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ZIPANG TOKIO 2020「忍術は紀元前4000年頃発祥 日本で山岳的な兵法へと発展 今、世界が注目する日本遺産(壱の巻)」

2017.10.05 17:00



伊賀とは

伊賀は、伊賀流で知られる忍者の里。 忍術はこの地で発展し、伊賀忍者は日本全国で活躍しました。 街の中央には上野城の敷地を使った上野公園があり、伊賀流忍者博物館、上野城、だんじり会館など、主要な観光スポットが集まっている。 上野公園から歩いて巡れる範囲にも、観光スポットが点在している。 伊賀の中心市街地は、17世紀初めに整備された城下町で、昔は侍が住んでいました。 現在も100年以上前に作られた、歴史的な建築や昔ながらの街並みが残っている。

街の周辺部には田園地帯が広がり、周囲は深い山々に囲まれている。 周辺部には、赤目四十八滝や青山高原など、日本の自然を満喫できるスポットがある。 ※赤目四十八滝は、たくさんの滝を歩いて巡ることができる観光地で、忍者が修行した場所だとも言われている。

伊賀は周囲を山々に囲まれた盆地である。 盆地特有の気候で、夏はとても暑く、冬はとても寒くなる(雪はほとんど降りません)。 昼夜の気温差が大きいのも特徴で、この気温差が優れた牛肉や米、日本酒ができる要因である。

伊賀市の面積は558.23k㎡で、人口は約91,000人です。 お隣の名張市(人口約78,000人)とあわせて、古くから「伊賀国(いがのくに)」と呼ばれてきた。


伊賀流忍術発祥の地  【伊賀市・名張市】

忍術

忍者は、世界中で日本をイメージする国際語となっている。
映画、テレビそしてマンガでおなじみの「忍者」や「忍術」。超人的で神秘的なイメージの強い忍者は、空を飛んだり、消えたりと、まるで忍者がスーパーマンであるかのよう、あるいは忍術が格闘技であるかのように、間違って解釈されている。

戦乱の時代に必要とされ、発達した忍術は、武術や謀略、破壊工作なども当然含まれますが、心理学や呪術、占術を利用して人間の心理をあやつり、また薬学、医学、天文学など生きるための知識と、人間の能力を最大限に引き出す技術の集大成が本来の忍術なのです。

忍者、忍術とは

封建時代の日本では、戦乱が頻繁に起きていました。その当時、忍者は主に情報収集をおこなうスパイとして雇われ、敵対勢力の動きを察知するという任務を果たしていました。彼らはしばしば、敵を混乱させ、その勢力を低下させるという使命をも帯びていました。「忍者」とは、忍術を駆使してこれらの目的を達成する者たちに対する呼び名でした。

忍術では、武力を行使するのではなく、知力を使った戦術に重きが置かれる。

忍術のある分野においては、敵の心理状態をあやつるために、呪術や占術、心理学、そして超心理学に精通することが求められました。また別の分野においては、自然を熟知して任務を遂行しやすくするために、天文学や薬草などの知識が求められました。

特に、この地域では、呪術と火薬の知識に秀でていました。忍術とは、戦闘のみに限られたものではありませんでした。

歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。

忍術の歴史は

忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。


人物

歴史に名を刻む、有名な忍者を紹介します。

正忍記を読む会

「正忍記」を学ぶための唯一無二の会

日本三大忍術伝書「正忍記」。著者は紀州藩軍学流派名取流・名取三十郎正澄。現代社会と通じる情報戦が繰り広げられていた江戸時代において、紀州発祥の忍びである「御庭番」はそれを制し、江戸幕府安泰に大きく貢献しました。彼らが規範としたであろう「正忍記」には、現代社会を生き抜ためのヒントが多く掲載されています。現代忍者の忍活に最適の「正忍記」を学ぶための唯一無二の会が「正忍記を読む会」です。会員随時募集中。


大宝山 恵運寺

「名取三十郎正澄」菩提寺

「名取三十郎正澄」菩提寺。創建1619年。曹洞宗寺院。紀州徳川家初代藩主徳川頼宣公の武運長昌と山本勘助ゆかりの山本家を祀ために建てられた。名取三十郎正澄(別名:藤一水、名取正武)は、紀州藩軍学流派「名取流」の中興の祖として知られる。名取三十郎が書いた「正忍記」は日本三大忍術伝書に数えられ、日本の忍術研究においてなくてはならない史料である。名取家は、甲州武田家と縁があり山本家とも交流があったとされる。


福地一族

伊賀で最高峰である霊山西北の麓、柘植山出に位置する。規模は東西220m南北170m。石垣、土塁、空堀がよく残る大規模な城で、柘植城とも呼ばれた。 平宗清を祖とする福地氏は『満済准后日記』に、正長2年(1429)「国人柘植三方、日置、北村、福地」と名がある。 『伊水温故』に、「山城なり境地よし福地伊予当国に逆して信長に心を移し天正9年(1581)討入案内者となると記される。その前年、「定成千石の熟田を所有す国第一の福人成り」とある。 「伊賀惣国一揆」においても、重要な役割を担っていたと考えられる。翌年天正10年、本能寺の変で信長が倒されたため、福地氏は駿府に落ち延びた。 松尾芭蕉は福地一族であったため、柘植より上野に移った説がある。現在福地城跡は芭蕉公園として、親しまれている。【写真 福地城】


明屋敷伊賀者組頭格 内田弥太郎

築地市場(東京都中央区)

明屋敷伊賀者組頭格 内田弥太郎
嘉永元年4月より明屋敷伊賀者から浦賀奉行手付となった内田弥太郎は、明治政府に出した経歴書に異国船来航時に手伝ったとあったが中々記録が見つからなかった。『南浦書信』嘉永6年12月2日の戸田氏栄が井戸鉄太郎に出した書信にようやく内田の記録があった。戸田は井戸に対して内田の手当金の増額の要請を行っている。明屋敷とは今の幕臣の空いた屋敷を管理する警備人のような仕事である。若くして和算家として名声を得ていた内田弥太郎にとっては戸田伊豆守氏栄と下曾根金三郎による浦賀での抜擢は非常に感謝していただろう。下曾根は南町奉行・筒井政憲の実子でまた戸田氏栄3男は筒井のあっせんで長井家へ養子となった。内田弥太郎の和算の弟子にあたる花香恭法に戸田氏栄5男鉄丸(花香恭次郎)を世話した理由と思われる。


