禍福倚伏
謹んで初春のお慶びを申し上げます。
新年には賀詞を掲げるのが恒例で、この2年はコロナ禍からの回復を祈るために「一陽来復」とさせていただきましたが、今年は「禍福倚伏」とさせていただきました。
典拠は『老子』五八章の「禍(ルビ:わざわい)は福の倚(よ)る所、福は禍の伏す所なり」という言葉です。
本来は賀詞として使われない言葉ですが、旧年中の山内に関わる弔事をお知らせするために、このように題名させていただきました。
昨年の11月、第十三世・碓琱大和尚のご息女だった高木文子さんが亡くなられました。
高木さんの旧姓は板倉、しかし私と血縁関係があるわけではありません。私の曽祖父に当たる碓豊大和尚は元々東岩坂の青木寺で住職をしていましたが、兄弟子だった碓琱大和尚が亡くなられたのをきっかけに宗淵寺に入りました。
碓琱・碓豊両大和尚の師匠であった当寺十二世大和尚の姓が板倉でした。両師ともにこれを継いだようです。(元々、碓豊大和尚の生家は前島姓)
碓豊大和尚の晋山と入れ替わりに、高木さんたちはお寺を出られましたが、その後も親しくお付き合いをさせていただきました。
高木さんの訃報からおよそ1週間後、今度は碓豊大和尚のご子息で、十五世・正敏大和尚の弟でもあり、高木さんと入れ替わりで宗淵寺に入ってこられた板倉英夫さんが亡くなられました。
57歳で急逝した正敏大和尚の生前の記憶がない私にとって、板倉さんは祖父代わりのような存在でした。明朗快活で、裏表なく色々な助言や激励を賜りました。また願興寺観音講の副会長としてもご活躍、機関紙「どうぎょう」の創刊より編集に携わっていただきました。
大恩ある大叔父との別れに、寂しさが募ります。
宗淵寺で仏飯を食み、やがて自立をされたお二方が相次いで旅立たれましたが、そのお二方にとって「故郷」でもある宗淵寺を守るお誓いを立て、一年の計といたします。合掌(住職 記)