五島列島歴史ミステリー
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これは日本人とユダヤ人が同じ祖先を持っているという説なのだが
主な説としてはユダヤの「失われた10支族」が昔日本に渡来したと言うもの
古代イスラエルには(旧約聖書によるとね)アブラハムの孫ヤコブを祖とする12支族がいて、紀元前700年頃アッシリアに滅ぼされた時に10支族が行方不明になりました
そのうちの一部が日本に来たのではないかという話がこれの柱
しかし現代はDNA鑑定ができるので、ユダヤ人と日本人の塩基列に類似性はなく否定されている。日本人はどちらかというとチベットの人に似ているらしい
そもそも、なぜ日ユ同祖論などという話が出たかというと
明治期に貿易商として来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドは、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱したらしい
だがこの人、そこら中でユダヤ起源を唱えるちょっとアレ?な人だったそうです
旧約聖書には白人も黒人も、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテからでたとされてるみたいで、彼がそれを信じていたとすればこのこじつけも合点がいきますな
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ニコラス・マクラウドが見た日本と古代ユダヤとの相似性とは何だったのでしょう?
調べてみると神事に関わる事に共通点が多いことがわかります
・古代ヘブライ神殿と日本の神社の構造は似ている
古代ヘブライ神殿は「幕屋」と呼ばれる移動式であったが、幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲み、中で神に捧げる祭睚を行なった。幕屋の中の構造は基本的には聖所・至聖所・拝殿に分かれていて、祭壇には明かりをともす常夜灯があり、脇には手を洗う水盤があった。
・トリイ(鳥居)
ヘブライ語アラム方言で門という意味で、旧約聖書によると
「モーセは、ヘブライ人たちに神の災いに合わないように、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、災いが静かに通り過ぎるまで家の中で待つように指示した」のであるが、これこそが赤い(朱塗りの)鳥居のルーツであるとされる
・祇園祭
ユダヤの「シオン(ZION)祭り」は、日本の三大祭りの1つである京都の「祇園(ぎおん)祭り」と同じ7月17日に行なわれるが、“ギオン”は“ジオン”の転訛だと指摘する研究家がいる
・平安京
平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム」、ヘブライの聖地「エル・サレム」である。名称の酷似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京とよく似ていることが指摘されている。
あとユダヤからの移民が居ないと説明の付かない物証があります
天皇家所有の3種の神器の一つ八咫鏡
鏡の後ろにはヘブライ語で「我は有て在(あ)る者なり」と書いてあると噂されています。この言葉はモーセが聞いた神(ヤハウェイ)の言葉とされてます
なぜ噂かと言えば誰も見た事が無いから、今上天皇も見て無いそうです(笑)
現在天皇家が所有している物は映し(レプリカ)で本物は伊勢神宮にあります
マッカーサが見たと噂され、彼は伊勢神宮の参道にダビテの星が入った灯籠を作らせています。彼は鏡をモーセの石盤だと思ったのではないかな?と思います
ユダヤの三種の神器(石盤、杖、ツボ)と日本の三種の神器(剣、勾玉、鏡)は同一であるという説もあり、アーク(ソロモン王の聖櫃)ごと日本に来ていると考えるユダヤ人もいるようです
では誰が持って来たか?
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誰がユダヤ文化を日本に伝え、神器をもってきたのか?
