「お見合いしてもピンとこない」
クリスチャン結婚の悩み
独身クリスチャンの結婚の悩み相談を受けるようになり、実際にお見合いなどに立ち会ったりしています。
そんな中で、出会った人の印象が「可もなく、不可もなく」「ピンと来ない」ということで悩んでいる方へ、少しでも参考になれば…と思い、自分自身が結婚するときに抱いた不安なども含めてお伝えできれば…と思います。
私の結婚の時の話「マリッジブルー」
結婚は、そうたびたび経験するものではなく、誰しも「失敗したくない」「これで良いのだろうか?」と悩みますよね。
女性は特に、洋服を選ぶときにも「ああでもない、こうでもない」と迷ったり悩んだりしながら結論を出す傾向があり、私自身もそうだったように思います。
2000年に結婚しましたので、28歳の時に結婚しました。
ちょうど良い時期に神様が導いてくださったと思いますが、30歳を迎えたら、少し焦りの気持ちが強くなるだろうことなども経験しました。
「このまま結婚できなかったら?」「いつ結婚相手に出会えるんだろう?」と先の見えない不安な思いに駆られる気持ちもありました。
祈っていたこと
私は、教会の奉仕やキャンプの奉仕、集会への参加などで、独身クリスチャン男性と出会う機会はわりとあった方だと思います。
それでも、自分がどのように祈ったらよいかわからず、何が結婚の決め手となるのかもよくわかっていませんでした。
それで、私自身はよくわからず、きっと決められないと思ったので「はっきりと私にもわかるように」と祈りました。
目の前に現れている男性が神様の導いてくださっている方なのかどうか、鈍い私にも「はっきりとわかるように」と祈ったのです。
相手への希望は①「クリスチャンであること」、そして単に「クリスチャンである」だけでは、誰と結婚しても細かいところで気になりだして不満を抱くことになるだろうと思い、②「熱心なクリスチャンであること」を祈りました。
誰と結婚しても「足りないところ」や問題は必ず出てくると思ったので、「熱心な信仰を持っている人」であれば、様々な困難を乗り越えていけると考えたからです。
また、女性としての幸せは、③「愛されている実感を持てること」、この3つを祈りました。
「可もなく、不可もなく」
私と主人とは、同じ年の春に同じ教会へ導かれ、私は教会の研修スタッフとして、主人は信徒として奉仕していました。
けれども、はじめの印象は「可もなく、不可もなく」でした。
私は主人の事について何も知らなかったし、いつもにこにこしながら奉仕をしている姿は悪い印象ではなかったけれども、際立って良いところに惹かれたわけでもなく、感情的には何も思いませんでした。
私は「男性の方から必要としてくれる人と結婚するのが望ましい」と考えていたので、主人が勇気を出して気持ちを伝えてくれたことで、そこから神様の御心を探っていきました。
「悪い印象ではないけど、何か物足りない気がする」、「自分が思っていたような人と違う」、「可もなく不可もなく、で、それ以上進まない」
しばらくはそんな思いがあり、結婚が「希望」ではなく、自分が思っていたのとは違う「苦労、期待感のない生活、不安、我慢、そこそこの結婚生活」というようなことばかりが思い浮かばれて、わくわくするような前向きな気持ちになれずにいました。
結婚がいよいよ現実になってきたとき、女性によくみられる「マリッジブルー」というようなものだったのかもしれません。
確信に立つ
私は主人の事を「良く知らなかった」面が多く、出会ってからの期間も長くはなかったのですが、「確かにこの人との結婚が導かれている」との確信がありました。
それは、出会ったタイミング・・・その時は信徒でしたが、神学校を卒業し、献身の思いを持っている「熱心なクリスチャン」であることが分かっていましたし、お母さんがその後、同じクリスチャンとしての信仰を持ったことで「彼の信仰は本物だ」という尊敬の思いを持っていたからです。
周りの人たちも、彼を勧める人ばかりで、反対するような声が一つもありませんでした。
「周りの人が何というかをよく聞きなさい」というアドバイスを心にとめていたので、このことを通しても神様は私に分かりやすく示してくださっていました。
それで、私が祈ってきたように、神様は「この結婚を決断するように」と導かれているように感じていました。
「確かにこの人だ」との確信がありながらも、信仰面では申し分がなさそうだったけれども、そのほかの生活や性格の面で「尊敬し続けることができるだろうか?」と不安がありました。
なぜ不安に感じたのか、後で振り返ってみますと、自分が結婚相手と比較した男性は、最も身近な「父親」や「兄」だったのではないかと思います。
年齢も経験も違う「父親」と比べれば、若い独身男性は頼りがいがなさそうで、何とも不安や物足りなさを覚えたものでした。
無意識に父や兄と比較し、厳しくチェックしては「思っていたような人と違う」という思いに駆られてしまいました。
「お前は何点なんだ?」
分かりやすく落ち込んでいた私を見て、兄がこんなことを言いました。
「お前は自分自身が何点だと思っているんだ?」
「え?・・・30点…くらい・・・?」
