映画 時計仕掛けのオレンジ
トラウマを作りやすい映画として有名なようですが、私は猫おばさんを撲殺したシーンのポップな
口がトラウマです。
内容を簡単に。
頭も顔もよく、喧嘩も強い主人公アレックス
自分の美学を愛し、ベートーベンを愛しています。
その主人公の率いるヤンキーグループ「ドルーグ」
しかし順風満帆に見えた彼はその横暴さからメンバーに裏切られ、猫おばさんの家に強盗に
入った時、一人警察に捕まります。
懲役14年。
しかし2年がたとうとした頃、「ルドウィゴ療法」の話を耳にします。
その治療の治験をすると刑期短縮できるそう。
その治療というのがパブロフの犬の実験の様なもので、遅効性の薬を投与し、そのあと拘束器具を
付け、グロテスクな映画を観せます。
最初は楽しく観ていますが途中で薬が効き、吐き気を催します。
それを2週間続け、暴力や性欲に拒絶反応を示すようになりました。
しかも、その時映画で流れていたベートーベン「第九」
彼の愛すベートーベンも副作用的に拒絶反応を示すようになりました。
それから出所するものの、自分の居場所はなく、暴れまわっていたおかげで皆からやり返され、
命からがら逃げた家も昔、自分が強盗に入った作家の家で、今の政治に不満を持っている政治家に
爆音で第九を聞かされ苦しみのた打ち回り、一つの逃げ道だったであろう「窓」から脱出という
名の自殺を試みました。
しかし重傷でしたが命に別状はなく、さらには治療が原因の自殺未遂事件で下がった政府の支持率を回復するため、世間に対して今度はルドヴィコ療法から完治したデモンストレーションをして欲しい、と言葉を濁しながら頼む大臣に昔の邪悪な顔で微笑みました。
イギリスの小説家アンソニー・バージェス作「時計仕掛けのオレンジ」
作者はこの作品自分の脳腫瘍が発見された後、短い時間で書き終えました。
しかし映画と小説ではラストが違います。
映画では元の人柄に戻ってラストを迎えますが、小説だともう一章増え、主人公が精神的に大人になり、暴力的思想から卒業します。
小説ではあの主人公が改心したというだけで、作者が書きたかった話とは違ったんだなと感じるのは造作もありません。
作者の妻は第二次世界大戦中に強姦されたそう。
この作品はそのことと結び付け書かれたようです。
作中に出た作家夫婦とは作者本人だったのではないでしょうか。
暴力を暴力で返すのは簡単で、しかしそこから学ものは少なく、「殴られると痛いから止めよう」といった根本の解決にはならないんですよね。
いわば暴力するから腕を切ったようなもので、もし義手があればまた暴れるぞと。
暴力を振ったら何故駄目なのか。そこをちゃんと考えさせて本人に「殴ると痛い思いをして可哀想だから」等、理由がわからないと学ばないんですよ。
小説ではその「どんな極悪人でも、自分の妻を傷つけた奴でも変えることはできる。この悲劇を繰り返さない」といったようなある種の希望をその本に託したのでしょうか。
映画で獄中の神父が「自分が判断しなくて何が人間か!何故暴力が駄目なのかを考えさせずに駄目だからと精神的暴力で抑えるのは違う!」と訴えます。
作家が作者だとするならば、神父は作者の善良な心だったのでは?
自分の大切な人を傷つけられ、その犯人と対峙し、その人を簡単に自殺に追い込めるとしたら一思いにやってしまいそうだと思う人って多いのではないでしょうか。
人間らしいですね。
作者はこのラストを付け加えることで犯人への恨みといった感情を消化させたのでしょう。
逆に映画はこの作者が肝心としたラストを変えています。
映画は、どうなんでしょうか。
デザイン的でファッショナブル。独特な言葉も使いつつクラッシックで暴力的。
性を彷彿させるようなインテリア。
主人公も独特で絶妙な美学があり、ちょっと憧れるほど。
視覚的にはとても面白いです。物語としてもなかなかインパクトがありますし。
もし小説をそのまま映画にしていたら、あまり売れていなかったのかも。
しかし小説のラストがあるかないかで話の印象はとても変わってきます。
神父の言った言葉は映画ではもはや意味をなさず、やっぱり悪人は悪人でした。
しかし小説では同じグループにいたメンバーが父親になっているのを見て、「自分はもう暴力を振るう歳ではない」と、暴力からスッと身を引きます。
作者も、犯罪者に精神的に大人になって欲しかったのかな。
どっちかと言えば、しっかり自分で善悪を選べる「人間」になって欲しかったのかな。
ホーリーマウンテンのように欲望を糧に生きるのも人間、
この話のように自分の欲を抑えられるのも人間。
人間ってなんなんだ。