澤村甚三郎

家伝では神護景雲3年(763)に春日神社が勧請された時より川東に住み、中世は土豪として川東一帯を治めていた。 澤村家は春日神社の真南に位置し、屋敷周囲は今なお土塁や堀が残る見事な中世城館である。『三国地志』、『伊乱記』、『伊賀付差出帳』にも名があり、津藩2代目藤堂高次の代より江戸時代まで伊賀者として仕えている。 『隠密用相勤候控』『澤村家由緒書』には、伊勢国一揆の動向の探索や異国船接近の偵察をしたとある。特筆されるのは、嘉永6年(1853)にペリーが黒船4隻で浦賀来航の際、甚三朗保祐は老中の命により、最後の伊賀者としての黒船探索を行った。 探索の証拠としは乗組員より2通のオランダ語の書類などが残っている。また、携帯用の狼煙筒、水中松明などの忍器も残されている。家伝では神護景雲3年(763)に春日神社が勧請された時より川東に住み、中世は土豪として川東一帯を治めていた。 澤村家は春日神社の真南に位置し、屋敷周囲は今なお土塁や堀が残る見事な中世城館である。『三国地志』、『伊乱記』、『伊賀付差出帳』にも名があり、津藩2代目藤堂高次の代より江戸時代まで伊賀者として仕えている。 『隠密用相勤候控』『澤村家由緒書』には、伊勢国一揆の動向の探索や異国船接近の偵察をしたとある。特筆されるのは、嘉永6年(1853)にペリーが黒船4隻で浦賀来航の際、甚三朗保祐は老中の命により、最後の伊賀者としての黒船探索を行った。 探索の証拠としは乗組員より2通のオランダ語の書類などが残っている。また、携帯用の狼煙筒、水中松明などの忍器も残されている。【写真 澤村家屋敷 非公開】


新堂ノ小太郎

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人の忍者。澤村家所有の『萬川集海』には、姓が書き記される。「金藤」だったと伝わる。 『伊乱記』にも新堂金太郎という名がみえる。小太郎が佐那具の城に忍び込んだ時に見つかり、逃げる途中に石を井戸に投げ込んで敵に井戸に落ちたと思わせその隙に逃げた話。また、病人に変装して播磨のアタラの城に侵入した話がある。 これらの話から伊賀の各地では、土豪同士も忍者を使い争っていたり、忍者が他に雇われていたことがわかる。 なお、JR新堂駅北にある神明神社は、柏野の藤位神社、御代の諏訪神社、楯岡の新明神社が合祀された神社だ。藤位神社にあった大般若経は天正伊賀乱後、灰燼の中から取り出したと伝わり、この大般若経周囲には焼けた跡が残る。【写真 JR新堂駅】


楯岡ノ道順

『萬川集海』に書き記されている、11人の忍術名人の中でも抜群の忍者であった。姓は伊賀崎。寛永13年(1636)の『伊勢国司諸司系図』に登場する20人の忍びの衆にも名があがるほどである。 上忍藤林長門守に属したと考えられる。近江の六角義賢の家臣百々が裏切り、沢山の城に立て籠もった。長門守に命じられた道順が、伊賀者44人甲賀者4人48人で攻めることになった。 途中、湯舟の宮杉という陰陽師に占ってもらうと「沢山ニ百々トナル雷モイカサキ入レバ落ニケル哉」という歌を送られ大いに喜んだとある。妖術(ばけもの)の術を使い沢山城に忍び、城内に火を放ち落城させたと記される。 楯岡には道順高弟の大炊氏城跡が残っている。また、湯船の寺には宮杉家の墓碑が残り、『萬川集海』の記述の裏付けが取れる。【写真 湯船の宮杉家墓碑】


下柘植ノ木猿・小猿

『萬川集海』に登場する、11人の忍術名人の中の2人、兄弟か親子だろう。立川文庫『猿飛佐助』や白土三平著『サスケ』のモデルになったと思われる。 『萬川集海』「歩法四ヶ条」に、「浮足トハ木猿伝ノ枝葉ノ意デアリ口伝アリ」。同じく、「利便地十二ヶ条」には、伊勢の田倉城ヘ忍び込んだ際に城内に入り放火して落城させた話、「見敵術四ヶ条」には、犬の吠える声を真似て敵の怒りを誘い、その怒鳴り声で相手の寝ている場所を確かめ討ち取った話がある。 下柘植では、中世、平定盛の子孫平宗清を祖とする日置一族が蟠踞したと伝わる。『三国地志』には、日置弾正が伊賀の出自とある。日置流は和弓の流派の一つで現代も小笠原流と2代流派の一つだ。 このように、伊賀は武術が盛んであったと考えられる。下柘植に日置城、西之城、高石館が『三国地志』に記される。また、伊賀最高峰霊山の中腹にある霊山寺は黄檗宗、十一面観音が本尊である。【写真 霊山寺】



野村ノ大炊孫太夫

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人で、最初にあがる忍者。記録されている活躍は、孫太夫がある家に忍び込んだ際に、気づいた主人に槍で突かれた。 しかし、床下にいた孫太夫は、じっと耐えて、あえて、相手に聞こえるように「家の者が起きたらしいので引き上げよう。」と言った。さらには、「うん、そうしょう」と、声色を変えて話す。 主人は他にも仲間がいると思ってしまい、あわてて外へ飛び出した。そして、この隙に、逆に家の奥に忍び込んだとある。 野村の位置は上柘植西にあり、中央を倉部川が南部を柘植川が西に流れている。集落は村南部を横断する大和街道に沿ってある。なお、野村の地は、文豪横光利一が幼少の頃住んでいた地でも有名である。【写真 横光公園】



竹島三太夫

『宗国史』に竹島三太夫は、寛永九年(1632)伊賀者として十五石三人扶持と記される。藤堂藩伊賀者澤村甚三朗と共に伊勢一揆を探索したり、異国船探索の記録が残る。 三太夫は澤村家所蔵の狼煙筒に、稲増次郎兵衛、重福彦次郎、和田芬助、澤村甚三朗と並び東組一員として列記されている。 竹島家は平宗清を祖とする日置一族と伝わる。日置弾正は日置流弓術の祖である事でも有名だ。 『伊乱記』には、天正伊賀乱で竹島右衛門景雄が壬生野城で近郷土豪と共に戦うとある。『竹島家過去帳』や『竹島家過去帳』に湖岸栄江大姉とあり松尾芭蕉の姉が嫁ぐとある。【写真 竹島館址】


