キオク ミライ 記憶 未来の先は 3 (文 1/23加筆
ガラス越しに、淡い光が瞳の奥に溶け込んでくる。ふう、と無意識にため息が漏れる。
「ため息なんて……」
どうしてだろう。一昨日前に交わしたやり取りは心が温かくなるものだったはずだ。
『名前、そこにあったから…』
『ありがとう』
優しい瞳をしていた。
少し高いトーンの優しい声だった。
胸はわかりやすく跳ねた。
「だけどなあ……」
ぽつりと落ちた言葉は、ため息と同等の重さを含み、顔色は冴えない。
レジ横にあるメモ帳にぐるぐると螺旋を書き殴っていく。
晴れない霧を抱えているようだと思う。
筆圧が次第に強まり、タンタンとペンの先を打ち付ける。
メモ帳には意味をなさない子供の落書きのような黒い線や点で埋め尽くされていく。
この感情がよく分からない。
まるで何かをどこかに落としてきたようで、こんな風に心が揺れると懐かしい淡い想いと共に、どこか落ち着かない気持ちがほんの少しだけ胸を過ぎる。
幸せだったんだと思う。
幸せだったって思っている。
だってそうじゃなきゃーー
『アイツは不器用だからな』
『香さん、私はずっと……』
時々、ふわりと浮上してくる思い出という名の言葉は前後が分からないからこそ不安を時に連れてくる。初めの頃は戸惑い、その意味を必死に辿ったが、結局はこの記憶さえ本当かどうかわからないと、どこかで他人事のように割り切るしか気持ちの落とし所がなかった。
「…あたしはあたしだもん……」
想い出なら沢山ある。どんな環境でいたかも家族構成もその全てを細部まで覚えている。
失くしたのはたった数年のことだと思う。
でもずっとあたしはあたしだったはずだから。
そう信じて考えることを手放す。
あれは誰なんだろう。
会えば分かると信じていたのに、何故だか今日はとても不安定に気持ちがブレていくのは何故なんだろう。
はあとため息をつきながらわかりやすく首を垂れると耳元でなにやら気配が揺れた気がした。
「おーい、かーおりさん?」
「…………」
「んん~~??」
「…………」
「あ! 店長の頭にツノが生えてます!」
「え!? ど、どこ?……っていないじゃない! もう!」
「じょーだんですよーだ」
しれっとした顔でひかるが腰に手を当てながら、口を尖らせる。
栗色の髪は差し込む光と混ぜ合って、軽く跳ねる。その様子をぼんやりと見つめる。
「香さん、この前からなんだかちょっと変ですよ? どこか上の空っていうか~」
「そ、そうかな?」
「そうです~。だってお昼に沢さんが話しかけた時も、塩対応じゃなかったですか~!」
比較的緩やかな客の流れの時間帯になり、お迎え帰りであろう幼き子供連れの団体や、落ち着いた雰囲気の初老の夫婦などがまばらに見られていた。
先日の失敗もあり、また同じ様になってはいけないと、進んでレジに立つことが増えていた。それでも慣れない。致命的に苦手なんだなと一人苦笑する。
でーーー誰だっけ?
