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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 160 (07/01/22) 旧知念村 (7) Chinen Hamlet 知念集落 (2)

2022.01.08 10:58

旧知念村 知念集落 (ちねん、チニン)


知念グスク入り口に置かれていたガイドマップ


知念集落走行ログ



1月3日に続いて、今日も知念集落を訪問する。知念集落には多くの文化財があるので、2日間にわたっての訪問となった。先日は知念グスクと丘陵上部を巡ったが、今日は丘陵の斜面に伸びる集落内と海岸沿いにある文化財を巡る。


大屋 (ウフヤ) 神屋

旧知念村は現在の集落の西側になり、国道331号線を挟んで、南側の海岸線に降る急な丘陵斜面に下へと広がっている。国道331号沿い階段を降りると大屋 (ウフヤ) 門中の神屋がある。「大屋」と書かれた標柱ががあり、その傍らに大屋の拝屋が建っている。神屋の内部は見れなかったのだが、中には神棚、火ヌ神、「帰真知念按司女子口神 (知念ノロの位牌)」と「帰真知念按司神位 (知念按司の位牌)」と書かれた位牌が祀られている。ここで祀っている知念按司は知念グスク新城を築城した内間大親のことで、知念大屋の先祖とされる。知念ノロ屋敷跡と知念按司墓は先日 (1月3日) に訪れた。知念大屋が旧知念村の根人を出し、知念城の祭祀をとりしきっていた。現在は、2月15日の二月ウマチー、4月 のアプシバレーの前日のミチシマ、5月14 日の五月ウマチーの三日崇べ、6月14日 の六月ウマチーの三日崇べ、6月24日のア ミシヌ御願が行われている。


与那城前之井 (ヨナグスクメーヌカー)

大屋 (ウフヤ) 神屋の坂道を少し下った所に与那城前之井 (ヨナグスクメーヌカー) がある。中之井泉 (ナカヌカー) 友いう。これは戦後の共同水道跡で、昔ながらの井泉ではなくコンクリート製の水遭が置かれている。ツタで覆われて、水槽の形は写真では確認しずらいのだが、戦後はこの水槽から旧知念村住民が水を汲んでいた。


久美山井泉 (クベーマガー)

与那城前之井 (ヨナグスクメーヌカー) から道を下ると久美山井泉 (クベーマガー) という井泉がある。この地域は久美山 (クビヤマ) と呼ばれ、久美山部落住民の飲料水や産井泉 (ウブガー) として利用されたいた。


親川 (ウェーガー)

更に道を下ると、立派な屋敷があった。ガイドマップではこの辺りに親川 (ウェーガー) の井戸跡があるとなっていたので探すが見つからない。屋敷の門柱にウェーガーと刻まれているのを見つけた。どうもここが親川 (ウェーガー) があった場所のようだ。この屋敷も屋号を親川 (ウェーガー) というそうだ。

この屋敷には広い庭があり、そこに空手道少林寺流命名の碑が建っていた。現在の那覇市にある旧真和志村 真嘉比集落を訪れた際に、沖縄空手の三代流派の一つの首里手 (シュイディー) 三拳聖 (松村宗棍、糸洲安恒、花城長茂) の墓を訪れた際に、首里手の分派にこの少林寺流があったことを思い出した。

松村宗棍門下の喜屋武朝徳は、授けられた八つの型をそのまま保存継承するという無修正主義を尊重し、弟子たちに伝承した。型が次々と変化していく現代の空手界の風潮に対する反動としての型の無修正主義で、源流にたちかえるという理念のもとに、中国拳法の始源といわれ、さらに沖縄の「手」の発達に大きな影響を与えたと考えられる中国の少林寺拳法に因み「少林寺流」と流派の命名を行った。この場所に喜屋武朝徳の弟子の仲里常延が少林寺流道場を開いている。



坊主井泉 (ボージガー)

坂道を下り切った所にもう一つ井戸がある。坊主井泉 (ボージガー) トよばれ、この井戸にハ逸話が残っている。尚賢王の時代、1640年に首里王府に仕えていた達筆な役人であった久手堅親雲上政常は、友人から上司に提出する毛筆書きの文書の代筆を頼まれたが、筆跡で代筆が判ると久手堅親雲上政常は固辞したが、友人の執拗な嘆願で、不本意ながら承知した。久手堅親雲上政常は、筆跡がわからないようにと足の指に筆をはさんで書いたのだが、文書を受け取った上司は、久手堅親雲上政常の筆跡と見破り、後になって足で書いたことまでわかり、無礼な奴だと怒り、久手堅親雲上政常を知念の浜で処刑することになった。このいきさつを知った仲里家 (先ほど訪れた少林寺流から手道場がある屋敷) の人が久手堅親雲上政常の髷を切りおとし、処刑したことにし、その髷を首里王府に提出し処刑報告を行った。救われた久手堅親雲上政常は親川 (ウェーガー) の屋敷の近くの山の中に井戸を掘り、家を造って住み生涯を終えたという。死後は仲里家で墓に納骨し 位牌も祀られている。