柘植一族

柘植一族は伊賀北部の土豪。『満済准后日記』に正長2年(1429)「国人柘植三方」とあり平宗清を先祖とする。 墓所は西光寺にあったが天正伊賀乱で焼失。しかし柘植家が再建する。 柘植姓は『伊賀者大由緒記』に、天正10年(1582)の本能寺の変の際に、徳川家康の伊賀越えの際に協力した土豪としても名があがっている。藤堂藩伊賀者にも散見している。 『宗国史』の功臣年表には寛永九(1632)年に柘植勘丞が十五石三口。寛永13年(1636)の『伊賀付差出帳』に柘植勘之丞、切米十五石三人で加納藤左右衛門が取次。 柘植家の柘植流砲術において、火術を得意とする藤林氏や稲増氏と接触があったと伝わる。西光寺には、柘植一族の墓九基がある。【写真 柘植一族の墓】


藤林長門守

三大上忍の一人と呼ばれ、北伊賀衆の頭領であった。 『冨治林家由緒書』によると、長門守の高祖は源頼朝の重臣泉親衡で、信州戸隠山に挙兵するが、健保元年(1213)に北条氏に敗れ湯船に居城を築いたと伝わる。 また、藤林家は六角義賢(承禎)と深く関係しており、『萬川集海』には承禎が近江沢山城攻めの際に伊賀衆の助力を頼み、楯岡道順以下11人の忍びが落城させた功績が記されている。 戒名が似ていることから喰代の百地丹波と東湯舟の藤林長門守が同一人物説があるがそれは小説の世界である。 長門守が上忍といわれる理由は、子孫保武が『萬川集海』を編纂したことと道順以下11人の優秀な忍者を使っていたからであろう。【写真 藤林長門守の墓所(中央)】


稲増治郎左衛門

稲増一族は北伊賀下友田で活躍した土豪であり、『伊乱記』にも雨請山の戦いで名が見られる。伊賀流火術に優れ、藤堂藩に召し抱えられた伊賀者であった。 『稲増家文書』には、治郎左衛門が藤林長門守冨治林正直の遺言により『萬川集海』六冊と『伊賀軍法之書』と譲り受け、冨治林直より忍術免許皆伝を受けている。つまり、伊賀者の忍術指南役であった。 『稲増家由緒書』によると、寛政5年(1793)には、鳥取に異国船が漂着の際の担当役となる。文化10年(1831)には、藤堂藩の伊賀者忍術指南役となる。 伊賀町川東の伊賀者であった澤村家所蔵のペリー来航の際に作成した狼煙筒には、東組の伊賀者5人の1人として列記され、稲増次郎兵衛の名が列記されている。【写真 稲増氏館跡 非公開】

   

石川五右衛門

「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金・・」。天下の大泥棒石川五右衛門の台詞。 『賊禁秘誠談』(東武残光)に、五右衛門は百地三太夫の弟子とある。しかし、三太夫に破門される。 文吾と名を改め盗賊団首領となるが捕らえられ、文禄3年(1594)、五右衛門と一族が、京都三條の河川敷で公開釜煎りの極刑。 石川河合川左岸、通称金山に「五右衛門塚」がある。その一角の南無阿弥陀仏と刻まれた小さな石碑が五右衛門の供養碑だと古老に語り継がれる。 五右衛門が石川出自だということは知られてない。五右衛門ごときの悪逆の盗賊を当地出身者とすることは、村の恥だからだと公にしていない。 しかし、その霊は祀ってやりたいという想いが伝説を生む。生誕地説についてはいくつかあるが、北伊賀の忍者は地名を苗字のごとく使っていた。大泥棒にはなれたのは、忍術を盗術に応用したからこそだろう。【写真 五右衛門塚】


木津家

玉瀧にある伊賀で残る最大の土豪屋敷。玉瀧は玉瀧庄として東大寺領荘園であった。しかしながら、争いが絶えなかった。 『東大寺文書』には、興福寺や北接する近江信楽庄と争いがあったとある。南北朝時代には、守護仁木義直・悪党服部持法が東大寺より玉瀧庄を押領し、東大寺が訴えるが実効はなかった。 木津家はその流れを引くと考えられる。一説に木津川下流の木津一族が戦国時代、上流伊賀に一族の勢力を拡大したともいう。 いずれにせよ、玉瀧の木津家が本家であろう。木津家には、天文13年(1544)の宮座文書がある。敢国神社の次第に、客人として伊賀有力土豪「喰代ももち殿」の名等が見える。 江戸時代には、藤堂藩伊賀者として、『高山公実録』や城下町絵図に、木津伊兵衛の名がみえる。寛永13年の分限帳に、伊兵衛以外に伊之助がみえる。伊兵衛の一族だろう。【写真 木津家遠景(玉瀧)】


音羽の城戸

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人の忍者である。『伊乱記』によると、鉄砲が得意で、本名は城戸弥兵衛。 天正伊賀乱がほぼ終結し織田信長が伊賀一之宮(敢国神社)の辺りで休息している時に、土橋村の原田杢と印代(いじろ)村の印代判官と音羽村の城戸の3人が密かに忍び寄り、森から大鉄砲にて信長を狙うが、信長は運が強く3人とも打ち損じた。 家来たちはすぐに追ったが、飛ぶ鳥のように逃げ去ったとある。 弥兵衛の墓がある西音寺は、天台真盛宗の寺で、寺内には鎌倉末期の石造五輪塔が完全な形で残り、弥兵衛が生前崇敬していたと伝わる役行者像がある。地元ではこの役行者は、忍者の祖神として崇められていたという。【写真 西音寺役行者像】


彦根藩伊賀歩行衆

彦根城博物館所蔵の「伊賀歩行由緒書」によれいば、小堀勝之進という彦根藩伊賀歩行衆がいた。彼勝之進は、伊賀歩行衆の筆頭に見える。40俵3人扶持。 勝之進は元祖は小堀勘六、小堀勘左衛門の倅で生国は伊州阿拝郡千貝村の侍とある。千貝村は旧阿山町千貝で柘植村の近い。 天正10年(1582)に権現様(徳川家康)が堺浦に着き御見物、御宿泊。その後、大和で一揆に遭う。伊賀に入り宿泊。その際に伊賀の侍が忍術火術を熟得していたので護衛を頼む。勢州白子まで案内し尾州鳴海で家康の配下になった。 そして、大坂の陣でも活躍した。正保3年(1646)からは、勘介が貞享2年(1685)まで歩行衆として勤め、2代目勘左衛門が跡を継ぐとある。 伊賀歩行の職務は江戸時代太平の世に於いては、朝鮮人通信使が来日した際に世話役、参勤交代で江戸詰役、大和一揆の探索を命じられた。忍者本来の探索、警備の仕事は藤堂藩と同じである。【写真 小堀勝之進由緒書】


