海水浴の歴史|大洗町の歴史を見つめて(蓼沼 香未由)
1.江戸時代の潮湯治
現在、夏ともなれば、レジャーの一環として、年間約80 万人もの海水浴客が大洗サンビーチを中心とした大洗町の海水浴場に訪れます。こうした光景が大洗町に誕生したのは、最近の事では無く、今を遡る事約115年前の明治20 年代の頃の事でした。そもそもの海水浴の起源は、更に遡ります。
江戸時代の初頭に、中国より日本に紹介された『本草綱目』(ほんぞうこうもく)という本には、海水を「煮て浴すれば風癬、疥癬を去り」とあって、海水を温めてつかる温浴が、皮膚病などの疾患に効果があるとされました。寛永年間(1620~1640年代)には、紀州和歌山の藩主が鎌倉で塩湯あみを行った記録も残されています。海水のみでは病人に害があるから、海水と水を半分ずつ混ぜて、温めた方が良いという意見もありました。
江戸時代も後半になると、愛知県大野のように直接海浜で海水に浴する、今日の海水浴と共通する海水冷浴も普及していたようです。これらを一般に潮湯治といいます。
江戸時代には海水浴とは言いませんでしたが、潮湯治の名で、皮膚病などの病気の治療のために、普及していたようです。
2.明治時代の海水浴
明治時代に始まった海水浴は、もともとイギリスやドイツなどの西洋から導入されたもので、当初は医学の一環として開始されたものでした。医療行為としての海水浴を普及させたのは西洋医学を学んだ医者でした。海水浴は、海浜の清涼な空気を吸い込む事で気分が一新し、波や海水の塩分が体を刺激する事で、皮膚病などに効果があるとされました。明治 10 年代の日本最初の海水浴場というのは、医者が海浜に設けた小屋で患者を見る医療施設であったとも言われています。浴場には浴場医と呼ばれる海水浴医療を行う専門の医者が配置され、海浜で転地療法を行う浴客のために海水浴旅館が建設されるようになります。
明治 10 年代後半頃から全国の浜に海水浴場が開設されるようになり、その後の鉄道網の普及と共に建てられた神奈川県大磯の禱龍館(とうりゅうかん)における海水浴場の成功が火付け役となりました。明治 20 年代に入ると、全国の海浜に続々と海水浴場が開設されていきます。東京近郊の人々は 休暇願を出して、長期の海水浴治療を行い、中には海浜に別荘を作る人も現れ、別荘地を発達させていく事にもなります。
こうした明治 20 年代の全国的な流れを受けて、当時の磯浜村の大洗下にも海水浴場が作られてくるのです。
3.明治時代の大洗海水浴場
もともと町名の由来ともなった大洗というのは、大洗磯前神社付近の特定の地区を指す地名でした。神社の森を大洗山と呼び、その下の奇岩怪石の発達した海岸を大洗岬、あるいは大洗下と呼びました。
明治 16 年には大型の蒸気船が両国-鉾田間に就航し、この大洗への交通網が飛躍的に改善されていきます。それに連れて、明治10年代に入ると、中央の役人や学者が大洗を訪れるようになり、その頃人気の高かった魚来庵(ぎょらいあん)に投宿するようになります。元老院の福羽美 静議官は、 明治 14(1881)年7月に宿泊し、潮湯治(海水浴)を行いました。これが確認されている大洗下における近代海水浴のはじめての例で、全国的に見てもかなり早い段階のものです。また明治16(1883)年10月に大洗を旅した細川潤次郎は、近頃、養生を講じる者が多く大洗の海に浴して喜んでいると記録しています。大洗下における海水冷浴がかなり浸透していた事が窺えます。
明治 21 年夏に入ると、石井藤介により三層楼の一際高い金波楼(きんぱろう)が開業し、大洗岬に本格的な海水浴場が開設されます。翌22年1月には、水戸鉄道が小山-水戸間で開業し、これにより那珂川 を汽船で下り祝町を経由して大洗 を訪れる、東京方面からの来遊者 が増えだします。
大洗下の海水浴旅館は、明治21年頃は木根屋・魚来庵・金波楼・小林楼の4軒しかなかったものが、明治26年頃までに風月楼と金波楼別邸を加え6軒に増えています。この事からも海水浴旅館は成功を収め、浴客が短期間で著しく増加した事を窺い知る事ができます。
明治20年代の海水浴旅館『海水浴御旅館金波楼』(里海邸所蔵)
出典|大洗町生涯学習課文化振興係2008「大洗町の歴史を見つめて16~18」『広報おおあらいVol.437~439』
著者|蓼沼 香未由
登録者|蓼沼 香未由(ONCA)