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主の洗礼(祝)

2022.01.07 22:00

2022年1月9日  主の洗礼(祝)

福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

 全ての福音書は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを証言しています。それほど、この出来事は重要なのです。しかしながら、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという事実は、初代教会において非常にスキャンダラスなことでもありました。

 なぜ、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。その明確な理由は、神学の世界においても定かではありません。確かに、神の独り子であるイエスに、悔い改めの洗礼は必要ありませんでした。洗礼者ヨハネ自身が、「私よりも優れた方が後から来られる。……その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と語っているように、イエスの方が、本来であれば洗礼を授ける側なのです。

 ですから、もしイエスがヨハネに洗礼を授けたのであれば、この話はイエスが神の子であることを伝えるのに好都合なものだったことでしょう。しかし、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けたということでは話が逆になってしまいます。今日の福音にもある通り、民衆はヨハネがメシアではないかと心の中で考えていましたが、それは話の流れからすれば当然のことだった言えるでしょう。

 そう考えるならば、重要な奇跡物語やイエスの誕生の物語ですら省く場合のある福音書記者が、こぞってこの話を福音書冒頭部に載せていることは非常に興味深いことです。どうしてイエスがメシアであることを伝える上で非常に不利に働くこのエピソードを誰も省略しようと思わなかったのでしょうか。

 古代教会の教父たちは、黙想を通して、この出来事に深い意味を見出しました。彼らは、イエスの洗礼の出来事に、イエスが私たちと同じ罪人と見做されることさえも良しとされたということを読み取ったのです。罪人と見做されること、それは十字架を暗示しています。実際、洗礼という言葉は、死を暗示させる「沈める」という意味を持っています。そこから教父たちは、このイエスの洗礼の出来事に、十字架の死と復活の先取りを見ました。すなわち、イエスが水に沈められ、そこから挙げられるという洗礼の出来事によって、ヨハネの洗礼そのものが変容し、十字架による死と復活のシンボルという新たな意味を獲得したと考ええました。

 教会はこの教父たちの教えを受け継いでいます。洗礼が水によって授けられているのも、水の洗礼がそのまま、聖霊の洗礼へと変容させられたからなのです。罪のない方が私たちの代わりに十字架にかかったことで、私たちの罪がゆるされたように、罪のない方が水に沈められることによって、その水そのものが聖化され、水が罪のゆるしの確かなしるしとなりました。そして、死の闇の中から三日目にキリストが復活したように、この水から引き上げられることもまた、キリストと同じ復活の命にも与ることを示すものとなりました。したがって、私たちが救われるのは、キリストが私たちと同じ罪人と見做されることさえいとわなかった、その不可解なまでの愛の深さによるのです。

 そして、これに応えるかのように天が裂け、聖霊が降ります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。聖書は、それが神の御心であったことを宣言します。この洗礼の出来事が私たちの理性にとっては信じるに不都合な事実であったとしても、神の望みは明らかにそこにありました。だからこそ、福音記者は皆、このエピソードを省くことなく福音書に載せたのでしょう。この天の御父からの承認の言葉はとても大切です。私たちの信仰生活において、不可解で不条理であるとも受け取れるような事態に直面した時、この言葉こそが、それとどのように向き合うべきかを教えてくれるからです。

 さて、私たちは普段、「救い」をどのように理解しているでしょうか。私たちは何から救われることを望み、どんな時に自分は救われたと感じていますか。おそらく、命の危機から奇跡的に生還した時、危機的状況から抜け出せた時、あるいは自分の深い願望が満たされた時には、誰しもが何らかの「救い」を実感するだろうと思います。ですが、もしそういった経験だけが救いであるとしたら、そのような幸運に恵まれなかった多くの人たちの救いはどうなるのでしょう。

 確かに、病の癒しや愛の経験は、聖書においても救いのシンボルとして語られており、そういった恵みは救いを実感する上で非常に大切です。しかし、それがシンボルに過ぎないということにこそ、神様の与えようとする救いの偉大さがあります。私たちが目を向けるべきは、具体的な救いの経験というシンボルそのものではなく、むしろそのシンボルを通して神が告げようとしておられる救いの本質です。もし、そのことを忘れてしまうならば、私たちの救いの経験は、自分の都合を基準にしたご利益信仰となってしまい、そのような経験を通っていない人を救われていない人として裁くものとなってしまうでしょう。

