一人だけをパートナーとする理由がなかった頃【僕らふたりの物語4】
【僕らふたりの物語4】ーふたこわたる公式ブログ「人々よ、自分の祖国を取り戻せ!」
僕とパートナーのけいこちゃんが、大変な道のりを超えて今のような関係にいたる物語。
その4です。
その1 お互い結婚していたところから
その2 僕が持ち越しにしていた課題
その3 愛を全開にして生きてこなかった痛み
僕は2012年の終わりの頃、愛を感じ、表現することを抑えていたことに気づいて、その生き方を改めることを決めました。大好きな人たちに大好きと伝え、美しいと感じるものを美しいと讃え、大切なものを大切だと表明しながら生きることに、手を抜かないようにしたいと願った。というところまでが前回。
ちなみに古くから僕を知っている人は、僕がこの時期から実際に愛とか美について、積極的に語るようになったことに気づいた人もいるかもしれません。
当時の僕は特定のパートナー(当時は妻)をもちろん愛していたし、パートナーというのは特殊な関係だったし、なんというか、別枠でした。
ただ特定のパートナー「だけ」を愛する、という感覚はなかったし、そのように表現することにはとても違和感を持っていました。
愛してる人はたくさんいた。というか、基本、みんなを愛してました。
また、元妻と二人で握り合っていたことといえば、
「それぞれが自立して、自分だけでも自分を幸せにできる状態であろう。
自分の幸せに責任を持って、相手に依存しないようにしよう。
そして自立したもの同士、一緒にいると何倍にも幸せだから一緒にいる、そういう関係を作ろう。」
ということだったのでした。僕の認識ではね。
これが相手をありのままに尊重しながら、つまり存在をそのまま愛しながら、一緒にいるということだと当時の僕は理解していました。
だから僕と元妻は、自分の不幸感のことで相手を責めることはなかったし、共同で生活する上で協力し合えることについては、お願いしてみて、聞けたり聞けなかったりするよね、という関係を作っていたし、そこで不満があったとしたら、相手を変えることにエネルギーを使うのではなく、自分で自分を幸せにすることを独自にやって、自分を幸せにする責任を果たしていました。
少なくともその時点では、僕としては自立したもの同士のとても素敵な関係を作れていることに満足していました。むしろ最先端いけてるんじゃない!?ってくらいに思ってた。
***
ただ、なんで特定の一人だけをパートナーとして愛するのか。
そのパートナーとは、本質としてはなんなのか。
僕は、愛を注ぐ、愛を届ける、ならいくらでも何人でもできるのに。
正直いって、その問いに対する答えを僕は持っていませんでした。
それは言い換えると、僕にとって元妻とどうしても一緒にいるような理由はなかったということだし、元妻と1対1でいることこそがいいのだ、と思える理由もなかった。
***
そんな中、かつて自分を諦めた恐れとも向き合いながら、自分なりに愛を全開に生きる道を模索し、世界に対して愛を表現していったのでした。
パートナーシップにおいて、一人がそれまで生きてこなかった自分の真実を生き始めると、かならず隠れていた問題が浮上するものです。
この時の僕の夫婦関係においても、隠されてきた問題が目に見える形となって表れてきました。
僕らの場合は、夫婦の中で「愛のエネルギーの循環」とでもいうべきことと、それに伴う喜びの循環が、ほんの少ししか起こっていなかったということ。
そして、僕が心の底ではそれを寂しく感じていたけれど、「まあいいか」と半ば無自覚に自分をごまかしてきて、長期間にわたって関係を蝕んでいたこと。
ここはとても大事な点なので、次回もう少し書いていきます。
つづく
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今後の予定
10/7 大分
パートナーシップお話会&相談会 「どれほど困難でも繋がりを求める価値はある」
https://www.facebook.com/events/1400034650112703/
11/4 仙台初開催
ふたこわたる『好かれる勇気』講座
~大好きな人に好かれて生きる with 松本桂子
https://www.facebook.com/events/1954072741500573/
相談会、個人セッション情報もあり。
11/1 東京
出口光、内田裕士、二子渉
個性認識学完全解析セミナー