「沢さん…て?」
とりあえず聞いてみる。ぴくりとひかるの眉が持ち上がる。
「香さん……流石に可哀想になってきました。沢さんが。いるじゃないですか! 毎日毎日、ランチタイムに来ていたイケメンの沢さん!私のイケメン手帳にも載ってーーって、それは置いといて!」
「イケメン手帳の沢さん……」
「ちっが~う! イケメンの! 沢さん!」
ガオっとキバが見えそうになるくらいに、ひかるが畳み掛けてくる。
「えと……あー、うん。いたっけ?」
ひかるが左手で顔を覆う。
あーもう! とかほんとに! とか、指の間から漏れてくる言葉になんだか申し訳ない気持ちになっていく。
「あ、あたし、お客様への対応まずかったのかな?」
縋る瞳で光を見つめれば、一瞬ひかるの瞳がパチパチと瞬き、あのですね…と諦めたようにため息をつく。
「ひ、ひかるちゃん?」
何しろ覚えていない。いつも通りだったはずが何かしでかしたのだろうか。
「…まずくないですよ。至っていつも通りで。ただ、塩対応だっただけで」
「へ?」
「今度一緒に…って沢さんが言い掛けたら、ありがとうございました! って香さんがバッサリと。可哀想に肩を落として帰っていきましたよ。あんなに毎日来てたのにもう来ないんじゃないですか?」
覚えていない。本当に覚えていない。
香の背中に冷や汗がタラタラと伝う。
「あーその顔は全然覚えてませんね?」
「……ハイ……」
消え入りそうな声で香が答える。
少し先から数人の気配が近づいてくる。ガヤガヤと子供の楽しそうな声も混じり、レジの前で止まった。精算の札を差し出されて、アイコンタクトでひかるに謝罪をするとレジをカチカチと打ち込んでいく。ここ数日頻繁にレジ前に立つことがあったおかげか、随分スムーズに打ち込みができるようになっていた。
「全部で三千八百八十五円になります。ご一緒でいいですか?」
「はい。」
返答と共にトレイに置かれた五千円札を受け取り釣り銭をそっと置く。
まだ入園前だろうか。香に向かってバイバイと小さな手を振る幼い存在に、胸がほわりと温かくなりながら、「バイバイ」と笑顔で手を振る。
「香さんて……」
「うん?」
「もしかしてのもしかしてオトコにキョーミない?」
「はああ!?」
どうしてそんな発想になるんだろうと思いながら、呆れ顔をひかるに向けると、負けじとグイグイとひかるが詰めよってくる。
「だって! イケメンの沢さんもあっさり振っちゃうし、この前の長身のロングコートのイケメンさんも全然興味なさそうだし、香さんてばもしかしてって思っちゃうじゃないですか~」
「そ、それはたまたまーー」
「たまたま? えー、じゃあ香さんのタイプって? うわっ!まさかの店長?」
思わずブンブンと強く首を振る。店長はあの頃の自身を救ってくれた存在の一人だが、あくまで雇い主として尊敬しているだけだ。勿論、相手だって一従業員として大切にしていてくれているだけだ。
「まあ、そうですよね。んー? あ、じゃあこの前の二人連れのお客さんかなあ? 香さん嬉しそうに話してたから珍しいなって思ったんです」
ボンっと一気に顔が赤く染まっていく。なんと言っていいか分からず俯くと、あれれ~? と楽しげなひかるの声が頭上で揺れる。
「わかりやすいな~、香さん。そっか、そうなんだ」
「ち、違う…からっ!」
「だ~って顔に出てますよ~。爽やかで優しそうなイケメンさんでしたもんね。そっかあ、香さんのイケメン基準はあの手のタイプなんですね!」
ひかるが本当に楽しそうに笑う。あんまり楽しそうだから、否定をするのも憚られて、思わずつられて香も笑う。
なんだかくすぐったくて、気持ちのどこかがふわふわする変な感覚だ。
女子特有のこんな会話が、物心ついた頃から恥ずかしくて少し苦手だったせいなのかもしれない。
