令和3年9月3日(金)『歌舞伎座三部、四谷怪談』
今まで見た四谷怪談で一番恐ろしい四谷怪談だった。お岩役の玉三郎の演技力の賜物だ。ぞっとするほど怖いお岩で、単に外見が怖いのではなく、自分に対する伊右衛門の仕打ち、更には伊藤家の陰謀によって醜い顔にされてしまった恨みが、一体となって、自分に対する仕打ちの惨酷さに対する、心の変化が、演技に昇華されて、恐ろしく感じたのだと思う。四谷怪談は、余りに多く演じられてきた、怪談と言う事はみんな知っていて、伊右衛門が、家の蚊帳を持っていく時に、お岩が蚊帳に取りつき、伊右衛門が蚊帳をひくと、お岩も畳の上を滑る様に、引きずられるシーンがあるが、何時もはここで場内から笑い声で飛び出すが、今回は、笑い声は、一際聞こえず、わが子を蚊から守るには、蚊帳がなくてはならないと、蚊帳に取りつく玉三郎の必死さが、笑いを起こさせなかったのだと思う。
お岩は、男の赤ちゃんを産んでからは、産後の肥立ちが悪く、体の不調で寝込んでいるが、お岩は、武士の娘で、寝たきりの窶れ果てての登場だが、武士の娘と言う品格を崩さず、冷たく突き放す伊右衛門を、心の中では憎んではいても、表向きは、武士の奥方として、きっと対応している。お岩は塩谷家の武士、民谷家の娘で、伊右衛門は入り婿に入ったのだが、塩谷家は、主君は切腹、お家断絶となり、民谷家も扶持を失い、浪人となり、さらにお岩の父は、何者かに殺され、お岩は、その仇を討ってもらいためだけに、伊右衛門と一諸に住んでいるという設定だ。しかも実は、お岩の父を殺したのは、伊右衛門という設定になっている。父の仇が、実は夫であるという事をお岩は知らない。伊右衛門が、自分を邪魔者として邪険に扱う姿に、愛想をつかしてはいるのだが、お岩は、父の仇を伊右衛門に討って欲しいがために、一緒に住んでいるところに悲劇が生れる。とはいえ、お岩と、伊右衛門は、子供をなしている。1年前は、きっと仲のいい夫婦だったのだろう。それが、塩谷家の断絶で、伊右衛門は、浪人となり、家財道具はあらかた売り、借金もあり、極貧の生活で、笠張をして、糊口をしのいでいる。伊右衛門とお岩の境遇は、もし塩谷家が問題を起こさず、安泰ならば、幸せな生活を送っていたかもしれないのだ。お岩としては、幸せの中で、子を宿したが、主家没落で、運命が狂い、赤子が生れた時には、伊右衛門には、必要のない子になっていた。お岩にとっても、何でこんな時に、赤ちゃんが生まれるのだ、という思いは、少しはあったと思う。お岩も、婿に入った伊右衛門も、主家の没落で、運命が大きく変わったのである。
お岩は、隣家の伊藤家の娘が、伊右衛門が好きになり、結婚したいと願うところから、追い詰められていく。産後の肥立ちの悪さに効き目があるという粉薬を伊藤家から頂戴し、感謝しながら呑むと、お岩の顔がみるみる変化して、顔の右側が、醜く腫れて、恐ろしい形相に変化してしまう。これは伊右衛門が命じて行ったのでなく、伊右衛門が知らないところで、伊藤家が仕組んだところが、恐ろしさを増す。この伊藤家の企みが、伊右衛門の心を変えていく。伊右衛門には、最初から、お岩を離縁して、伊藤家の娘を娶るという気持ちはなかった。伊藤家から、金を積まれ、仕官を約束され、つまりは生活を保障され、 伊藤家の娘が伊右衛門を好きになったことで、美しい結婚できる色香にも迷ってしまったのだ。お岩には、顔を醜くする薬を与えたと決め打ちされたことで、お岩を裏切るように、心が変わったんである。伊右衛門としても、せっかく娘婿に入った民谷家が浪人となり、自分の将来を考えた時には、他家への仕官を約束されれば、好条件であり、お岩を離縁してもいいくらいは思っただろうが、殺してもいいとは思わなかっただろう。伊右衛門は、自分の関係ない所で、運命を決められてしまったのだ。お岩の顔が醜く変化し、髪が抜けた姿も、伊右衛門の所業ではなく、伊藤家の差し金だ。こう見てくると、四谷怪談は、お岩の悲劇の物語ではあるが、伊右衛門の悲劇の物語でもある訳だ。お岩は、自分で刀を抜いて、柱に突き立てた刃に首を切って死ぬが、決して伊右衛門が殺す訳ではない。ただ按摩宅悦に、お岩に不義を持ちかけるように仕向けたのは、伊右衛門だから、間接的な責任はあるが、直接は殺してはいない。お岩が死んでも、さして驚かず、戸板に打ち付けて神田川に流すのも、自分に責任はないと感じているから、平然と行うのだ。これまで私は、伊右衛門という人間は、人として最低な、人非人だと思ってきたが、伊右衛門とて、人生の幸せを求めて、仕官するために民谷家に婿入りしたのだが、主家の没落で、民谷家が浪人となり、完全に当てが外れてしまったのだ。極貧生活の中で、こんなはずではなかったと思った事だろう。そこに、隣の伊藤家から、娘との結婚話である。仕官もしてくれるという、上手い話しである。お岩と離縁して、伊藤家の娘婿に入るという選択も、長いこれからの人生を考えると、仕方のない判断と言えるのではないだろうか。
玉三郎の芸は細かい、伊藤家からもらった薬を飲む時、伊藤家の方向を向いて、手をついて礼をするが、茶道の様に、右左の手を揃えて手をつくのではなく、左右の手のつき方の加減を変えているし、薬で、顔が変化した時の、驚きの表情は、自分の顔の変化に驚愕して、その驚きを外に向けるのではなく、内に向けて、恐怖を語っている。髪をすくと毛が抜けるシーンも、髪がばっさりと抜けると、観客は驚いて、時には笑いが起きるが、玉三郎は、暗やみの中で、ことさら髪が抜けたと、手をかざしてみせる訳ではなく、何回か髪を櫛で整えると、髪が抜けていき、自分では髪が抜ける事に気が付かず、観客も、抜け落ちているのは、顔の下に積もる毛の量が増える事で、毛が抜けていると分かるだけなのだ。顔を上げて、髪を上げた瞬間に、髪が半ばなくなつている事に観客が気が付くので、恐ろしさが、倍増した。決して大向うを狙わずに、ひたひたと観客を恐怖に誘う、玉三郎の演技に、ただただ感服した。子供への愛情の深さを心根として見せているから、蚊帳を離さず、引きずられるところでも、場内から笑い声が出なかったのだと思う。周到な玉三郎の演技力を堪能した四谷怪談だった。
伊右衛門の仁左衛門も、最初から、俺の人生は、こんなはずじゃなかったのにな、という気持ちが最初からあり、極貧の生活に嫌気がさしているところが、実に正直で、将来に対する漠然とした大きな不安が現れていた。伊藤家の乳母との対面でも、分別のある武士の一面を、さっと出し、その上で、うるさく泣く赤子や、醜く変化したお岩を見た時の、一瞬の顔の変化が引き立った。仁左衛門の良さは、顔の表情を、一瞬にがらりと変得られるところに良さがある。眼力の強弱、目線の使い、眉を動かす変化で、善人から悪人へと、ずばりと切り替える演技力は凄いと思う。