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「終わりを望む喜び」

2017.09.28 09:47

2017年9月24日   森下 滋神学生

詩篇 149編1-9節
テサロニケに信徒への手紙Ⅱ 2章1-17節       

「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え」。

私たちは全ての事柄に終わりがあると思っている。

それは「勝手に幕を下ろす」こと。

では私たちに立ちはだかる死とはどのようなものなのか。

肉体的な死を否定することは残念ながら出来ない。

しかし聖書が語る永遠の命、体の復活とは何であるのか。


テサロニケの教会は主の日、すなわち神の裁きの日と、

それにともなう体を伴った復活を巡って動揺が起こっていた。

「主の日はすでに来てしまった」との言説が流布されていた。

だから「復活なんて信じても意味がない」と語る者たちが出現したのである。


こうして揺れるテサロニケの教会と、現代の私たちに対して、

「一大終末的イリュージョン」の方法で、

「主の日には何が起こるのか」がスクリーンに映し出される。


タイトルロールは「騙されるな」である。

登場人物は4人。

不法の者すなわち滅びの子、抑えるもの、主イエス、そして騙された人々である。

まず神に対する反逆が起こる。

そして不法の者が現れて「自分が神である」事を宣言し、

「サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議を用いて」(9節)、人々を惑わすのである。

現状として

「抑えるものがまだいるが、やがて取り除かれ滅びの子が出現する」ことが告げられる。

こうして滅びの子と主イエスの対決が描かれるが、

主イエスの神的な力により滅びの子は滅ぼされる。

結論は「この不義を喜ぶものは裁かれる」である。

 

「騙されるな」といっても騙されてしまうのが私たちの弱さである。

一体どうすればよいのか。

神により「選ばれ、招かれた」私たちは、

終わりの日に神の御前に進み出るために、

罪を悔い改め、聖なる者として日々浄められることを求めることである。

神は聖なる清いお方である。


ある死に面した者が主の祈りに反応して意識を取り戻した。

彼の最後の言葉は

「私の罪を許して下さい。私も他人の罪を許します。子供達をよろしく」であった。

私たちは勝手に終わりを設定することは出来ない。

主の日は、イエス・キリストに結ばれた私たちには

新たな喜びの始まりの日なのである。

私たちは終わらない。