親父、伊藤弘美先生との出会い
この夏、咽頭がんで声帯を除去し、あの元気な声を失った、いなべ市議会議員の伊藤弘美先生。
8年間の付き合いとなる。
私は、18年間、JAいなべの広報誌、そして、合併後のJAみえきたの広報誌の立ち上げ(広報誌アドバイザーで合併協議会に参画)。それから、2年間、JAみえきたの広報誌「きらり」の取材・編集をやっていた。JAみえきたには新しい課「広報課」が出来たので、「いずれ、人材が育ったら弊社への委託はなくなる」という条件で、仕事を受けていました。
JAいなべの広報誌『ふれあい』では、全ページを取材し、製作をしていました。
いなべ(員弁郡)の農業や食、暮らしをテーマに毎月、取材し、レポートを書いていました。営農ページでは、農家組合、営農組合、担い手、獣害被害、大豆や大麦栽培の研修などなど。中でも印象的だったのは、「いなべっこ」の立ち上げでした。「いなべ総合病院」の立ち上げも懐かしい思い出です。いなべ総合病院も広報誌を制作させて頂きました。
JAいなべに出入りしていたので、当時、JAの専務理事だった太田政俊専務とよくお話をしました。太田専務が議員となり、そのご縁で、「会派広報誌を作りたいので手伝ってほしい」とご依頼を頂きました。
その会派が「新政いなべ」。太田議員を代表に、林議員、伊藤弘美議員、種村議員、位田議員、岡議員が所属されていた最大会派でした。こちらは、いわゆる与党です。
また、商工会青年部で友人であった水谷議員から依頼され「政和会」の会派広報も作成。水谷議員を代表に、川瀬議員、後に、多湖議員が加わりました。こちらは、いわゆる野党です。
つまり、あまりあり得ませんが、与野党の会派広報を作っていました。
だから、市政の勉強は英才教育のごとく、いろいろなことを知ることができました。
その後、近藤議員の急逝を受けて、補欠選挙で、清水隆弘議員が当選。清水議員とは、大安町商工会青年部の同期。ご縁を感じた盟友となりました。故に彼の一人会派「創生」の広報誌も作成しました。(これを契機に政和会とは繋がりを失いました。後、私は清水隆弘後援会役員となる)。
こうした経緯で、伊藤弘美先生と出会いました。
一言で実に頑固な親父です。しかし、言葉は曲げない。誰にでも意見をはっきり言う。何よりも、地元に尽くす。現在の所属の会派「創風会」は、どちらかというと日沖市政側の会派ですが、僕が近くで見る限り、市長には言うべきことは言っている会派です。
位田まさこ先生も、いなべFMの件に関しては、市長にすごく意見を言っていました。何ともならない獣害のことに関しては、弘美先生は市長に食いついて怒っていました。何度も何度も一般質問をし、創風会の市政報告会には市長も出席していましたが、その場でも、FMなどの件を突っ込んでいました。(いなべFMの件ではネット上で私がいなべ市内のジャーナリストとなってしまいましたが。)
バランスのとれた実に良い会派です。
可決された「にぎわいの森」に関しては、また、いずれ私見を書きます。
そんな伊藤弘美先生とは、実にいろいろ政策や世間話をしました。そうした中、僕をすごく気に行ってくれて、自分で育てた米、野菜、しいたけなどを自宅にいつも届けてくれました。
若輩者の私のことを常に「先生、先生」と呼んで。いつも元気な声で、笑顔で、右手を上げて去って行く。かっちょいい親父です。
しかし、奥様同様に大病を患い、奥様を失い、自分もながく入院することとなる。肝臓をほとんど除去し、今度は、声帯。でも、あの笑顔は変わらず、僕らの前では常に元気にふるまわれます。
「強い人やな。ほんまにすごいな~」と。「次の選挙も出る!この命、尽きるまでいなべのために働く!!」と。
そんな先生に、8月30日に自宅に呼ばれたのです。
それからの経緯は、このWEBの、後援会長の挨拶と私のあいさつをお読みください。
弘美先生と、弘美先生の支援者を回っています。筆談で僕のことを必死に伝えてお願いする。その後、支援者たちは言うのです。
「弘美ちゃん わかった。任せろ!」と。そして、知らない私とがっちり握手をして頂けます。
親父。これはもう親父なのです。
私は、こんな絆というか、人と人の繋がりだけ見ただけでも、立つことを決意した甲斐がございました。いなべの義理人情はすごい。だから故に、難しいのだとも。
我が政治信条をひたすら伝えるのみ。