山内左右衛門尉

天正9年(1581)、天正伊賀乱の際に、伊賀北部の山内左衛門尉を始め、武内氏、福味氏、川合氏、福森氏、藤林氏ら伊賀衆が雨請山に立籠もった。 山内氏の城は北側中腹にあって、四方の土塁と西と南に空堀がある。地元の人たちは、ここを猫屋敷と呼んでいる。これは、戦闘の際の山城に対して、平素の麓の館や城を根小屋と呼んだのが訛ったものだろう。 『伊乱記』に、蒲生氏郷軍は鉄砲や矢を飛ばし一度に攻め込むが伊賀勢もこれに忍者得意のゲリラ戦法で応戦した。氏郷軍には望月猪太郎という屈強の大男がいて伊賀軍を苦しめたが山内左右衛門尉が討取った。 しかし多勢に無勢で徐々に伊賀側が不利となり夕方頃には落城した。 山内氏は永禄11年(1568)に近江元守護の六角承禎が伊賀に逃れた時と天正元年(1573)石部城に籠城した時に承禎より「感状」を受けている。雨請山登山入口に、山内家石碑と渡来系の石像2体がある。【写真 山内家碑と渡来系石像】


山田ノ八右衛門

『萬川集海』に登場する忍術名人の忍者。姓は瀬登。『萬川集海(隠忍篇)』に、陰陽両術を使った例としてあげられる。 八右衛門がある男と敢国神社の祭礼の日に男の腰の刀を盗み取るという賭けをした。男は用心し八右衛門を見張っていたが、八右衛門は岩上に腰をかけ一休みしていたので安心し雑踏の中を参拝を済ませた。 しかし、帯刀の中身はすでに抜き取られていた。八右衛門は姥に変装し賽銭箱の陰から男の刀を抜き取っていた。岩上に休息していたのは替え玉で、八右衛門は変装の名人でもあった。この術を双忍の術と呼ぶ。 大山田村出自の伊賀者には、長井又兵衛と田中安丞が藤堂藩に仕えており、彼等は鳥目付としても活躍する。【写真 平田にある風景と鬼の燈籠】


曽我一族

下阿波には代々藤堂藩に伊賀者として仕えていた阿波庄右衛門、植田覚左衛門、曽我五郎兵衛の3人の伊賀者の名が、『宗国史』や『伊賀付差出帳』に記される。 曽我五郎兵衛は、慶長19年(1614)にも記されている。大坂夏の陣の戦闘要員であっただろう。 3人の伊賀者うち、五郎兵衛だけが、上野城下の忍町に、伊賀者屋敷の一人に名を連ねている。 曽我家はその後、200石取として、藤堂藩軍師に出世しているのも特筆される。曽我一族の菩提寺の神幢寺(じんのどうじ)は天正伊賀乱にて焼失したが、その後、修験者林昌院が再興。侍墓ともいわれる。 同寺の墓地には烏八臼(うはっきゅう)と俗称される字を頭に入れた珍しい石碑がある。これは救縛の故事になぞらえた成仏保障の呪文。【写真 曽我五郎左衛門の陣羽織】


島ヶ原党

島ヶ原党は源頼政家来の渡辺競一族の後裔と称し「三星下一文字紋」の家紋を同じくした。 元弘元年(1331)に笠置山合戦で後醍醐天皇側として参戦した。その際に下賜された菊紋陣幕と太刀は島ヶ原党の象徴として保存されたと云う。 『太平記』に、「追っ手の木戸、西の坂口は伊賀伊勢の兵千余騎に堅めたり」という伊賀節の中心は地理的にも島ヶ原r党であったことは、考えられるだろう。 長享元年(1487)の伊賀・甲賀の忍者が活躍した鈎の陣にも、島ヶ原党も伊賀衆の一員として参戦した。 『勢州軍紀』や『小川新九郎聞書』には、天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れると、伊賀地侍衆は蜂起したが、この時鎮圧に向かった織田勢は島ヶ原党の激しい抵抗にあい深追いを避け兵を引き上げたとある。 これを第3次天正伊賀乱とも呼ぶ。【写真 善福寺】


菊岡如幻

菊岡如幻は寛永2年(1615)に生まれるが、出自は清和源氏頼政の流れをくみ島ヶ原菊岡村より起こる。本名捨松、随性軒とも称した。 如幻は伊賀上野で質商を営む裕福な商家を継ぐ一方、学問を好み北村季吟に師事し和歌をよくした。文筆家として、延宝7年(1679)の天正伊賀乱の悲劇を伝えた『伊乱記』は、伊賀衆と織田信長との戦いを描いた傑作であろう。 他にも、荒木又右衛門仇討ちの実録『殺法法輪記』、伊賀の地誌『伊水温故』、民話を集めた『茅栗草子』、そして150巻にのぼる大著『世諺一統』などの著書がある。 特筆されることは、如幻は『伊賀国忍術秘法』『伊賀忍者考』という忍者について記述した本も書いている。そう意味では初代伊賀忍術研究家と言えるであろう。 墓所は上野市九品寺にあり、戒名は菊岡如幻らしく法號夢如幻居士となっている。【写真 菊岡如幻生誕家の石碑】


藤原千方

地元では「千方将軍」の伝説がある。『太平記』によると、平安の頃、藤原千方という者が4匹の鬼を使って謀反をおこし、朝廷側を苦しめた。 それぞれの鬼は、射ても矢の立たない「金鬼」、大風を吹いて敵城を吹き飛ばす「風鬼」、大水を流し敵兵を一人残らず押し流してしまう「水鬼」、そして、姿を隠して敵を潰した「隠形鬼」である。 鬼達の行動はまさしく忍術を使ったと考えられ、伊賀忍者のはしりだった。 しかし、鬼達を征伐に行った紀朝雄が「草も木も我が大君の国なればいづくか鬼の棲なるべし」という歌を詠むと、鬼達はたちまちのうち逃げ去り、千方も降伏したと伝わる。 なお、この千方伝説は、当地だけでなく、青山町東部の霧生、白山まで古くから流布している。【写真 千方窟】


