旅
白妙に滾つ川瀬や冬紅葉 高資
冬川や五大にすべて響きあり 高資
さかのぼる白浪もあり冬の川 高資
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかになひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。(『方丈記(冒頭)』鴨長明 ウィキペディアより)
ゆく雲に雪を頂く白根かな 高資
雪雲や空にまどろむ白根山 高資
『ゆく雲』(ゆくくも)は、樋口一葉の小説。
白鳥の翔たる空の青さかな 高資
沈む日へ白鳥の羽のあかきかな 高資
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 若山牧水
漂うとは定住漂白を意味するのでしょうか?
霧晴れて天見ヶ浦の風車かな 高資
八衢の天見ヶ浦や秋の風 高資
笠沙へと科戸の風や葉月潮 高資
堀辰雄「風立ちぬ」・・・命のはかなさ
マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』 題名は南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え「去った」事を意味する。
山を越え海を渡りて夏木陰 高資
世界三大旅行記の一つである『入唐求法巡礼行記』(マルコ・ポーロ『東方見聞録』、玄奘『大唐西域記』)を著した慈覚大師・円仁ご生誕ご修行の寺院・大慈寺にて
【旅人芭蕉】
「野ざらしを心に風の沁む身かな」
松尾芭蕉は身を野ざらしになってまでもと、悲愴な決意で旅に出ています。当時の旅は 長い距離を歩き続けるたいへん難儀なもの。旅の途中で行き倒れになることも覚悟して出発したといわれます。
そして死の床でも「旅に病んで夢を枯野をかけめぐる」と詠んでいます。
http://tyokyojin.sakura.ne.jp/150417.html
「奥の細道」の冒頭句にもその心境が覗われます。
月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(くわかく)にして、行(ゆき)かふ人も又旅人也(なり)。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(かうしやう)の破屋(はをく)に蜘(くも)の古巣をはらひて、やゝ年も暮(くれ)、春立(たて)る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(だうそじん)のまねきにあひて、取(とる)もの手につかず。もゝ引の破(やぶれ)をつゞり、笠(かさ)の緒(を)付(つけ)かえて、三里に灸(きう)するより、松嶋(まつしま)の月先(まづ)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしょ)に移るに、
草の戸も住替(すみかは)る代ぞひなの家
「奥の細道」の冒頭句にもその心境が覗われます。
月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(くわかく)にして、行(ゆき)かふ人も又旅人也(なり)。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(かうしやう)の破屋(はをく)に蜘(くも)の古巣をはらひて、やゝ年も暮(くれ)、春立(たて)る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(だうそじん)のまねきにあひて、取(とる)もの手につかず。もゝ引の破(やぶれ)をつゞり、笠(かさ)の緒(を)付(つけ)かえて、三里に灸(きう)するより、松嶋(まつしま)の月先(まづ)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしょ)に移るに、
草の戸も住替(すみかは)る代ぞひなの家
芭蕉は 「人生は旅である」ととらえていたようです。「人生は旅である」は古今東西人生に対する表現として用いられてきました。
「人生は旅である」と捉えながら、なぜ 文字通りの旅を自らに課したのでしょうか?
もしかしたら芭蕉の旅は「出会い」を求めての旅と言えるのではないでしょうか?
新しい世界、自然、人々との出会い・・・それが「連句」を生み続けた。
連句は千変万化する特異な形式で、同じ連衆ではマンネリになってしまいます。
定住する事による作品の停滞を嫌い、それ故「放浪」ではなく「旅」という「非定住」な生活形態「定住」とした(旅を栖(すみか)とす)とも考えられます。