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春風文庫

小門の晋作 (「東行庵だより」平成十五年春号)

2017.09.16 11:03

小門の晋作

(一)

「馬関は西の尽きる処」で始まる、これまで公表されていない高杉晋作の漢詩を記した扇面が出て来たのは、『高杉晋作史料』編纂作業が大詰めを迎えた平成十三年十一月のことだ。東京で開かれた明治古典会主催の古書オークションに、出品されたのである。

筆跡が確かそうなのでぜひ欲しいと思い、知り合いの古書店にお願いして落札、個人で購入した。そして平成十四年七月にマツノ書店から出版した『高杉晋作史料』二巻、揮毫の章に収めることが出来たのである。

漢詩の内容を見ると、晋作が慶応二年(一八六六)六月、下関(馬関)小門(おど)で舟遊びをしたさい書いた即興作のようだ。

「馬関西尽処 占宅避紅蓙

纔有供茶井 更無乞醋鄰

凌山収墜橘 前水網飛鱗

此際遠酔 小門静逸人

丙寅首夏

夕 棹 漁 者 」

この月、長州藩に攻め寄せた幕府軍との間に「四境戦争」(第二次幕長戦争)が始まる。

晋作は小倉方面の指揮を任されていた。戦いの中、世俗から離れ(紅蓙を避け)、静かに世捨て人として暮らしたいという、いかにも晋作らしい願望があったようだ。そうした虚無的な心情を託した漢詩である。

最後の「小門静逸人」の小門(小戸)とは、現在の下関市伊崎町と彦島海士郷町の間に横たわる、急流で知られた海峡である。小瀬戸ともいう。下関駅西から国道191号線を北に徒歩数分、左手の西部公民館や漁連ビルの裏手で、休みの日になると釣り糸を垂らす人を見かける。

ここではかつて「小門の夜焚」と呼ばれる舟遊びが行われていた。

漁夫などが小舟を出し、たいまつの明かりで浮かび上がった海中の魚を網で捕らえ、舟上で料理して食べたのが始まりという。晋作の漢詩にある「前水の網に飛ぶ鱗」は、こうした遊びの光景を表す。それ以前にも頼山陽(一七八〇~一八三二)や田能村竹田(一七七七~一八三五)など文人墨客が小門で遊んでいる。

晋作は特に豊後日田出身の竹田の書を好み、手本としていた。長府藩士梶山鼎介に詩書を与えたおり「我れ竹田に似たるか、竹田我に似たるか」(横山健堂『高杉晋作』)と語ったという逸話まである。たしかに晋作の遺墨には、竹田を意識したと思われるものが多い。文学青年でもあった晋作は、尊敬する竹田と同じ遊びを自分もやってみたくなったのだろう。

明治になり小門の夜焚に音曲が乗るようになり、賑やかになった。岐阜長良川の鵜飼遊びと並び称され、全国的に知られてゆく。明治政府の重鎮となった伊藤博文なども、帰郷したおりには楽しんだという。このように派手になると、晋作の漢詩のイメージとはちょっと異なった雰囲気ではないか。

ところが大正末から昭和の初めにかけて海峡の海岸が埋め立てられ、海流が変わった。このため小門で捕れる魚は少なくなり、遊びも行われなくなったという。

(二)

この晋作の詩書扇面は、田能村竹田の書簡と絵を描いた扇面と一緒に合装されている。見るからにかなり古い表装だ。晋作も自分の書が憧れだった竹田の書画と同じ掛軸に収まったのだから、地下で満足していることだろう。表具を作らせた者も、そのへんを意識し二人の遺墨を並べたのかも知れない。ただし竹田の書画については、私は真贋を含め評する筆をもたないので、ここでは触れないでおく。

軸箱の蓋内側には、以前の所蔵者による由来が墨書されている。よほど愛着を持っていた様子だが、所蔵者名と思われる部分は全て削り取られているので、氏名は分からない。箱書は次のように始まる。

「此幅扇面、高杉東行先生下関伊崎町小門ニ於て仮リ住居之時ニ揮毫セラレタルモノナリ、夕涼ヨリ小船ニ乗リ自棹ヲ指シ漁ニ出ラレタルカ故ニ号ヲ夕棹ト名称セラレタリ、若年ナル之割ハ名筆ナリ、年二十八才之六月ニ揮毫セラレタルモノ、之レハ岡正ト云フ風流人アリ、其人ヨリ(数字分削除)買求メタリ」

東行庵で東行先生顕彰碑除幕式が行われたさい、記念行事のひとつに勤王志士遺墨展が催され、この書幅も出展された。また当時の所蔵者は席上、遺墨の鑑定も行ったという。その事情は次のように述べられている。

「其後明治四十四年五月二十日ニ厚狭郡吉田村清水山ニ於て東行先生之碑除幕式挙行勤王之志士紀念品展覧会場ニ此幅物陳列シ、殊ニ(数字分削除)出席し勤王志士之揮毫物ニ付、真偽之鑑定役ヲ命セラレ、数百幅之内六十幅真正ナル故陳列セシ、其内ニ此扇面幅物上席ニ陳列シタリ、貴賓並来賓毛利元照公初メ毛利一家皆子男爵、井上侯、諸官吏、代議士弐百余名ナリ参列ス 蔵(数字分削除)」

集まった数百幅のうち、真筆は六十幅というのが面白い。管見の範囲でこの展覧会の出品票が付いた史料を他に二点ばかり知っている。一点目は鹿児島県の個人蔵伊藤博文書簡、二点目は下関市の個人蔵奇兵隊士袖印である。

(三)

晋作の遺稿には、もう一篇小門を題材にした漢詩がある。「丁卯稿」と題されまとめられた四篇の中のひとつで、管見の範囲では自筆草稿は無い。

「 游小門夕棹舎

軽暖軽寒春色晴 閑吟独向小門行

梅花凋落桜猶早 窓外唯聴夕棹声」

梅は散ったが桜はまだ咲かぬ、軽暖、軽寒の春の一日。口吟しながら小門に足を向けた晋作は、夕暮れの窓外に、棹さして行く船の音を聞いていたのだという。

また私は未見であるが、小門の伊崎二丁目の報済園には「高杉先生七卿ト国事ヲ議セシ地」と刻んだ高さ一八〇センチ、自然石の石碑が現存するという(下関市教育委員会編『下関の記念碑』旧市内編)。揮毫は「陸軍大将正三位勲一等功三級 森岡守成書」となっている。昭和六年(一九三一)一月、化粧品問屋藤津総本店が創業三十五年、開園五周年を記念して建立した。

報済園は、藤津良蔵の病弱だった一人娘当子のために設けられた別荘である。小門の舟遊びを庭からのぞむことが出来たという。

ただし、晋作と七卿がここで国事を議したという話は、史料で見た記憶も無く、当石碑以外では知らない。疑問点がないわけではないし、もしあったとして何時のことなのか、何を議したのかも分からない。

詩書扇面に出会って以来、私は下関市街に出たおり、小門に足を向け、その風景を特別な思いをもって眺めることがしばしばある。