最も有力な説は秦氏である
秦氏は第15代応神天皇のときに、大陸から渡来して、この時10万(19万ともいわれている・諸説あり)もの人々が日本に帰化したと伝えられている。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住んだのだが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったという。
また『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。
この秦氏、とっても有力な豪族で、794年の平安京は秦氏の力によって事実上作られ、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があったされる
また秦氏の本拠地にある八坂神社の祇園信仰にも、古代ヘブライの信仰と類似している点がある。八坂神社の周辺などに、「蘇民将来」という伝承にまつわる護符があるが、ここにもダビデの紋章が出てくる。
秦さんは秦(しん)の末裔(根拠無し)とも、大陸から蚕、絹などの技術を伝えた(機織り)ともいわれてます
また太秦(ウズマサ)はどう考えても当て字でヘブライ語でウズ(光)マサ(賜る)というらしい
聖徳太子との関係や大化の改新の関与など6~7世紀の日本の重要な豪族であったようです
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秦氏は先週書いた様に、日本書記、古事記により大陸からの移民である事は書かれているが、ユダヤである決定的証拠はない
伝承によると3世紀頃10万人をつれて帰化とされてるけど、こんな人数で海を渡ったら、移民でなく侵略である。しかしながら大和国との交戦の記録は残っていない
では彼らは最初にどこに辿り着いたのか?
それを探ると彼らがユダヤであるかもしれない理由が見えて来る
四国徳島にある霊山「剣山」そこにヒントはあった
剣山(つるぎさん)は、四国に位置する標高1,955mの山で、近畿以西の西日本および四国第二の高峰です
山頂付近は平坦な草原となっており独特の風景を作っている
また剣山の登山口にある石碑には「阿波国剣山は高天原と称し~~~~」という書き出しがある。
高天原とは日本神話で「天孫降臨」の舞台となったところで、ニニギノミコト達天津神が住んでいたとされる場所。ニニギノミコトは、高天原でアマテラスオオミカミから3種の神器を授かって日本に降りて来たのだ
また剣山中腹には無数の鍾乳洞が存在し黄泉の国と繋がっていると言われている
空海がお遍路88カ所を作ったのもこの剣山を封印するためだと伝えられ、88カ所のどこからも剣山が見えない様に出来ているらしい(2000m位の山なのに、本当なら凄い)
剣山山頂から15km北西にある「神明神社」
磐境神明神社の遺跡は積石の祭祀遺跡で、高さ1・2mほどの長方形の石垣で囲まれています。
もと駐日イスラエル大使エンリ・コーヘン氏はここを訪ずれた様子が「みのもんた」のテレビで放送されてました
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元駐日イスラエル大使エンリ・コーヘン氏はここを訪れ、神社を管理している武田大三郎さんや神主の南郷源一さんらの話を聞きながら、遺跡や岩に刻まれた文様をじっくりと見てまわったそうです
大使は社殿を囲む石積みを見た感想を、こう述べたといいます。 「自然の石を積み上げた祭壇は、ユダヤ教の神殿とこの神社以外で見られない
そして・・
「どこかこの近くにアークがあるはずだ...」と言ったそうです
でました「失われたアーク」三種の神器が入っていたとされるアレです
驚く事にこの地域はユダヤの秘宝が眠っていると伝えられ、町おこしにも一役買っているのである(笑)
某オカルト都市伝説サイトによるとこの辺り(徳島県美馬郡)を掘るとヘブライ語の入った遺物が多数出土するらしい(ほんまかいな?)
そして剣山も幾度となく調査が行われたが未だ秘宝発見には至ってない。
糸井重里氏、出番だぞ!
さて、点が繋がってきたのではないでしょうか?
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最初に徳島県美馬郡辺りにユダヤ人らしい人が大陸から移り住んで来たのは状況証拠的に間違いないと思われます(あくまでも個人の見解です)
・ユダヤ教の神殿が存在する
・シオン祭と同じ7月17日に神祭が古くから存在する
・秦(ハタ)さんという姓の人が異常に多い
・徳島方便にはヘブライ語と発音と意味が似ている言葉が多い
等々
彼らはここに移り住んで来て、国を作ります
ではいつ?