その言葉を聞いたとき、私自身、結婚がいよいよ現実味を帯びてきたときに、非常によくばりになっていたことを示されました。
男性には「こうであってほしい」という願いや希望ばかりが膨らみ、相手が合格点ではないように感じて不満に思い、自分自身が見えなくなっていたことを思わされたことでした。
結婚も信仰による決断
私たちが受洗した時、「キリストを信じ、従って生きる」と決心してバプテスマを受けたように、結婚もまた先の見えない将来をゆだね、信仰によって決断していくのですから、「結婚も信仰だ」と思います。
ひとたび「神様が確かに導いてくださっている」と確信できたのなら、あとは信仰を持って決断していくのみです。
そのためには「神が確かに導いてくださっている」という確信が必要です。
そして、その信仰による一歩を神様は必ず守り、祝福して下さると信じることもまた私たちの神に対する「信仰」にかかっています。
二人は一人よりもまさっている
「結婚しない方がまし」という結婚が、実際にはあるのだと思います。
けれども、基本的には聖書の言葉の通り、「二人は一人よりもまさっている」はずで、「この人と結婚したら、自分はよい方向へ進んで行けるのか?」という見通しは必要になると思います。
私自身は、彼については全部よく知っていたわけではなかったけれども、「確かに、彼は神を愛し、神に愛されている人だ」との思いがありましたし、「それならば、いろいろなことがあっても乗り越えていける」という思いもありました。
結婚して思うことは、本当の結婚は「あきらめ」や「不信、不満」などではなく、「彼にはこんな良いところがあったんだ!」という新たな発見や、感謝と喜びに満ちたものであるということです。
「この結婚は、より神についてわかるようになり、より信仰を深めるものである」
「結婚したことで、信仰的にも人格的にも互いに成長し、良くなっていくことができる」という見込みがあるのなら、それは良い結婚へと導かれていると受け取ってよいでしょう。
逆に、「結婚しても何ら向上する気がしない、成長する気がしない」のであれば、単に相手の事が「好き」であっても、長続きしないことになりかねません。
神は常に良きお方
だんだん年齢が進んでくると「人を見る目」も鍛えられてきますし、なかなか希望通りの異性が現れず、「可もなく、不可もなく」というお見合いが続き、疲れを覚えてしまう独身クリスチャンも少なくありません。
「お前は何点なんだ?」と私が兄に言われたように、誰と結婚しても「満点」の人はいないのです。
そして自分自身も満点ではないはずです。
それでも助け合い、補い合って神の栄光を表し、二人で協力しながら神に喜ばれる家庭を「これから築き上げていく」のがクリスチャンの結婚です。
結婚は、目に見えないものを確信しながら進んでいく「信仰」と同じです。
はじめからダイヤモンドのような人はおらず、誰もがただの「石」にしか見えない「原石」なのです。
結婚して、様々な経験をし、磨かれて初めて「ダイヤモンド」の一面が見えてくるようなものです。
ほとんどいろいろなことを知らずに結婚した私でしたが、神様は良きお方で、私が期待し、願っていた以上の夫を与えてくださいました。
独身の頃は、その素晴らしさが私にはわからなかったのです。
結婚後も、いろいろ不満に思うようなことがなかったわけではありませんが、一つ一つ、話し合ったり祈りあったりしながら互いに赦し合い、成長しながらここまで守られて来られたのだと思います。
夫も、妻を愛するように、喜んでもらえるようにと今でも努力し、協力してくれています。
「可もなく、不可もなく」から始まった私の婚約時代でしたが、今は本当に神様に感謝しています。
自分の好む人、自分の思い通りの人という主眼ではなく、「神が導かれている人」「神が望んでおられる人」という主眼で決断していなければ、これほど感謝にあふれ、17年経っても揺るがない関係を築くことはできなかったかもしれないと思います。
結婚について、不安や期待感のない思いに駆られている方は、もう一度思い起こしてみましょう。
神は常に良きお方であり、私たちに良いものを与えようと待っておられる方です。
私たちには全貌がわからないので不安になることもありますが、神が与えてくださるものは、私たちの想像をはるかに超えたところにあります。
予想だに出来なかったことを、神は与えてくださいます。
神様のみ声は小さく、よく聞いていないと聞き逃してしまう事があるかもしれませんが、確かに結婚を祈っておられる一人一人に語って下さるはずです。
「あなたの御言葉は私の足のともしび」とありますように、主に従い、み心に従うということは「ともしび」が照らす1歩先がようやく見えるほどの明るさで、その先がわからない「一歩一歩」であり、ずっと先まで照らす「サーチライト」のようではありません。
先の事は私たちにはわかりません。
神が与えてくださった出会いの機会を一つ一つ、誠実に向き合っていくのみです。
出会いの中には「違う」と確信するものもあるでしょう。
しかし、どんなときにも忘れてはならないことは、神様は私たちを祝福し、幸いな人生を歩んでほしいと願っておられるということです。
苦しみや悩みの中にある方も、期待や希望を神に置き、歩んで行きましょう。