ひかるから掛けられる言葉はまるで別世界のようで。多分あまり経験がないからだろう。
あの手のタイプって言ってたけど……
そうなのかな。嫌だとか不快だとかそんな感情がまるでないのだから、きっとそうなのかもしれない。
「あの…ね、」
聞いてみたいと思う気持ちが背中を押して、素直に言葉が口から漏れる。
「はい」
「タイプ、なのかな?…うん、そうなのかも」
確認するように、ゆっくりと思いを言葉に乗せる。
「やっぱり!」
嬉々とした顔で、ひかるが小さく跳ねる。
「む、向こうはなんとも思ってないと思うけど……」
慣れない会話に、香の声がどんどん小さくなり、俯いた顔は所在なさげに、視点が彷徨う。
「何言ってるんですか! 好きなら好きってちゃんと伝えなきゃ分からないですよ。今ドキの男子なんて受け身が多いんですから、こっちがドンドン行かなきゃ! 」
「ちょ、ちょっと待って、ひかるちゃん! す、好きってそこまで言ってーー」
「あ! 呼ばれてる! 行きますね」
厨房の方へとひかるが小走りに駆けていく。小鹿みたいにぴょんぴょんしていて、楽しいって体全体で体現している。また香が笑う。
笑った分だけ、もやもやしたものが晴れていく。
外は快晴。ウジウジするな、あたしの心。
よし。と胸元下で小さく拳を握ると、白いシャツを肘まで捲り上げた。
「お疲れ様で〜す!」
薄暗い店内で、ひかるの間延びした明るい声が響く。
ガラス窓越しに見える街並みは、すっかり夜の帳が下りて、星の代わりに色とりどりのネオンが街を彩っている。
ぼんやりと眺めていると、ぽんと右肩に重みがかかり、振り向いた香の目の前に帰り支度を終えたひかるが立っている。
「ひかるちゃん? どうしたの?」
先程、今日一日の労いの言葉を交わし、また明日。と笑って別れた後だった為、香がわかりやすく首を捻る。
「香さん」
「ん?」
「ご飯行きましょ!」
「え?」
「たまにはいいじゃないですか! えーと…確かニか月ぶりくらいですよ! だから、ね?」
上目遣いに問うてくる瞳は、あまりに人懐っこくて無下にするのも躊躇われて、
「あ…そ、そうね」
と、思わず相槌を打つ。毎回こんな調子で断れないんだったと、小さく肩をすくめるがけして乗り気でないわけではない。
ひかるの明るさは香には眩しかった。
自身が持ち得ていないものをキラキラといつも放っていて、一緒に居ると不思議と気持ちも上向きになっていく気がしていた。
「んー…、いいけどあたしの頼みも聞いてくれる?」
「え? なんですか?」
「たまには奢らせて。いつもね、ほんとに助けられてるから。感謝してるの、とても」
柔らかい笑みが香の顔に浮かぶ。
「……香さん、ずるい。そんな顔されたら断れないじゃないですか。もう! じゃあ次は私の番ですからね」
「はいはい」
頬を膨らませるひかるはハムスターに似てるかも。と独りごちながらひかるの背中を両手で入り口の方へ促す。
この重みはここで成しえてきたものなんだと床に視線を落とす。確かなものが欲しかった。
これがあたしだという確かなものが。
変わり始めた深層の意識に気づく間も無く、二つの影が慌ただしく店を後にして行った。
「はあ……」
香の口からため息が漏れる。
またいつもの事かと軽くいなすはずだった。はずだった…のに、何故今こんな状況になっているのだろう。
至近距離に明らかに酒臭い男の顔がある。ひかるの側にも別の男がべったりとまとわりついている。
香が真顔で思案する。何故だかわからないがこんな輩に絡まれることも多い自身は、これまた何故だかわからないが、あしらい方が異常に上手い。以前に体術でも身に付けていたのかと思う程に、自然、体が動いていく。今日もそうするはずだったのに、ひかるを庇いながらではいつも程に上手く立ち回れなかった。
もっと強くならなきゃ。
誰も守れない。
