偉人『与謝野晶子』
日本の女子教育は世界的に見ても高かった時代がある。しかし江戸時代に男尊女卑の朱子学が取入れられてから日本の女子教育は低迷の一途を辿った。江戸の後期から明治にかけて女子教育が遅れをとった時代に生きたのが情熱的な歌人であり、ワーキングマザーの先駆けとして子育てや教育、女性の自立を訴えた与謝野晶子である。
今回は激動の江戸・明治・昭和を生き抜いた与謝野晶子から自分のすべきことを悟ったときの女性の強さを考えてみる。
1878年大阪堺市の羊羹で有名な和菓子屋・駿河屋の五人兄弟の三女として誕生する。当時の封建的で男尊女卑の考え方持つ親の下、晶子は家庭で兄や弟とは異なる扱いを受けていたものの9歳で漢塾で漢学を学び、兄の影響で父の持つ尾崎紅葉や幸田露伴、樋口一葉らの作品に没頭した。そして女性の教養としての三味線の手解きも受けている。女子にとっては厳しい世の中にあっても教育を受け恵まれてもいた女流作家である。
文学に傾倒した晶子が大人しい少女とは一線を画し、自立心があり芯の強い情熱的な女性に成長し自分自身の考えを貫いた生き方がなぜできたのか、それは堺という進取の気質と商家の生れ、そして千利休も住んでいたといわれる文化地の出身であることが大きく影響していると考えているが、何より男子が立てられ女子は虐げられる環境下で自分自身を主張しなければならないことを生まれながらにして悟っていたのであろう。これが堺でなければ与謝野晶子は生まれていなかったのだはないだろうか。
彼女のもう一つの強さはやはり文学からである。幼くして大人の意見の矛盾を見抜くことができたのもやはり文学に傾倒していたことが深く関係し、彼女の強く逞しく何ものにも自由に発言する強さを形成したと考える。これも私の勝手な想像によるものなので彼女の作品から読み解くのも興味深いことだと思う。ご実行されるのも面白いのではないだろうか。
さてここからが今回の本題である。彼女の作品は大きく分かれて恋愛や女性の自立と、戦争や政治に対するものの2通りに分かれる。その中でも『みだれ髪』『君死にたまふことなかれ』が有名である。女性が自分の意見や意思を表現できず、情熱を内に秘め言いたいことを押し殺している世の中にあって、晶子が臆することなく堂々と表現できたことは彼女のバックボーンと彼女自身の感性の豊かさや知力を包み隠すことができない飽和状態であったからである。
とはいえ自由闊達な一面ともう一つの顔が晶子にはある。それが夫与謝野鉄幹に尽くす姿である。
明治の女性の言動力は自己実現ではなく、社会貢献的な意味があり夫が社会で活躍できるように、子供を確りと育て社会に返すようにという強い信念で良妻賢母としての考え方が存在していたのである。自分自身の幸せではなく全て夫や子供、家族のためであった。
晶子はスランプに陥った夫と10の子供の生計を支えるために歌人として仕事をし、夫をスランプから救うためのヨーロッパ渡航費用を一人で工面した。その金額は家が2軒建つ大金である。女遊びに明け暮れ収入のない夫のためにどうしてそこまでと思うのであるが、現代の私達が持ち得ない強い良妻賢母信念と何より惚れた弱みがあったからであろう。それにしても夫婦は似て来るというが兄妹といってもおかしくないくらい似ている。
夫の協力を得られず生計を、子育て、教育、家事、執筆と一人で全てを抱えやり遂げることができたのはどうしてであろう。昨今はワンオペで苦しいと嘆く人が多い時代とは異なるものが隠れているに違いないと改めて晶子の人生を調べてみると納得できる事実を発見した。
それは5番目の子供を生んだとき、貧しさと心身の疲れから養子に出している後悔が関係している。その事については生涯口を閉ざしていたそうであるから、その子に恥じぬよう頑張り通そうと決めたのではないだろうか。与謝野晶子の人生に於いて現代の私達が成し遂げられないような強さがあるのはこの事も深く関係していると考える。
たとえ人から見てバリバリと仕事や子育てに邁進していても表面的には知りえない事実が隠されている。また人から失敗しているように見えていても自分自身の中で1本筋が通っているものを持っているならば自分らしく生きていけると晶子の人生が示している。
よく私自身も成功者のように言われることがあるがそれなりに苦労はしている。人を羨ましく思うことほど表面的にしか物事を捉えていないものである。自分自身に与えられた人生を必要以上に悩むことなく、自分自身を肯定できることを足元から一つ一つ積み重ねることで自分自身の生き方を肯定できる日が訪れる。みな誰しも学ぶ課題を持っているのであるから全うすべき奥深い学びを考えるべきである。人の持ち物や置かれている環境は表面的な物欲でしかない。私達は精神的なものを追究してはじめて心豊かになれるのだと考える。自分自身を肯定的に捉えるものを毎日一つは見つけてほしい。
それを成し得たのが与謝野晶子その人であると私は考える。