「神の問い」
2017年9月17日
創世記22章1-19節
人はいかにあるべきなのか。
聖書は人の理想の姿をどのように考えているのか。
イサクを捧げるアブラハムの物語は、人の在り方を語っている。
一人息子のイサクを犠牲の供物にしろ。
神の命令は不条理の極み。
感情的にも、理性的にも受け入れることはできない。
イサクは神が約束してくれたもの。
言わば、イサクは神が保証していたもの。
それを殺せと言う。
受け入れ難い不条理。
この物語において、アブラハムは一貫した姿勢を示している。
物語の最初、神から呼びかけられた時「はい」と答える。
旅をしている最中、不審に思ったイサクが父親へ呼びかけた時「ここにいる」と答える。
物語の最後、イサクを屠ろうとしている時、神から呼びかけられた時「はい」と答える。
原文ではこれは同じ「私はここにいる」「私だ」という言葉。
物語の最初、真ん中、最後、「私はここ」と一貫する。
これまでのアブラハムは違った。
「私はここ」ではなく、「私はあそこ」「私は向こう」と言ってきた。
妻サラを妹だと偽る。
「ここ」にいる現実を改ざんする。
側女ハガルとの間にイシマエルを設ける。
それも神の約束を信じきれず「ここ」を否定して自分で「あそこ」を作りだす。
「ここ」ではダメ、素の私では現実に対応できない。
「ここ」を否定して、今の私を否定して「どこか」違う私を作りだそうと必死になってきた。
長い旅を続け、神の約束が全て本当だったと知ったアブラハム。
そのアブラハムが神からの不条理に直面する。
アブラハムは慌てない。
一貫する。
神にも、人にも「私はここ」と答える。
誰に対しても同じ態度。
状況、相手によって、態度を変えない。
自分を作らない。
不条理に屈しない人。人の理想。
「私はここ」「私だ」。
この私で十分だ。
神に導き出され、旅を続けてきたアブラハムは獲得していた。
神がすべてを備えている。
不条理に絶望をしない。
全ては神から。
私は何も必要としない。
固執しない。
愛する息子にすら執着しない。
恐れない。
理想の人。
神が求めていた人の姿。
アブラハムはすべてを得た。