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トルコ-イスタンブール

2017.09.16 19:30

YAHMAN


またこうして旅ができることはとても素晴らしいことです。


9/16〜25でトルコ、イスタンブール→イスラエル、行けたらパレスチナの予定。


初めてのヨーロッパと中東



この旅に当たって再び本を読み漁ったから分かりやすく惜しみなく少しずつ話していこう。


特に宗教調べだしたら、その広がり方や思想は世界史とつながっているから、本当に芋づるでどんどん知りたいことが増えます。


宗教に関して既に書き溜めてあるけど、イスラエルに行く前に紹介しよう。


その前にトルコからですね。



元はと言えば、この地はローマ帝国の支配下。


ローマ帝国は395年に東西に分離したが、その東側は東ローマ帝国(ビザンツ)と呼ばれていた。


首都であるコンスタンチノープル(現イスタンブール)はボスポラス海峡を挟んで、西はヨーロッパ、東はアジア側としてアジアとヨーロッパをつなぐ東西交易の要所として大いに繁栄。


「新ローマ」、「第2のローマ」という意識が定着し、東ローマ帝国の隆盛と共に30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として、キリスト教文化が根付いていた。


しかし、そんな東ローマ帝国も次第に衰退して行くこととなる。


そして、13世紀末にオスマン一世により現在のトルコ付近に興ったオスマン帝国(オスマン=トルコ)が次第に勢力を拡大して行く。


オスマン帝国はバルカン半島にも進出。都をアドリアノープルとし、セルビアなどのバルカン連合軍を破るなど、徐々にヨーロッパ方面にも領土を拡大。


そして1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世により、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落することとなる。



そのオスマン帝国はトルコ人、ギリシャ人、アルメニア人などイスラム教、キリスト教、ユダヤ教多数の人を移住させて首都建設を行なったそう。


そしてコンスタンチノープルはイスタンブールと名前を変え、以降第一次世界大戦に敗戦するまでオスマン帝国として長きに渡り存続していた。


その後、イスラエルの記事にも出てくるエルサレムをも支配下に置くほど繁栄した。

オスマン帝国の統治の特徴はスルタン=カリフ制である。


イスラム教最高権威であるカリフ、カリフに委託され政治的権威を持つスルタン、どちらの機能をも統合したスルタン・カリフ制という形態が誕生。


キリスト教→イスラム教に支配者が変わったことで、イスタンブールにあるアヤソフィアは元々キリスト教会であったが、オスマン帝国の支配後にはイスラム教のモスクに大改造されたりなど、現在でもその面影が都市である。


(現在は博物館のアヤソフィア)


数百年かけて次第に衰退していき、オスマン帝国は「瀕死の病人」と言われるまでに落ち込んだ。


そんな時代に挑んだ第一次世界大戦だが、もちろんオスマン帝国は敗戦。



敗戦後は西欧諸国による土地の分割・植民地化の危機に陥ったものの、ムスタファ・ケマルを中心とする大国民議会は1923年10月29日にトルコ共和国を成立させた。(トルコ革命)



トルコ革命により、イスラム教を国教とする帝国から、トルコ民族による近代的・西欧的・世俗的な国民国家への転換がはかられた。


世俗的な国家とは「政治と宗教は切り離すべき」という政教分離の考え方。そのほかにも、アラビア語の廃止や法律改革、女性解放など西欧をモデルとした近代国家の樹立を目指した。



そのため、現在はトルコ人の99%はイスラム教徒だが、女性は髪の毛を隠す隠さないは自由だし、アルコールも売られていたりなど、他のイスラム諸国に比べると比較的緩い。




さて、話題を一区切りして、


トルコは親日派が多いというけど、その一因に紹介しておきたいエルトゥールル号遭難事件。


事の発端は1890年、エルトゥールル号に乗ってオスマント帝国の使節団が来日。



明治天皇に拝謁した後帰国の途に就いたが、和歌山県串本町沖で同号は座礁。


和歌山県串本町大島の住人が必死の救助にあたり、69名を救出。


この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど献身的に生存者たちの救護に努めたと言われている。


その後日本海軍の巡洋艦でトルコまで丁重に送った。


結果的に581人が亡くなる大惨事であったが、新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は遠い異国である日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれている。



そして、これには続きがある。


1985年に発生したイランイラク戦争にて、多くの日本人がイランのテヘランに閉じ込められてしまった。


1985年3月17日、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサッダーム・フセイン大統領が突如宣言。


そのことをきっかけに在留外国人が一斉に帰国を試みたが、日本人は日本航空が臨時便を拒否、加えて自衛隊の海外派遣を拒否したために彼らは置き去りになってしまう。


そこで、トルコ政府に助けを求めたところ、「エルトゥールル号のお返しをしましょう」と言い、トルコが臨時便をイランに飛ばしてくださり、日本人を助けたというエピソード。

この時まだ残されたトルコ人がいたにも関わらず、日本人を優先して助けてくれた。


日本人は感謝しなくてはですね。


なんというか、日々の仕事に追われて目先の楽しいことだけに溺れず、過去と未来の繋ぎ目なんだって自覚しながら生活していきたいですね。

日々の選択をしていきたいですね。


このエピソードは「海難1890」という名前で映画化されている。



「真心」がテーマになっているのか、非常に感動的だったので興味ある人は是非〜


そんな歴史の中に現在の日本とトルコの関係があるわけですね。



そして、旅の方とはいうと、



ドーハで乗り継ぐこと19時間。


(イラン上空)


やっとの事でイスタンブール着



バスでカドキョイまで移動し、



旧市街のエミノニュまで船で移動



いたるところにモスク。情緒ありますね。


エミノニュで有名な鯖サンドを食べた。

初めてのトルコでの食事



奥にはガラタ塔が見えます。

現在はヨーロッパ側のスルタンアフメットモスクの近くのホテルに泊まっています。


散歩がてらスルタンアフメットに行ったけど素敵すぎてね。



トルコでも自然体で無地tee着ていたい


先ほど出てきたアヤソフィアにて



のんびりと過ごして明日の観光に備えます。




それでは。またの更新で。


2017/9/16 トルコ イスタンブール