日本書紀には紀元3世紀ごろ、応神天皇在位中とありますが・・・
これらを検証するには日本書紀、古事記、そして天皇家の家系図の信憑性について考えなければいけません
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今回は「日本書記」と「古事記」について考察しようと思います
が、政治的に宗教的にナイーブな問題であまり面白くない人がいるかもしれません
これはあくまで「日ユ同祖論」の延長、都市伝説の面白考察なのでニュートラルに見て頂けたらとおもいます
ウィキペによると
日本書紀(にほんしょき)とは、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で720年に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱ってます
古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、712年に編纂
神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。古事記に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている
これらは天武天皇が編纂を命じたとされている
天武天皇は日本最古の「天皇」でそれまでの王は大王「オオキミ」とよばれていた
自らがこの国を治めるにあたり天皇と祭神を結びつけ、天皇の権力の正統性を証明しようとしたと考えることが出来る
他国の歴史書を見てもこの神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかった
だが日本書紀、古事記のすべてが作り話かというとそうでもない所が面白い所である
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日本書紀の信憑性ですが、当時の近年の国史に関してはある程度の事実と思われる。
なぜかというと、大化の改新の時に暗殺された蘇我入鹿氏の総本家、蘇我蝦夷が大邸宅に火をかけて自害した。
この時に数多くの歴史書が燃えてしまった。難を逃れた「国記」を元にその他失われた「天皇記」などを編纂し直したとされているからである。
では、どこが作り話かというと
古代の神々の話
日本書紀を編纂した天武は実は初めて天照大神を祭った天皇でもある。彼は壬申の乱の時に兄の子「弘文天皇」と争い王の座を奪った天皇である
壬申の乱とは政治的な権力を持とうとする仏教徒の蘇我氏などとの争いでもあった
このとき地方の豪族を味方につけるため当時「伊勢大神」だった伊勢神宮に「天照大神」を祀り日本創造の神を味方につけ壬申の乱を勝ち抜いた
王の座に就くと神道を整備、国家神道として今も続く祭祀などを始めたとされています
この時に日本を生んだ神々の話を作ったのではないかと思われる。ひょっとしたら天照大神も、彼の創作かもしれない。
しかし何も無い所から話は出て来ない。ユダヤに伝わる古い神話を参考にしたのでは?
(天孫降臨の高天原【タカアマガハラ】とは、西アジアのアブラハムが住んでいた【タガーマハラー】であるとの説があり、日本の始祖神イザナミ・イザナギも旧約聖書のイザヤ夫婦の転訛ではないかと云われている)
これがヨーロッパなどの神話と日本神話が似てる理由でないかと考えられる
この神々の話が神の子孫「神武天皇」に繋がって行く
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神武天皇とは神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、日本最初の王とされていて、即位したとされる2月11日は建国記念日になっている
天孫降臨のニニギノミコトの孫にあたり、天照大神の玄孫にあたる。つまり神の子孫というわけだ
52歳の時に即位(紀元前660年)して、127歳にして崩御した
これを書いただけで分かる様に、すべてが神話的であって史実ではないと考えられている。存在してたかも謎である。
では他の初期の天皇はどうだろう?
実際は9代「開化天皇」までは欠史八代といわれ実在したか怪しい。陵(古墳)とされる物が残っている天皇もいるので将来の研究に期待したいところである
10代祟神天皇が最初に誕生した王として有力だといわれている。日本史研究の立場からは大和王朝の礎を築いた人物では?と考えられる
11~13代は日本武尊の活躍した時代でもあり熊襲討伐などの記述から九州はまだ傘下に入っていなかったのではないかと思われる。陵(古墳)が特定されているので、掘ればわかる(笑)
さてこれは日ユ同祖論、問題は15代なのです
15代は「神功皇后」またはその子「応神天皇」なのですが系図を見ると(文献によってちがう)応神天皇は謎の多い天皇です
実際はどこからか連れて来られた王の血を引くものという資料もあり、実在したかもわかりません
ですが、前出の秦氏が帰化したとされるのは応神天皇在位中とされています。
つまり、応神天皇擁立に秦氏が一役かったのではないのでしょうか?