滝半九郎

藤堂藩伊賀者に滝半九郎という忍者がいた。 寛永13年(1636)、「伊賀付差出し帳」末尾の「忍衆廿人名寄」に、切米拾八石四人扶持・滝半九郎の名が記される。寛永・寛文期の上野城下町絵図の忍町に屋敷がある。 地名どおり滝には見応えがある滝がいくつかある。滝地域北部は旧大山田村坂下(さかげ)に接する。坂下に源を発する上津川が、滝集落西部を流れる。 滝家近くにある滝仙寺寺伝には、天正7年(1579)、第一次天正伊賀乱の際に、滝三河保義という勇敢な郷士がいた。織田信雄が国境を攻め入ろうとすると、迎撃の軍を率い、敵将柘植三郎左衛門尉の首を討ち取った。 しかし、戦況に利無く保義は討死。2年後の第二次天正伊賀乱で、信雄軍勢が攻め入り討ち滅ぼされる。本能寺の変後に、阿弥陀如来像、大威徳明王画像などを滝村に持ち帰り滝仙寺を開いたという。【写真 竜泉仙寺】


百地丹波守三太夫生

三大上忍の一人『賊禁秘誠談』によると百地三太夫は天下の大泥棒石川五右衛門の師匠で有名であったが、三太夫の名は史実的には見出せない。 『伊乱記』に、天正伊賀乱に参加した百地は百地新之丞、同太郎左衛門、喰代百地丹波となっている。 しかし、三太夫がまったくの創作だと言えない説もある。竜口が伊賀猿楽の本拠地で白山神社の棟札には十人の太夫衆の名があり”太夫”の名が多かったからだ。 竜口は伊賀と大和があり、双方一族共黒田の悪党で有名な大江一族であり、戦国期に有力な地侍であった百地氏が竜口を南北にまたぐ城山に砦を構え、南伊賀一帯を支配していた。 現在は「伊賀まちがと博物館」に登録され、予約を入れれば見学できる。【写真 百地三太夫石碑】


夏焼太夫

名張北部黒田に夏秋という集落がある。地元では「ナッチャケ」と呼ぶのは夏焼と呼んでいた名残と考えられる。夏焼は夏の作物が日焼けする土地の事。 『東大寺文書』によれば黒田の悪党大江貞房は夏焼兵衛尉と呼ばれた。 永久元年(1113)夜中に天皇家御物がある蘭林坊に夏焼太夫と神仁一味が忍び込み孔を開けて御物を盗んだ。左衛門志明兼が追跡し桂川付近で合戦し夏焼は松尾山に逃れ明兼の郎党は傷ついた。 『長秋記』に京に戻った宿で検非違使平忠守が犯人を追捕した。夏焼は手下を訓練させていたので侍達と互角に戦えたのだろう。 戦後になり、名張川より、夏焼神社にあった灯籠の一部が発見される。



滝之原八人衆

滝ノ原八幡神社で行われる祭礼は「若子祭」「おまと」とも呼ばれる。歩射の神事が古くから伝わる。 祭日は1月9日。血盟の杯・歩射・神前式・祝座からなる悪霊退散を祈る神事が古来のしきたりにより行われる。 注目されるのは古来より定まった八人衆の存在。滝ノ原の地は平家の落武者伝説、北畠の残党が身を隠したとの伝えがある。 平氏にかかわる傍証としては、下出不動寺の近くにアマコウゼン山と称される雑木林がある。尼御前墓が訛ったものだろう。中腹には古びた石塔が祀られ、付近一帯を女王堂ともいう。池禅尼との由縁を伝える。滝之原は池尼禅の所領であったっという。 『吾妻鏡』に、池尼禅は平忠盛の後妻で、清盛の継母になる。平氏没落後も禅尼の所領は安堵されたとある。 すなわち、この八人衆が戦国時代、北畠派に属する滝之原の伊賀衆と考えるのは想像にあまりある。 【写真 八幡神社】


服部半蔵

三大上忍の一人。服部半蔵は伊賀忍者の代名詞であるが、半蔵保長は上野の予野の旧名を姓として千賀地半三保長ともいう。 半蔵正成は保長の子で、早くから伊賀を出て家康に仕えた伊賀忍者の頭領として有名である。 天正10年(1582)の神君伊賀越では、半蔵正成は伊賀者200人と供に家康を助けたとある。その後、八千石の旗本となり与力30騎、伊賀同心200人の頭領として活躍し世に鬼半蔵と呼ばれた。 『寛政重修譜家緒』に、「三河国西郡宇土城夜討の時正成16才にして伊賀の忍びの者6,70人を率い城内に忍び込み戦功を励ます」とある。忍術秘伝書『忍秘伝』は、初代服部半蔵保長が著して、正成に授けたと伝わる。【写真 千賀地城址の服部半蔵と藤堂采女生誕地の碑】


 服部持法

南伊賀黒田の悪党大江氏と並び、北伊賀には服部惣家、名誉大悪党張本と呼ばれた服部右衛門太郎入道持法の館跡がある。 『三国地志』に「服部氏宅址按、平内左衛門家長、初此に地着すと云」とある。 荘園名主の武士化が進み、東大寺の荘園支配に武力で反抗する勢力を悪党と呼んだ。東大寺はこの悪党を鎮圧するように鎌倉幕府や六波羅探題に再三訴えた。しかし鎌倉幕府御家人服部持法は消極的であった。 『東大寺文書』によると、嘉暦2年(1327)には時の守護仁木太郎義覚と高畠右衛門太郎入道持法自身が山田有丸荘に乱入し御家人より悪党に転化する。【写真 服部氏館跡】


藤堂采女

『寛政重修諸家譜』によると藤堂采女元則は服部半蔵正成とは同族の予野生まれ。 その後紀州土豪保田氏の保護を受け、藤堂高虎が今治に居た時代より高虎に仕え、慶安4年(1640)に上野の城代家老を世襲する藤堂采女家を興し七千石を与えられている。 采女家が城代職になり藤堂姓を許されたのは伊賀地侍の名族服部家の出自故、伊賀地侍達の懐柔の目的であったと云われる。 『伊賀付差出帳』には、元則、元住は伊賀全土の郷士を調べ登録し、鉄砲組や忍び衆等の組を作った。藤堂采女故郷碑は服部半蔵故郷碑、伊賀乱供養碑と共に予野の千賀地城址にある。【写真 上野市西連寺にある墓】