頭の中に赤いランプのようなものがチカチカと点灯していく。体内の警告音は止まない。
感じたことのない違和感と、誰も守れない。なんて少し大袈裟にも思える考えに、くらりと体が揺れて、目の前の男の方に意思とは関係なしに体を預ける形になる。
「へえ、随分積極的だな」
酒の匂いが混じった息が耳元で吐かれ、体全部が嫌悪感で固まっていく。ぐっと右手を握りしめて反撃に転じようとするが、不意に両手首を掴まれて、動きを封じられる。
「おねーさん、なかなかやるな。おっと、足も勘弁な」
右足を蹴り上げようとしていた香の体を力任せに壁に縫い付けてくる。
ひかるはーーと思い、焦る心で目で追うと、抱き抱えられるように体ごとすっぽりと覆われている。
背を向けている為、ひかるの表情がまるで分からず、尖った声が口から飛び出た。
「ひかるちゃん!」
「おっと、おねーさんはこっちに集中。楽しいとこ行こうか?」
「行くか! バカ!」
睨みつけながら視線を上に向けると、薄ら笑いを浮かべて、こちらの意思などお構いなしに顎を掴まれて、顔を近づけてくる。
反射的に顔を反らすと、体にかかっていた重みがあっという間に消えた。消えた。という感覚しかないのだ。
何が起こったか分からずに、弾けるように顔を上げると、今の今まで香の体を拘束していた男が低い唸り声を上げながら道の上に倒れている。
「ひかるちゃん!?」
声がしない。声を聞いていない。状況が把握出来ていないまま、動悸が止まない胸を押さえて、あの明るい声を求める。
「香さん……」
街灯が届かない先の闇の中で、ひかるの声が香の耳に届く。側に駆け寄り、怪我の有無を確かめるが、ざっと見た感じでは傷の跡などは見当たらないことに、ほっと胸を撫で下ろす。改めて辺りを見渡せば、ひかるに迫っていた男も香に絡んでいた男と同様に路地の端に転がっていた。
「香さんどうしよう」
「え!? どこか痛むの?」
困ったように笑うひかるの肩を掴み、あたふたと焦る香のジャケットの裾を、ツンツンとひかるが引っ張り、バツが悪そうにペロリと舌を出した。
「違う、違う、香さん。ビックリしすぎて立てなくなっちゃった」
「へ?」
「だって、目の前をでっかい男が飛んでいくんですよ。ぶーん、て。ドラマの世界みたいでした!」
興奮気味に話すひかるの瞳はこんな場面にそぐわないくらいに、楽しげに瞬いている。
「ひかるちゃん怖くないの?」
「怖い?」
ぽかんとひかるが口を開ける。
「だって……」
「怖くはなかったですよ。多分狙いは香さんみたいだったからめちゃくちゃ心配はしましたけど!」
フンと鼻息を荒くしてひかるが拳を握りしめる。
「…なにそれ?」
「だからあいつらが狙ってたのは香さんでしたよ。そうですよね? ね?」
香の背後に問いかけるようにひかるの視線が上を向く。
「…誰に言ってるの?」
「え? 香さんの後ろの人ですけど」
ゾワリと肌が栗立つ。
だって今この瞬間まで背後に気配など感じていなかった。
「……誰?」
振り向くことさえできずに、震える腕を右手で抑えながら声を絞り出す。路地裏の暗闇に差し込む光はネオンの赤や黄色が入り混じって、香の頬を仄かに照らしている。
背後の黒が揺れる。
香の全身を足元から絡め取るように警戒心のシグナルが音をさらに上げていく。
「……悪い。脅かすつもりじゃなかったんだがな」
降りてきた声に香の思考が固まる。
敵意のカケラも含まない柔らかい響きに驚いたから、とでも言えばいいのだろうか。
兎に角、ゆるりと緊張が解きほぐれていく事に抗うように、挑みかかるように振り向いた。
「…あなたは……」
香の瞳に飛び込んできたのは、つい先日ほんの少しのやりとりを交わしたあの時の客だった。
「この人が助けてくれたんですよ」
ひかるの声がステレオ音声のようにやけに散乱して聞こえる気がする。
