信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・45(白寿丸、小田原城にて北条氏康と会談する)
大垣城を手に入れた武田家には、上洛の道が見えていたが、織田家の力は依然強大だった。
永禄3年7月。
今川家の長篠城を攻めていた松平・織田連合軍だったが、松平家の部隊は撤退をしたが、織田家の丹羽長秀隊らは城の包囲に成功した。
永禄3年7月。
「これが小田原城か!」
最上義守の嫡男・白寿丸は、今まで見たことのない巨城に圧倒された。
八幡山から海に至るまで、城下町共々、土塁と空堀で取り囲んだ総構えの城だった。
小田原城は、当時人口は4万2千を越え、全国では二条御所、石山御坊、久留里城に次ぐ3番目に大きな城下町に育っていた。
そしてその城の軍事的な規模は、足利将軍の居城である二条御所や、本願寺家の本拠地である石山御坊をはるかに凌駕する日本一の巨城だった。
ちなみに久留里城も北条家のものであり、久留里城のある房総半島は長らく平和が続き、軍備解体されていたので、人口が急増していた。
白寿丸は伊達家と停戦するために、朝廷工作をしなければならなかったのだが、そのためにはこの北条家に沿岸部の船の通行を許してもらわねばならなかった。
また京に通じる陸路として、織田家にも協力を要請しなければならなかったので、その取次ぎを北条家ならば出来るかも知れないと期待し、この小田原の地に訪れていたのだ。
北条家は長らく平和が続いていた。
関東の大部分を手中に治めてからは、西は三国同盟で武田家・今川家と同盟を結び、東の佐竹家と北の長尾家とは戦を控えていた。
当主・氏康は戦にも強く、内政手腕も優れていた。
白寿丸が義守からの書状を見せ、実直に最上家の窮状と伊達家の脅威を述べると、氏康は沿岸部での通行許可と織田家への取次ぎを約束した。
最上家が滅ぼされ、伊達家が奥州を統一することは、北条家にとって脅威でしかないことは理解していたからだ。
北条氏康:当家が伊達家とは友好関係にあることはわかっておるな。
白寿丸:はい、氏康様
北条氏康:伊達家がこの件を悟り、断交を求めてきたら、伊達家との友好を最優先する。わかっておるな!
白寿丸:はい、氏康様
北条氏康:悟られるなよ。ほかに頼みたいことはあるか。
白寿丸:個人的にお尋ねしたいことがあります。
北条氏康:なんだ。
白寿丸:なぜ佐竹を滅ぼし、長尾を滅ぼし、伊達を滅ぼして天下を狙わないのか。北条様なら出来ないことはないと思われますが。
氏康はそれには答えず、「小童、行け。」とだけ言って、追い返した。
北条家には優れた一門衆がいた。
しかし氏康は、それは氏康と、義弟の北条綱成の大黒柱があってこそのものだと知っていた。
関東の覇者として北条を育てたのは自分であり、息子の氏政らではないことを知っていた。
嫡男・氏政は無能ではなかったが、関東の覇者になれる人物かといえば、氏康にはそうは思えなかった。
自分の力で天下を取れるなら良い。
しかし下剋上の世はまだ続く空気があった。
大きくなりすぎて内部から崩壊した大名はいくつもあった。
身の程を知ることが氏政のためだと、氏康は考えていた。
永禄3年7月。
最上家の徳山館では、当主・最上義守が氏家守棟を呼びつけ、朝廷工作の首尾を聞いていた。
白寿丸は北条家との話し合いを成功させ、織田家への航路を確保して、織田家に向かっているとのことだった。
そこに、地元の檜山城に帰還していた安東愛季より1通の書状が届いた。
その書状を読みながら、当主・最上義守は、氏家守棟に「怒るなよ」と申しつけて見せた。
その書状は、本拠地移転の提案だった。
山形城が陥落した後、本拠地を角館城に移せば、支配圏が徳山館、石川城、高水寺城、檜山城と4つの城になり、現状の徳山館と山形城の2城で伊達家との戦では山形城の1城しか機能しない状態よりははるかに軍事力を行使できるとのことだった。
当主の義守へ気落ちするなという書状なのだが、山形城は氏家守棟の父・氏家定直が城主を務めており、その陥落はその死を意味していた。
本拠地が最上家の領土の最南端にある不都合は、氏家守棟も感じていたので良い案だと思ったが、沈黙するしかなかった。
永禄3年7月。
最上家の真室城が陥落したという報告が、義守の下に入った。
この陥落により、北羽前だけでなく羽後にも伊達家が接してきたことになり、義守はさすがに奪還の兵は出せぬのか、羽後の横手城防衛はどうなっているのかと周囲に聞いた。
家臣たちは、出せる兵はおりませぬと答えるしかなかった。
義守は、ここに至って事態を理解した。
最上は滅ぶのかと呟き、わしは腹を切った方が良いのかと呟いた。
家臣たちは誰も言葉を発することが出来なかった。
永禄3年8月。
徳山館では悲壮感が漂っていたが、実のところ現地の戦場では、最上家は良く善戦していた。
山形城は依然落城はしていなかったし、落城はしたものの天童城と真室城も良く持ちこたえた方だった。
少ない手勢ではあったが、真室城の奪還も試みていた。
永禄3年8月。
度重なる調略の甲斐もあり、蝦夷地の中野衆は最上家に服従した。
また蝦夷地の街道整備も開始された。
最上家が蝦夷地の内政に力を入れているのを見て、捕縛されていた蠣崎季広はその配下になり、協力することを申し出た。
義守は蠣崎季広が船の扱いに長けていることに目をつけ、白寿丸の朝廷工作への協力を頼んだ。
永禄3年8月。
長尾家は総勢5500の兵で、北条家の傘下にある那須家の太田原城へ侵攻した。
永禄3年8月。
大友家の小野鎮幸隊は再び大内家の小倉城へ攻め込んだ。
永禄3年8月。
島津家の猛攻から長期間持ちこたえてきた隈本城だったが、この頃には城内では士気の低下起き始めていた。
後詰の兵は続々と隈本城を取り囲み始め、その様子は城内の士気を大いに落とした。
ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は
「小田原城」を検索してみましたら、227 件 の画像がヒットしましたよ。
http://amanaimages.com/keyword/result.aspx?Page=Search&KeyWord=%8f%ac%93c%8c%b4%8f%e9&ImageID=