上野ノ左

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人の忍者。菊岡如幻が著した『伊賀国忍術秘法』の冒頭に『萬川集海』と同じく忍者の勇士として11人の名があり、「上野ニ左兵衛、高場氏、是に子細在り」とある。 上野は室町期より名がある。『伊乱記』には天正伊賀乱で比自山籠城勢揃の中に上野村の高場氏(馬場氏と記す写本もあり)の名があり、上野村では上野氏と並ぶ土豪であったことがわかる。 伊賀惣国一揆評定衆12名は、仁木義視を最後の伊賀の守護として迎え、上野平楽寺に殿館を造ったとある。 しかし、仁木氏も室町時代は先代の仁木太郎義覚が悪党化し服部氏らと共に東大寺領荘園を侵したこともあり、ある意味では忍者であったのであろう。


神戸ノ小南

『萬川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。南伊賀では唯一の忍者であった。 文献としては菊岡如幻の『伊賀国忍術秘伝』、明和年間の岸勝明の『伊賀考』にも神戸の子南の名があるが活躍の記録としては文献にその名を探すことが出来ない。 『伊乱記』によると、神戸は戦国末に伊賀の土豪達が「漸く神戸の郷、天童山に集まり、各々評定して和談を調へ」と有り、上野の平楽寺とならび伊賀衆達の評定所の一つが神戸にあったので伊賀の土豪が集まっていた重要地であった。 また、神戸神社には今なお宮座が九座あり、それらの座は戦国時代より郷士が中心となって地域の指導的役割を果たしていたと考えられ、忍術名人の神戸の子南がいたのも納得がいく。【写真 神戸神社】


藤林保武

『萬川集海』の著者藤林佐武次保武は三代上忍の一人である藤林長門守の孫にあたる。 『冨治林家由緒家』によると、冨治林保武は東湯舟から上野万町に移り墓所が西念寺にある。別名は伝五郎、又の名を保道あるいは保高と云う。 元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召された。しかし高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わる。 長門守の孫の第4世冨治林正直は『三国地志』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当している。 冨治林正直の遺言により伊賀者稲増次郎左エ門に『萬川集海』6冊と『伊賀軍法之書』を送ると言う目録があり、さらに第5世冨治林直は稲増次郎左衛門に忍術免許皆伝を許している『稲増家由緒書』。【写真 藤林保武の墓】


伊勢三郎義盛

武蔵坊弁慶と並ぶ義経四天王の一人。 『正忍記』に源義経が忍びを使ったとある。これは伊勢三郎義盛一党のことと考えられる。別名、義経が会った時は、焼下小六という名で鈴鹿山の山賊頭領であった。 『伊水温故』に、幼少の頃、村之長である中井と云う者に育てられ、この村を三郎村と呼んでいたのだが、伊勢三郎義盛の名よりこの村を三郎村より転じ才良と呼ぶようになったとある。 伊勢三郎も忍者の祖とされ、特に『義盛百歌』という忍者の心得を歌にして伝えたものがあり、『萬川集海』にも多数引用されている。一例をあげれば「忍びには習いの道は多けれどまず第一は敵に近づけ」などの歌があり、忍術のポイントを歌にし非常に興味深い。【写真 伊勢三郎義盛の碑】


 役の行者

霊術を身につけ天を飛んだという話も残っている呪術者。 役行者小角、役優婆塞とも呼ばれる。 「鬼神を思うままに使い、水くみや柴を採らせ、命に従わなければ呪術で縛って動けなくした」と噂され、遠流の罰に処された。 また、孔雀明王の呪法を修め、霊術を身につけ天を飛んだという話も残っている。


忍者の歴史

伊賀四十九院

弥勒寺は四十九院の一つであった

『伊水温故』によると田守とも称した。木津川支流久米川下流の地にあり、行基が聖武天皇の勅を奉じ諸国に四十九院を創建しその1院が当地に建てられ四十九院村と呼ばれる。

伊賀は大和と共に現世仏教が布教れた地であり、その土台になったのが伊賀四十九院であった。弥勒菩薩を本尊とし平安朝の中頃から山伏達が兵法、武術、忍術を教える学塾になった。生み出した第一号の山伏兵法習得者は藤原千方と云う。

弥勒寺は四十九院の一つであったが天正伊賀乱で兵火を経て明治40年(1907)に廃寺となった。しかし今も乳授けの祈願者が多い。中世の土豪として増田氏、中森氏、知高氏の城跡が残っている。

明治5年(1872)に弥勒寺は廃寺となる。【写真 弥勒寺廃寺】


伊賀越え

明智光秀の反逆のあと、徳川家康による命がけの脱出。


徳川家康はその生涯で四度の大難に遭ったと心の中の思いをのべていますが、中でも「伊賀越えの難」は「御生涯艱難の第一」と徳川実紀に記しています。 戦国の風雲児・織田信長が明智光秀の反逆によって生害という知らせを家康が受けたとき、境見物の帰路、河内の飯盛山の麓(大阪府大東市)でした。この時の共は酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、服部半蔵など重臣ばかりであったが、三十数名に過ぎず、その上、平服だったのです。 家康は「本来なら明智を討伐すべきだが、この少人数ではどうしょうもない。むしろ知恩院にて切腹を」と言ったが「本国に帰りの軍勢をととのえて、明智を誅伐することこそ信長公への報恩」という本多忠勝の進言により、脱出の方途の相談となりました。

信長より案内役として同行していた長谷川秀一の先導により、おそらくは河内尊延(円)寺(大阪府枚方市)から宇津木越えから、山城に入り草内から木津川を渡って宇治田原を経て近江信楽。その後小川から多羅尾、御斎峠、伊賀丸柱にいたり鹿伏兎を越えて伊勢にぬけ、船で三河へ帰国したいと考えられます。

伊賀に入るまでの難関を命がけで護衛したのが、大和の十市玄蕃允、呉服部明神の神官服部貞信、信楽の豪族多羅尾光俊、宇治田原の山口光広、近江瀬田の城主山岡景隆と弟の景友(後の道阿弥)らです。反乱には付き物の野伏や一揆などにさいなまれはしましたが、無事伊賀に入り、その後は柘植三之丞など甲賀・伊賀の地侍が伊勢白子浜(鈴鹿市)まで案内したと言うことです。この事跡を後世、神君伊賀越えなどと呼んでいます。