弾むひかるとは対照的に香の心は冷えていく。
赤や黄色や雑多な色が混じり合った光の渦に背を照らされた目の前の男の表情は、黒い影に隠されて上手く読み取れない。
本当はその場を早く去りたかった。
けれどもひかるを置いては行けない。行けるはずもない。
「香さん? おーい、香さーん? 大丈夫ですか?」
声に反応しようと、ゆらりと体を動かすと反転するように視界が揺らぎ、思わず膝から崩れ落ちていった。
ぱちん。と鼓膜ではない場所から音が鳴る。
綺麗なものも、そうではないものも入り混じった場所。嘘も本当も何もかも飲み込んで行くのは、時にはとても都合が良くて心地いい。
あたしはあの場所を知っていた。
声が聞こえた。
「忘れて。全部綺麗に」
抗う術もない。導かれるように思い出すことを放棄すると、沢山の小さなカケラが頭の中で消えていった。
声が聞こえる。
聞きなれない低い声と、いつも聞いている明るい声。明日はシフトは何時からだったかとぼんやり考えていると、焦れたように言葉が飛んできた。
「もう! 香さん! 聞いてます?」
「?」
「え? その顔は聞いてませんでしたね」
目の前で頬を膨らませている顔を見つめながら、小動物のような可愛さにぷっと笑いが漏れる。
握っていたグラスの中の氷がカランと音を鳴らす。透き通った氷の向こう側はどんなふうに映るのか覗いてみたい気がして瞳を細めようとすると、もう! と声が届く。
「あ! 笑った! ひどい! 心配したんですから。急に倒れそうになるから怪我でもしたのかと焦ったんですけど」
ああ、怒った顔も可愛いな、なんて思ったのは言えない。あたしもこんなふうに可愛くいられたらもっと違うーー
「大丈夫か?」
心配そうな声。聞いたことがあるようなないような、よくわからないまま視線を上げる。
「あ……この前の。さっきはどうもありがとうございます」
「いや……それより怪我がなくてよかったな」
なんでそんな風に笑うんだろうと首を傾げる。困ったような、少し切ないような顔をしていて、何故か違和感を覚えた。
「あの……さっきのは、あれはあたし自身の事なので、そんなに気にしないで下さい」
「…よくあるのか? ああいう事は」
また違和感だ。ピリッと空気が鋭くなった気がする。よく見ると、双璧の黒い瞳が刺さるようにこちらを見ている。居心地が悪くて、居た堪れず俯き、視線から逃げた。
「香さん?」
「ひかるちゃん、ごめんね、あたしのせいであんな事に巻き込んじゃって」
「何言ってるんですか? 香さんのせいじゃないですよ! あれはアイツらがーー」
「ううん。きっとあたしのせいなの」
香がゆっくりと首を振る。
どう伝えればいいかわからず、両手でグラスを握り込む。曖昧なままでこのまま流れていければと唇を緩く噛んだ。
「…なんでそう思う?」
なんで? そんな事あたしの方が知りたい。思い出せないし、教えてくれる人もいないから何も分からないのに。
香の感情の何処かが、歪に歪む。
「そう思うから、思うだけ」
「何度もあるのか? さっきみたいなのは」
天井から吊るされたインテリアランプの灯りはとても柔らかな光なのに、ここはとても温度が低い気がした。
「どうして? 助けてくれたのは感謝しています。でもあなたには関係ない」
「…………」
「香さん?」
驚いたようにひかるが目を見開く。
「ごめん、ひかるちゃん。もう行こう? ほら、こんな時間になっちゃったし、お腹空いちゃった」
「でも……」
ひかるが男と香を交互に見ながら、戸惑いを滲ませる。それを横目に攫うように右腕を掴み、ね? と笑ってみる。
男の顔は見ない。自分の感情が何処から来るのか理由さえ分からないが、もうこれ以上何も聞かれたくなかった。
「…すまない」
ひかるを急かして逃げるように立ち去ろうとした背中に、ぽつりと漏れた謝罪が耳に痛い。