また母の神功皇后は「卑弥呼」説があった女帝で年代的にも3世紀中盤頃と思われます
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応神天皇と秦氏が何かしらの関係があったと思われる。
秦氏の大陸からの帰化については数々のオカルトサイトで取り上げられてるが、どれも日本書記や古事記の記述をそのまま乗せてるだけでイマイチ納得出来るものではない
例えば
1秦氏(はたし)は秦(しん)の末裔が逃げて作った朝鮮半島北にある秦韓からやって来た者である
2秦氏は敦煌付近に住んでいた月氏族で2世紀ごろ匈奴に滅ぼされたのち日本にたどり着いた
3秦氏は百済からの帰化した秦の始皇帝の末裔
4秦氏は秦が滅び亡命して来た
等々枚挙にいとまがありませんが、どれも信憑性に乏しく古代イスラエルに通じる記述は皆無に等しいです
しかしながら日本における秦氏の挙動からして、確実にユダヤの末裔であることに間違えはありません
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ここで私の仮説です
色々な資料を読むと秦氏(はたし)が秦(しん)と何かしらの関係があることは間違えないとおもわれます
秦は今の西安付近に国をもっていて、初めて中華を統一した国です。シルクロード付近の敦煌に国をもっていた月氏族とも仲がよかったようです
月氏は西側との貿易で栄えた遊牧民族で中央アジアに広い勢力を持っていました。中東系の人種だったといわれてます。
司馬遷の史記によると秦の始皇帝は不老不死の薬を求めて東の海に人を派遣しています。5000人を超える一団を仙人が住むとされる蓬莱山を探しにいかせます。その一団を率いた人物が「徐福」です。
時代はだいたい紀元前3世紀前半、この船には五穀の種、金属製品、さまざまの貢ぎ物、蚕などが積まれていて、日本の和歌山辺りについたとされてます
徐福は占星術を生業とし、神や仙人と対話ができシャーマン的な人物だったと伝えられています
彼らが和歌山に着いたとするならば、一部の人間が向かいの徳島の剣山を目指したとされても不思議ではありません。
つまり、徐福率いる大陸からの一団にユダヤの末裔が混ざっていて、自分の国を作って住んでいたのではないでしょうか?
「随書」にも倭に「秦王国」という文化が似てる国が有るとの記述もありますし、これなら日本書紀の帰化という表現も納得が行く範囲です
中国には日本の天皇は徐福の末裔という都市伝説もあり、彼らがもたらした米や金属製の武器や、弥生時代の急速な文明の発展や古墳文化を考えたら「徐福」が祟神天皇や神武天皇だった可能性もある
そして徐福に仕えていた秦氏の子孫が徐福の子孫である応神天皇を助け、天皇家の影として飛鳥~平安時代を支えたのも整合性があるのでは?と思います。
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秦氏(はたし)が住んでいたとされる京都太秦には広隆寺という寺がある、これは推古天皇在位時に建立たれたとされ、『書紀』によれば秦河勝が建てたといわれている
創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。
この広隆寺の境内には「十善戒」という教えがはってあります。
どのような物かと言えば
不殺生 (殺さない)
不偸盗 (盗まない)
不邪淫 (邪淫しない)
不妄語 (嘘をつかない)
不慳貪 (欲張らない)
不両舌 (二枚舌を使わない)
不綺語 (お世辞を言わない)
不瞋恚 (怒らない)
不悪口 (悪口を言わない )
不邪見(不正な考えをしない)
何かに似てませんか?
そうモーセの「十戒」です
多少違うものの十の項目という共通点と内容の類似は、ユダヤの影響なのでしょうか?