家康は、この時の甲賀・伊賀者二百名を召し抱え、服部半蔵正成をその組頭としました。これが伊賀組同心の起こりです。

参考文献「徳川実紀」「伊賀者由緒」「三河後風土記」


天正伊賀の乱

二度にわたる、織田信長と伊賀国との全面戦争


戦国時代の伊賀国は、在郷の柘植、川合、長田、名張など国人衆により分割統治されていました。またそれらは一族ごとに「党」を形成して団結していたのである。 天正七年(1579)、かねてより伊賀の「権力に屈することなき(万川集海より)」独立統治に不満を抱いていた織田信長の伊賀支配は、北畠信雄(信長の子)挙兵というかたちで始まりました。天下人と一国との全面戦争の勃発です。 信雄は阿波口、鬼瘤越え、伊勢口の三道より攻め込みました。伊賀の諸豪はいち早くその動きを察知し、天童山、大岡寺、上野の平楽寺などを拠点に迎え撃ったのでした。結果は地の利をいかし、火薬の扱いに長けていた伊賀軍に軍配が上がり、織田軍は撤収しました。これが第一次伊賀の乱です。 惨敗に激怒した信長は、天正九年(1581)、安土に諸候を召集、伊賀攻めを発表。当時の伊賀国の人口の半分にあたる五万弱の兵を率いて伊賀を進行したのです。この時伊賀軍はわずか数千。それでも一カ月間持ちこたえたとされてますが、人口の半分が死に、全域が焦土と化し、一切の建造物は潰滅したことが記録(伊乱記)に残っている。 こうして第二次伊賀の乱は、歴史に残る最大の悲劇で幕を閉じました。一国の庶民、武士が一丸となって、時の権力者に敢然と立ち向かった影に、忍者の活躍があったことはいうまでもありません。


忍者の起源

6世紀に志能便(しのび)が聖徳太子につかえたという記録が残っている。


はじめて忍者が記録に出てくるのは、6世紀に大伴細人(おおとものほそり)という人が志能便(しのび)として聖徳太子につかえたという記録が残っています。 大伴細人は伊賀か甲賀の出身と言われている。


忍術の発祥地

日本全国の忍術の流派の多くは、伊賀流と甲賀流が起源でした。

伊賀(三重県)と甲賀(滋賀県)の実技が最も優れた忍術と言われています。 伊賀と甲賀は京都に近く、渡来人がもたらした先進的な文化があり、政治的な亡命者も多かった。また、山の多い地形がゲリラ的な戦術を発達させました。

日本全国に忍術の流派がみられますが、その多くは伊賀流と甲賀流が起源でした。


花垣の八重桜

【写真 花垣神社の芭蕉句碑】

服部一族氏神。服部半蔵(千賀地半蔵)家は紀州保田庄の豪族の出で当地の服部家を継いだ。興福寺領であり古来より八重桜が本当に美しく花垣郷と呼ばれた。

予野は『沙石集』巻九の「芳心アル人ノ事」の段に著名な起源伝承がみえる。この花垣の桜があまりにも綺麗であったので、上東門院彰子が寺の別当に運ばせようとした時、大衆が憤慨し法螺貝を吹いたりし別当を追放せよと騒いだ。

そしてその風流心に感じた彰子は花を守る宿直を置いた伝わる。今なお神社すぐ近くに「花守」姓の方が住んでおられる。

また松尾芭蕉はこの地を元禄3年(1690)に訪れた時、「一里(ひとさと)はみな花守の子孫かや」と詠んだ。


鍵屋の辻

【写真 数馬茶屋】

越鍵屋の辻の決闘は、寛永11年(1634)、現伊賀市荒木馬苦労町、鍵屋の辻で起こった。 事の起こりは、寛永7年(1630)、岡山藩主池田忠勝の小姓であった渡辺数馬の弟、源太夫が、同僚の河合又五郎に斬り殺されたことにある。数馬は義理の兄である荒木又右衛門に助太刀してもらい復讐を遂げた。 又右衛門は伊賀荒木で出生。しかも、忍者の名門服部一族の出自だ。荒木には又右衛門生誕の碑があり、そこの看板に又右衛門の幼名が丑之助と記される。 名から判断しても、生まれたときから体が相当大きかったようだ。荒木又右衛門と名乗って所持した刀「法橋藤原来金道作」の長さは83.5cmある。所持する者を推測すれば身長は180cmを越える。 小回りがきかなければならない忍者には適さないので剣術家となったという説にはうなずいてしまう。


忍町

【写真 忍町の武家屋敷】

今なお”忍”の名が残る上野市三之町筋南側には、かつて藤堂藩伊賀者の屋敷があった。『宗国史』には雑色廠とある。 寛永(1624〜1643)や寛文(1661〜1672)頃の絵図には、三之町筋の南の道が外馬場と記され、その中央部南側の重臣の下屋敷一軒分足らずの地域に伊賀者10人ほどの名(黒岩安右ヱ門、服部七右衛門等)が、記されており、その一部に伊賀者屋敷があった。 伊賀者は参勤交代での江戸詰と伊賀詰めの2班に常時分けられ、忍町は伊賀詰め伊賀者の居住地であった。 しかし、伊賀者屋敷は享保頃(1716〜1735)の絵図にはもはや見あたらず、中期以後は加判奉行の役宅、安政5年(1776)以後は普請奉行宅に詰めたと思われる。


青蓮寺村

【写真 青蓮寺城】

『東大寺文書』に、青蓮寺は11世紀より現れる。鎌倉末期、「黒田庄悪党交名注文」に、黒田悪党の一味であった青蓮寺孫五郎静蓮、滝野七郎、名誉の悪党といわれた青蓮寺八郎らの大江一族がここに勢力をはっていた。 地形的には南東部は急崖で青蓮寺川に臨み、南は山で大和国に繋がる。二つの谷の水は西に流れ、合流して釜石川となり宇陀川に注ぐ。つまり、自然の要塞といっていいだろう。 古墳も多く、伊勢平氏が隠れた伝説もある。俗称ヘゲヤシキ(平家屋敷)や入道谷の子字がある。戦いに敗れた武者が潜む地が多い。 戦国期、青蓮寺城が作られる。地蔵院の北裏にあり青木城とも呼ばれるが、元は青蓮寺一族の城だろう。四方の土塁の幅が広く、東・北・西の三方に空堀が有り深い。 『伊乱記』で、柏原合戦のときに、青蓮寺新兵衛の名が見える。


