令和3年11月20日(土)「国立劇場、一谷嫩軍記、三度目」
今回で三回目の一谷嫩軍記の観劇である。中村芝翫が、芝翫型で演じるのが、今回の眼目である。以前も書いたが、なぜ熊谷直実が、芝翫型では赤い顔で出てくるかを考えながら見た。私は、前回、熊谷の怒りの気持ちを込めた赤い顔ではないかと、書いたが、今回もその感想を一層強く持った。
義経は、自分の手は汚さず、配下の熊谷に、「一枝を切れば一指を切れ」と書かれた制札を見せて、暗に、「平敦盛の命を助けるために、敦盛とおない年の息子小次郎殺して、偽首として出せ」という非情な示唆を与える。直接、そうしろと言う命令ではないが、主人義経の心を読んで実行しろという、事実上の命令である。今回三度目の一谷嫩軍記を見て、私は、熊谷直実の義経に対す怒りを込めた赤い顔であると確信した。団十郎型では、熊谷直実は赤く顔を塗らないが、芝翫型では、顔を赤く塗って登場する。この違いは何なのだろうか? いろいろと考えられるだろうが、三代歌右衛門から四代目芝翫に引き継がれた芝翫型を作った役者の、熊谷直実への思いが、赤っ面(あかっつら)に表れているように思う。
なぜ怒りの気持ちが赤っ面に表れたかであるが、それは、熊谷が、子供が心配で、戦場に訪ねてきた妻の相模を、怒りの表情で迎えるのだが、熊谷が、妻相模に、息子小次郎が戦死したらどう思うかと、質すと、相模は、「戦で、敵と戦い戦死するのは、武士の譽れだ」と、答えを返すと、熊谷は、一瞬、そうであろうと、満足そうに笑顔になるのである。武士の父として、初陣の息子小次郎が、敵と戦い、戦死しても、これは名誉の戦死であるから、父としては、満足できるのである。武士の息子として、初陣を飾り、単騎、敵に突っ込んで手傷を負った小次郎を、父は命がけで救出に行った。名誉の戦死を遂げるのは、それはそれで名誉だが、心の中では戦死して欲しくない、息子の命は尊いし、熊谷家を継ぐ跡取りであるから、父は救出に向かうのだ。この芝居では敵役の梶原平三景時も、史実では、息子の救出のため、危険を顧みず、敵の只中に攻め込んで、息子の命を救っている。武士の、子供に対する思いは、相当のものがあるのだ。自分の息子の名誉の戦死は、それはそれで仕方なく、名誉なことであるから認めることができる。でも武士の息子は、家を相続し、家を存続するためには、絶対に、必要な存在なのである。その家督を相続する大事な息子を、敵将の敦盛と、同等に扱い、殺して首を敦盛の替わりに差し出せという命令に、熊谷は、封建時代であろうとも、いや封建時代だからこそ、我慢が出来ない怒りを持っているのだと思う。
首実検の時に、制札を義経の前にポンと突き出して置くところに、「理不尽な命令を出した、あなたの言う通りに、しました」、という、熊谷の怒りを感じるのは私だけだろうか。
配下の武士に、こうした過酷で、無情な命令を出す義経は、舞台上で、無表情で、時には優しい眼差しで成り行きを見ている。これを見て、熊谷は、怒りが一層増したことだろう。この怒りが、こんな主人には、もう付き合えない、と言う気持ちになり、義経と決別して、僧になる原動力になったのだと思う。熊谷の心に、我が子を殺さざるをえなかった封建制度の中の、武士の苦しみもあっただろうが、僧になって、義経には、「もう敵でも味方でもない、私は関係ない存在である
と、言い切ったあたりに、義経への縁切りと、強い怒りを感じるのである。
非情な命令を出した義経は、自分の命令を部下が聞くのは当たり前と、舞台では白い顔で、柔和な表情で、成り行きを見詰めている。冷酷な主君を白塗りの顔で、平然と舞台にいさせるところに、作者の近松半治の意図を感じる。白塗りのきれいな顔は実は悪役なのである。
自分の家臣に、こんな非情な命令を出す義経が、後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させて、頼朝を討つ兵を挙げても、ほとんどの武将が、義経を支持しなかった理由も、よくわかる。作者の近松半治は、義経は、とんでもない非情で劣悪な男だったと、ひそかに描いたのではないかと思った。義経の伝統的な悲劇の武将のイメージを、近松半治は、壊しにかかったのだと思う。