日本、ユダヤ同祖論のお話はこれでおしまいです
最後に、多くの世界中の人が信仰する「ユダヤ」「キリスト」「イスラーム」は同一の神「ヤハウェ」を信仰してます
彼らが「十戒」を守ればこの世から戦争は無くなると思うんですけどね・・・
https://senjp.com/oucyoku/?fbclid=IwAR1pzS6CT5KUj7M9NU70rLVqgq08DY2xjF_2_IykRFoLRsDo5DpJZJrZSZo【種子島に鉄砲を伝えた倭寇の頭目・王直】より
戦国時代の我が国に多大なる影響を与えた物のひとつに、鉄砲伝来があります。
鉄砲が九州の種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたのは、教科書でもおなじみですが、その背後には一人の中国人の姿がありました。それが、本項で紹介していく王直です。
王直(おうちょく)は、明国の徽州歙県(きしゅう・きゅうけん、現在の安徽省黄山市)に生まれ、本名を王鋥(おうとう)と言います。
彼の号は五峯(または五峰)、別名は老船主ないしは出身地に因んだ徽王がありました。
元々は塩商人をしていたが失敗した王直は、明による海禁政策に背いて禁制品の密貿易に関与し、後期倭寇の頭目にまで登り詰めます。
倭寇と言うと日本の海賊組織を連想しがちですが、日本人だけか日本人中心だったのは前期倭寇で、後期倭寇は中国人が多数を占めていたと言われています。
前期倭寇が元寇の報復から始まった日本人主体(中国・朝鮮系もいたが副次的存在)の武装組織だったのに対し、後期倭寇は中国人を中心に、日本を含むアジア諸国の民や西洋人も加えた多国籍の密貿易組織であり、彼はその1人だったのです。
王直が日本と関係性を持つようになったのは1540年、五島に来住したのが始まりで、1542年(天文11年)には肥前の松浦隆信に招聘されて平戸(長崎県)に移っています。
松浦家の家臣が隆信から聞書きした書物とされる『大曲記』によると隆信の代に中国大陸から渡来した「五峯」が唐風の屋敷を建てたことが記されており、日本側でも名の知れた人物であった事が伺えます。
元来、王直の拠点は双嶼(浙江省寧波)だったのですが、明の官憲から取り締まられることが幾度かあり、1548年に双嶼が攻められた時は烈港(浙江省)に移り、1553年に烈港に明軍が押し寄せると、彼は五島や平戸など日本の九州に拠点を移しています。
そうした定住性の無い活動をしていた時、王直のジャンク船が種子島に漂着し、鉄砲を我が国にもたらしたのです。
1543年(天文12年)のことでした。
その時、王直は種子島の歴史書『鉄炮記』によると西村織部丞時貫と筆談をした儒生・五峯として記録されており、領主の種子島時堯が同乗していたポルトガル人から2挺の鉄砲を2千両もの大金で購入しています。
それが戦国時代を大いに変える鉄砲の導入でした。
こうして国境を越えて活躍した王直でしたが、その晩年は悲惨なものでした。
1556年に同郷であった胡宗憲が浙江の総督に就任して倭寇討伐を開始すると、海禁解除を訴えて恩赦を得ようとします。
胡は王直に官位や助命を提案して彼を降伏させますが、明王朝は処刑を命じたため王直は死罪に処されます。
1560年1月22日の事でした。
我が国における王直の扱いは鉄砲伝来や南蛮貿易をもたらしたことや武士、商人にも信頼されたことから高く評価されています。
しかし、中国では倭寇と結託した売国奴と言う見方が未だに強く、日本人が安徽省に建立した王直の墓碑に彫られた名前を削り取る事件が起きています。
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/312 【平戸の六角井戸】
中国との関連を示す平戸の六角井戸 史跡(県指定) 所在地 平戸市鏡川町6-2
管理・保護団体 平戸市浦の町 最寄り駅 西肥バス「平戸桟橋」 徒歩15分
井戸枠を六角形に板石で囲み、井戸の中も水面下まで六角形の井壁が板石でつくられ、六角柱を地中にたてたような井戸である。
明の商人であった五峰王直は、天文11(1542)年、松浦家25代隆信の優遇を得て、唐風の建物を建て貿易の拠点とした。
王直が同様に貿易拠点としていた五島列島福江市の六角井(県指定史跡)とともに、倭寇関係、唐船貿易関係の遺構として保存されている。
https://gotofan.net/ukujima/uku-04/ 【五島家(=平家)】