 これに対して、今日の主の洗礼の出来事は、私たち人間にとっての都合の良さを無視することを通して、神の与える救いの本質を示します。すなわち、神の子が人から洗礼を受けるというスキャンダルな出来事にもかかわらず、むしろそのような出来事ゆえに、私たちの生活に降りかかる様々な苦難や不条理の出来事も、神の御手の内にあることが示されたのです。このことは十字架において頂点に達します。無実の方であり、神の独り子である方が、人の手によって罪人とされ、残虐な刑罰によって殺されたのです。これ以上の苦難、不条理、スキャンダルが一体どこにあるでしょうか。もしこの時、イエスが、あるいは天の御父が、奇跡の力でこの状況を打開していたならば、どれほど多くの人がイエスを神であると信じたことでしょう。

 しかし、それでは結局のところ、私たちの救いにはならないのです。それは、神の偉大さを私たちの理解力の中に閉じ込め、現世利益の次元に私たちの心を縛り付けるものとなってしまうのです。救いはただ、イエスが私たちの苦しみや不条理の体験を自ら経験するだけでなく、それをご自分のものとして下さったことにあります。

 洗礼は、神からの無条件の救いの恵みです。信じるから救われるのではなく、その救いが無条件だと分かる時に救いを経験するのです。無条件の愛、これほど人間が憧れながらも、決して信じようとしないものはありません。私たちは無条件の愛を信じて、自分のありのままの惨めな姿を晒すことが、なぜか怖くてたまらないのです。怖いから、様々な条件付きの愛で満足しようとします。無条件の愛を主張する人がいれば、イエスにやったように、殺すまでその愛を試してしまうのです。私たちの自己中心性や罪の本質は、このような本物の愛と出会った時に明らかになります。そんな私たちだからこそ、目に見える奇跡や業を条件にして信じようとします。何も奇跡や偉大な御業がないのに、それでも愛されている、救われているなどということは到底信じられないからです。

 イエスの洗礼は、このような私たちを救うために必要なものだったのだと思います。私たちの罪を洗ったその汚れた水にイエスが沈むという出来事は、まさに私たちの苦難や不条理をご自分の苦難にしてくださった瞬間でした。イエスに語りかけた天からの声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、この言葉は、今やイエスの受難と復活の故に、私たちに語りかける天の父の言葉となっています。

 今日は、この天の父の語りかけを心から信じたいものです。私たちは、自分が立派になる人生を願います。神様のお眼鏡に適うような完全な人間になろうとします。ところが、人生はそんな私たちの願いをこれでもかと打ち砕きます。なんという不条理、苦しみでしょう。そして、自分がどこまでいっても罪のどん底にいることを知るのです。こんな私を誰が愛してくれるのだろう、救ってくれるのだろうと絶望する時だってあることでしょう。しかし、神はそのありのままの私と出会うために、その闇の深みまで降りてきて下さっているのです。キリストの故に、私たちをとがめることなく、ただ愛しているということだけを伝えるために。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。天の御父の宣言は、世の終わりまで決して変わることなく響きます。あの放蕩息子の父親のように、どんな罪人に対しても、最後までこのように語りかけるのです。このゆるしの深さ、この想いの深さ、愛の深さを私たちが少しでも自分のものとしていくために、教会は秘跡を執り行います。それは、私たちが人生の苦難から免れるためのものでも、信じるための条件としての奇跡を提供するものでもありません。むしろ、苦難のうちにも心から信じて洗礼、堅信、聖体、そしてゆるしの秘跡を受けるからこそ、秘跡は、私の人生のすべてがキリストの死と復活の中にあることへの深い気づきを与えるのです。

 愛された子として、人生を愛して、精一杯生きてゆきましょう。どんな苦難や不条理も、人生で起こるすべてのことは、イエスと共に生きることのしるしに変わります。愛された子として、誰かを愛する人生を貫いて行くことが出来ますように。

(by, F. S. T)