どうして
なんで
「ま、待って下さい、香さん」
ひかるがするりと離れて、男の方に駆けていく。頬を打たれたような感覚に眉間の辺りが熱くなっていく。
それでも振り向く事は出来ずに、ごめんなさいというひかるの言葉を耳の端に捕らえながら、追い立てられるように入り口の方へと逃げ込んだ。
「1900円です」
レジの店員の声に、財布から千円札を二枚取り出して、トレイの上に乗せる。店員が綺麗に切り揃えられた爪先で、お札を数えるとレジから硬貨を一枚取り出して、トレイに置く。
カラン
硬貨の重みで音を鳴らしたトレイの金属音に、時がカチリと巻き戻っていく。
『えー、珍しい! 払ってくれるんだ』
『お前な、人聞き悪いこと言うなよ』
『だってそうでしょ?』
『……まあ、否定はしないけどな』
『もっと奢れ!』
『わーったよ! 今度な』
『今度っていつだ! もう!』
頭の中を記憶のカケラであろうものが、次から次へと波のように流れて泡が壊れていくように弾ける。
優しい声。
そうだ。こんな声だったんだと胸に手を当てる。癖のある髪や広い背中は覚えている。
声だって今思い出した。
誰だかわからない人だけど、あたしがあたしである事を教えて欲しいと溢れそうになる涙を堪えながら、トレイの硬貨を震える手で掴みながら、店の外に出た。
二月の空は寒さのせいか、よく澄んで見える。こんな都会の空なんて澄んでいるはずもないけれど、それでも見上げた先には沢山の星がここだよ。と瞬いている。
知らず涙が頬を伝う。
優しい記憶だと思っていたはずなのに、それならどうしてこんなにも。
思い出さなくてもいいなんて
分からなくてもいいなんて
嘘だと気付いた本心がありったけの力で胸を締め付ける。
思い出したい優しさがきっとある。
忘れたくない全部をどこかに置き忘れている。
駆け足で通り過ぎるように見える景色が変わっていったとしても、あたしはずっとこのまま無くした記憶を辿りながら鬱々と時を過ごしていくのかと、空に無意識に手を伸ばす。
伸ばしても届かないそれは前を向いて生きていればいつかは手が届くのだろうかと、果てない空に縋るように両手を差し出す。
「香さん!」
ひかるの声に、両手を慌てて下ろしながら、振り向くと、眉を顰めるひかると、隣には先程の男が立っていた。香が眉根を寄せる。
「ごめん、今日は帰るね」
「え? 香さん?」
戸惑った様子のひかるに胸が痛むが、男が視界に入る事を今はどうしても避けたかった。
「ごめんね。やっぱり少し疲れたみたい。また今度でもいいかな?」
「……いいですけど、なんだか香さんらしくないですよ。うーん、なんていうかイライラしてるっていうか」
鋭いなと内心、苦笑するが、顔には出さずに努めて平静を装う。
「ひかるちゃん、ごめんね。嫌な思いさせちゃって」
「私は全然大丈夫ですけど……」
ひかるが言葉を飲み込む。その先が言わずとも伝わり、分かってる、とひかるの右手をギュッと握り、深呼吸で気持ちを整える。
なるべく視界に入らぬようにと、視線を逸らしながら男の方を振り向く。
「あの……さっきはごめんなさい。助けてくれたのに、あんな態度になってしまって……。本当にありがとうございました」
頭を垂れながら、ごめんなさい、と再度小さく呟く。
男からの返答はないまま、それじゃあ。とくるりと体を背けて、立ち去ろうとする。
「さっきはすまない」
どうしてそんな事を言われるのか分からない。
「どうしてあなたが謝るんですか? 謝られるような事なんてないです」
思いの外冷たい声色に自身でさえ戸惑う。
「…そうだな。そうだよな」
自嘲気味な声はどこか心許なくて、そろりと男の方に振り向くと、黒い瞳が静かにそこに在った。
『星が見たいな。三月の空』
『怪我が治ったらな』
『連れていってくれる?』
