経に障る。多分、これは緊張だ。


海外に行って外国人と交流する先輩、同期、後輩とどう考えても見劣りするこの放浪で、俺は一体何を得るのだろう。「何も得ることがなかった」という感触を得て、結果的に海外に興味を持つならそれはそれでいいのだけど。


小説を読むのに飽きて、音楽を聴きながら乗客を観察する。

たくさんの人生が乗っていた。よく観察してみればそれぞれに物語があった。今夜は二つの人生を想像して書いてみよう。朝が来る前に。

まずはその一つ。


…………………………………


Chapter:A:北上由紀の話


朝から熱があったけど、私は学校に行くことにした。夏休みが明けて、ようやく本格的な授業が始まるこのタイミングで休むわけにもいかない。高校受験が控えているのだ。授業の進度に遅れると支障をきたす。でも、それだけじゃない。ここで休んだら「負け」になる。受験なんかよりもよっぽど負けられない戦いが、私にはある。


「顔赤いよ、今日は休んだら…?」

朝、お母さんは心配そうに眉根を寄せた。でも、負けられないの。その事情を素直に話せるほど私はもう子どもじゃないし、まだ大人じゃないの。

せめてこれだけでも、とお母さんは言って、お弁当と一緒に解熱剤と額に貼る冷却シートを私にもたせた。


片道2時間、JR東北本線に揺られて通学するその間、ずっと祈っていた。揺れるつり革を強く握りしめながら目を瞑ってずっとずっと祈っていた。どうか今日こそ終わりますように。そんな意思とは関係なく電車は私を南へ運ぶ。


下駄箱の前で私は深呼吸する。

キッと目の前の戸を睨みつけて開ける。

やっぱり、なかった。新調した上履きはまた白河夏希たちによって葬られてしまったようだ。でもそう決めつけてかかると仕返しをされることは、もう私にもわかる。

靴下のまま教室に入る。

「ゲロガミぃ、汚いから裸足で歩かないでくれるぅ?」

席に座ろうとした時、語尾に音符がつきそうな軽い調子で声をかけてきたのが白河夏希だ。後ろで取り巻きもニヤニヤ笑っている。

私が黙って立ちながら俯いていると白河夏希は言った。

「じゃ、きょうもよろしくねぇ」

不意に背後からチョークの粉が降ってくる。思わず椅子に座ろうとするとその椅子は誰かの手によって後ろに引かれた。


ふわっとした感覚が私の身体の芯を通過していく。熱に浮かされているのではない。いっそ熱で浮かされた夢ならどれだけいいだろう。目覚めたら誰からも慕われ好かれる私だったら、どれだけ、いいだろう。


鈍い音がした。瞬間、お尻の骨から頭の先まで痛みが突き抜ける。悲鳴を上げそうになるが堪える。悲鳴なんて白河を喜ばせるだけだ。火に油を注がない心得だけが私に蓄積されているのを知る。悲鳴の代わりには涙が滲んだ。視界がぼやける。もう、嫌。白河たちの笑い声が聞こえる。低音を剥ぎ取ったみたいに薄っぺらい音に聞こえた。


嫌がらせを受けるようになったのにきっかけなんてなかった。ある一瞬で、私がたまたま白河の神経を逆なでしてしまった。それだけのことだ。その白河に影響力がたまたまあった。そう、それだけなのだ。


「もし」を考え始めたらきりがない。そしてそれを続ければ続けるほど悲しくなって寂しくなって、そして哀しくなる。心がぽきっと折れそうになって「もし」を考えるのをやめる。

歩くたびに靴下が埃で汚れていく。お母さんに上履きをねだることはもうできない。この前買ってもらったばかりだったのだから。前の上履きも、「失くして」しまったのだけれど。

頭が痛い。

体調が悪いのか、心が参っているのか私にはもうわからない。


地獄みたいな時間に終わりを告げたのは呑気なチャイムだった。私はそそくさと教室を出る。捕まってたまるか。背中に白河たちの視線を感じるが、振り切る。


電車を待つ間、頭痛がピークに達した。でも誰も私を助けてはくれない。お母さんがくれた解熱剤を取り出し、そのまま飲み込む。水と一緒でないからか、異物を飲み込んだように食道に引っかかっている感じがする。額には冷却シートを貼る。大丈夫。どうせ誰も私を見ちゃいない。

車内は空いていた。はじっこの席に座る。

向かいに座っているのは大学生だろうか、髪の多い男が文庫本を読んでいる。多分、この辺りの人ではないなとなんとなく私は思った。ちょっと落ち着かないと言ったように停車するたびに外をチラリと見ている。ひとり旅だろうか。自由って、いいな。


ふと、男の視線が私の額を撫でた、気がした。男は少し首を傾げてからゆっくりと文庫本に目を落とす。私は恥ずかしくなって俯いた。

私は、早く大人になりたい。そう思うのが子どもだけなのはなんとなくわかる。そして大人になってから子どもに戻りたいと言い始めるのも、なんとなく、わかる。

誰からも嫌われない大人になりたい。それを願うのはそんなに贅沢なことなのだろうか。

ジトッと湿った額から汗がにじむ。冷却シートが少しだけ、剥がれた。