黒田庄

【写真 黒田庄遠景】

黒田庄は東大寺支配板蠅杣に始まった、南伊賀大半を占めた古代、中世の大荘園。弘安年間(1278〜1288)、黒田荘は東大寺配に反抗勢力の拠点であった。彼らを黒田の悪党と呼ぶ。 悪は「悪者」でなく「強者」という意味。黒田の悪党は黒田荘下司大江氏であった。北伊賀の悪党と共に東大寺に従わず強力な地侍の連合体として成長していき戦術集団として組織化された忍びの原型が見られる。ゲリラ戦を得意とした。 東大寺は再三再四足利幕府に悪党鎮圧を要請したが成功せず、南北朝の時代には黒田の悪党は南朝側につき、その際河内の大悪党楠木正成も呼応して挙兵しており、やがて荘園体制が崩壊してゆき悪党は地侍、国人となり、その中の何人かが忍者と呼ばれる傭兵と考えられ、その傭兵を抱えた国人衆が織田信長に対抗するために「伊賀惣国一揆」を結成することになっていく。


観阿弥創座の地

【写真 観阿弥像】

楠木正成が悪党として足利尊氏を悩ませたのことは有名だ。忍術秘伝書に楠木正成が忍者の始祖と記される。 『上島家観世系図』が伊賀で近年発見された。正成の妹か姉が観阿弥の母親にあたるという。「母河内国玉櫛庄橘入道正遠女」と記される。 橘入道正遠は楠木正成の父、正遠女が嫁いだ相手は伊賀有力御家人服部姓をつぐ浅宇田荘元成。その後観阿弥は長谷の猿楽師の元に預けられ座を立てる。 「観阿弥が座を立てた後、故あって母の素性を明さなかった。」とある。これは観阿弥が足利に対立していた楠木正成の甥であるのを隠すため。忍びと猿楽芸能民との関係は深い。 猿楽などの職能集団は各地を転々としたので諜報活動にはもってこいの職業で各地の情報入手は容易だった。「七方出」という忍者が変装する形態の一つが猿楽師だった。 ところで観阿弥が創座した地が、名張小波田であったという。伊賀と観阿弥との関係が深いことから、伊賀が創座の地と言っていいだろう。


忍びの活動

武器

諜報活動のためのアイテムや、武器、服装など、忍者が使った道具の紹介。

手甲鉤 敵の刀を奪い取ったり、攻撃に使用。

手鉤 高所に登るとき引っ掛けて体をささえた。いざというときの武器にもなる。

万力鎖 鎖の両端に分銅をつけた護身具。

分銅つぶて 分銅形のつぶて。他に縁を利用して釘の頭を出し真ん中の穴に引っかけて釘を抜くのにも利用した。

双刃鎌 両刃になっているので引いて切るだけでなく棟刃の方で押し切ることもできる。
刃は約12cm、柄は約15cmで折りたたむことができ、見つかっても農具なので、疑われることはない。

吹き矢筒 吹き矢は、先端に毒を塗り、主に暗殺用に使用。
忍者は、普通の笛の内側に張り付くように紙を入れ、穴をふさいで吹き矢の筒にした。

鎖鎌 鎌とおもりとなる分銅を鎖で結んだ武器です。

忍者刀 まっすぐな形状で鍔は四角くコジリが尖っているのが特徴。
一般的な日本刀と違いまっすぐな形状で鍔は四角くコジリ(サヤの先端)が尖っているのが特徴。 切りつけるのではなく突きさして使う。

手裏剣 敵に投げつけて傷をおわせる道具。
羽先には毒薬を塗っておく。 手裏剣の射程距離は熟練者で6〜7m程度と短いものの、刀で接近戦を行っていた時代には十分な距離を持って相手を攻撃できる優れた武器であったといえます。


火器

火薬入れ、煙硝入れ 火薬・煙硝を入れていたもの。水に濡れないように使用。

大筒 忍者は大口径の大筒や長鉄砲、木砲など種々な鉄砲を開発し、巧みに使用した。
特に木砲は鉄や鉛の弾丸を打つより、鉄片や小石をつめて射ちかけるので一度に多数の敵を殺傷するのに適した。また簡単に、安価でできるので運搬しやすく壊れても惜しくないといった利点があった。

埋め火 伊賀には、火薬の材料が豊富にあった。ヨモギからもぐさ、クスノキからショウノウ、そして馬ふん。これを用いて「埋め火」という現代の地雷まで作っていた。(写真は原料の一つ)

鉄砲 忍者はもともと火薬を得意としていたので、鉄砲の扱いにも熟知していた。
そのため戦国大名に重宝された。

 百雷銃 爆竹に類似した花火。連続的に轟音を発する。

火矢 味方に合図を送るときなどに使われた弓の矢。現代のロケット花火のような弓の矢で、味方に合図を送るときや敵陣に打ち込んで撹乱させるのに使われました。また、「ほうり火矢」といって手投げ爆弾のようなものもありました。
※火薬の使用は忍者が得意とする技術で、鉄砲はもちろん、のろしや爆弾、照明用としても用いられました。


防具

忍び甲冑 戦時中、敵陣に忍ぶ時には、一種の鎖帷子でもある忍び甲冑を忍び衣裳の下に着ることもある。

鎖帷子 刀や手裏剣から身を防ぐものと思われがちだが、実際には重く、あまり着用しなかった。
むしろその重さを利用し跳躍力をみがくため修行時に着たと思われる。

胸当て忍者が鉄砲よけに着用した胸当てで、今でいう防弾チョッキ。

仕込杖 関所を越えるために旅人が持つ杖や僧に変装し錫杖に剣を仕込んだもの。鎖や分銅、目潰し、槍などを仕込んだものもある。

火打鎌・小鎌 火打鎌は振って火打石にあてて火をおこす道具。小鎌は携帯用の鎌。 


忍者はあまりにも奥が深すぎるため何話で終了できるかわかりませんが、現在午前1時を回りましたので続きは明日以降にして、「壱の巻」を終了いたします。

                                 

鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(順不同)

伊賀流忍者観光推進協議会 TEL:0595-22-9670
〒518-0869 三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階 

伊賀市観光戦略課 Tel:0595-22-9670 
〒518-0869 三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階 

徳川美術館 〒461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町1017 電話: 052-935-6262

櫻本坊 〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山1269 TEL 0746-32-5011


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