『……ああ』
嘘つき。分かってたよ。
『……ごめんな』
『どうして謝るの? 謝らないで』
『…そうだな』
『狡いよ。そんな風に言われたら何も言えないじゃない』
浮かんでは弾けて、弾けては消えていく。
「やめてっーー」
幼い頃に撫でられた大きな手
大好きな背中に飛びついた事
困ったように笑う兄貴の顔なら全部覚えている
『香』
兄貴があたしを呼ぶ声
『香』
アニキじゃない人があたしを呼ぶ声
「香!」
真っ直ぐに向かってきた言葉は名を呼ぶ声で、あたしの頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。
止まらない頬を伝う雫に構う余裕もないまま、呼ばれた方に顔を向けると、男の瞳が切なく細く細くなる。
「香さん!?」
「大…丈夫だから」
隣で名を呼ぶひかるの声に寄り掛かるように、身を寄せると、甘い香りがして鼻先がふわっととくすぐられる感覚になる。
「香さん……」
泣き出しそうな顔をしているひかるの向こう側で、男は呆然と立ち尽くしている。
「ひかるちゃん、行こう」
こんな顔をさせているのは自身なんだと、居た堪れない気持ちのままに手を引いた。
『香、お前さ』
『香ぃ〜、どこだよ?』
『……よくやったな、香』
あたしを呼ぶ声が多分全部好きだった。
どうして忘れてしまったんだろう。
どうして思い出せないんだろう。
切り取られたパズルのピースは見つからないけれど、日常はゆるりと繰り返していく。
震えるような寒さは上がり切った熱を覚ますように空から降り注ぎ、思わず息を吐くと
空に白が混じり、冬空の景色を纏う。
「香さん本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ほんと今日のあたしダメだよね」
えへへと笑う香に、ひかるがむっとした顔を見せる。
「香さん! 無理に笑わないで下さい。それに! ダメなんかじゃないですよ。全然。変だったけど、ダメとは違います」
ひかるが至って真面目な顔で言い切り、仕方ないなあ。と緩やかな笑顔になる。
救われてる、と思った。
大切な事を忘れているけれど、大切にできるものを大切にしていこうと思う。
後ろばかり振り向いてはいられない。
「やっぱりお腹空いてきません?」
「うん。そう思ったところ」
「ですよね? じゃあ少しだけでいいから付き合って下さいね」
屈託のない笑顔をこれ以上曇らせたくなくて、
光が溢れている表側へと、二人で向かう。
ふと気付く。
あの時何故……
ひかるが振り向き呟く。
「あの人……どうして香さんの名前を知っていたのかな」
2022.1.6
2022.1.23加筆
あとがき
気づけば一年以上も置きっぱなしのお話で、ずっと書きかけのままだったものをコトコト再開しました😅後でもう少し加筆できればしていきたいです。もう少しだけ続く予定なのでお付き合い頂ければ幸いです🙏🙇
お正月前から妹家族が帰省していたので、賑やかすぎる日々であっという間にお正月が過ぎちゃいました😅うちの子供達と姪っ子ちゃん達はめちゃんこ仲良しなので、一日中わいわいしていて私も姪っ子かわいくて仕方ないので忙しいけど楽しい日々でした🙏
帰ってからは末っ子と正月ボケみたいにコロコロ戯れていたので、のんびりしすぎてなんにもやる気起きなかったです😋
今年は続きばかりになってるお話一つでも終われるようにと、あと今書きかけの深海の続きというかその後のお話を完成できたらいいなと思います😊あと漫画の描きかけも😅
こんな場所ですが、見てくださる方、来てくださる方にたくさんのありがとうをお伝えしたいです(๑>◡<๑)✨✨(ありがとうーーございますっ!
あとがき2
ちょっと長くなりそうなので(いつも長々でごめんなさい🙇♀️🙇♀️🙇♀️
前回の文に加筆しました🙏