久美山 (クベーマ)

坊主井泉 (ボージガー) の南、海岸の近く浜毛 (ハマモー) の畑の中の大岩の下に久美山 (クベーマ) の拝所がある。明治時代は現在地より南側の岩陰にあったが、戦後、護岸工事のため現在地に移された。竜宮と火ヌ神を祀っている。綱引の後は、ここで手綱を焼き、綱引が成功したことを感謝したという。


知念船溜

久美山 (クベーマ) から海岸にでる。海岸線には遊歩道が走り、海岸にはいくつもの奇岩が立っている。

砂浜が広がり、海水浴客も訪れるようだ。

吉富集落方面に進むと遊歩道の終点に知念船溜があった。小さな漁港だが、数艘の漁船が停泊しており、何人かの釣り客が見られた。


神山之殿 (カミヤマヌトゥン)、神山之嶽 (カミヤマヌタキ)

知念船溜から内陸部に向かう。丘陵の裾に神山之殿 (カミヤマヌトゥン) がある。ここにある説明板ではこの殿は神山之嶽 (カミヤマヌタキ) とも呼ばれているとなっていた。別の資料では、神山之殿 (カミヤマヌトゥン) と神山之嶽 (カミヤマヌタキ) は別物ともあり、どちらが正しいのかは分からない。ただ、どの資料にもにここの写真が神山之殿 (カミヤマヌトゥン) と神山之嶽 (カミヤマヌタキ) 双方の説明になっていた。

丘に上がると、広場になっており、その中央近くにアカギの古木が生えて いる。この木に接してに四本の粟石製の柱がある。これがかつて建っていた瓦葺きのアシャギの柱だろう。琉球国由来記には「神山之嶽知念村 神名森司嶽ツカサノ御イベ 右波玉巫崇所、右二ヶ所、毎年、三八月、四度御物参之有祈願也。」とあり、波玉巫 (波田真ノロ) により祭祀された首里王府祭祀の拝所であったと推察される。この場所は波田真村内にあたり、この辺りが波田真村発祥の地と考えられている。ただ現在ではこの辺りには民家はほとんど見られなくなっている。旧現在では殿 (トゥン) と呼ばれているので、神山之嶽であるかは確定はしていない。戦前は、5月4日にハーリーの祭祀が行われていたが、現在では知念区の祭祀は行われていない。村の拝所ではなく首里王府の祭祀の拝所であったことで、村落との関係が薄かったのが理由と考えられる。


平中 (ヒラナカ)、航海安全の神の祠

神山之殿 (カミヤマヌトゥン) から海岸沿いの道を北東に進んだ畑の中に火ヌ神を祀った平中 (ヒラナカ) と呼ばれる拝所があった。カママーイの航海安全の祈願も行うそうだ。この拝所付近はかつての波田真村内にあった平中地域で、そのことから拝所も平中と呼ばれている。かつての波田真村だったという。


浜家井泉小 (ハマヤーカーグワァー)

平中 (ヒラナカ) の拝所から、国道331号線に向けての登り道があり、その道の途中の畑地の中に浜家井泉小 (ハマヤーカーグワァー) の井泉跡があると資料にはなっていた。現在は拝まれていないようなので、そこへの道があるかわからない。畑の脇に森の中への道があったので、入っていくと畑仕事をしている人が声をかけてきた。行き止まりになっているという。拝所があるか聞いてみたが、知らないという。資料で得た知識を説明して、多分今では拝まれていないが、昔は井泉があったのではないかと聞くと、この道の先にみずたまりがあり、昔は飲み水として使っていたと聞いたことがあると話してくれた。おそらくそこがそうだろう。とりあえず行ってみますというと、ここはハブが多くいるので気を付けるようにといわれた。そういえば資料には、ハブの通り道になっているため、地元の人たちもあまりここには行かないようにしていると書かれていた。用心しながら道を進むと、石垣が崩れてはいるがそこに祠と香炉が置かれていた。ここが浜家井泉小 (ハマヤーカーグワァー) だ。香炉があるので、この井泉に世話になった人は個別に御願しているのだろう。1919年に地図にはこの辺りは知念とは別に「濱屋」となっている。以前はこのあたりに二、三軒家があり、海辺に近いことから浜家 (濱屋) と呼ばれ、その浜家の人たちが使っていた井泉がこの浜家井泉小。


火ヌ神 (9ヶ所)、竈廻り (カママーイ)

これでほとんどの拝所は巡ったのだが、知念集落では旧暦10月1日の竈廻り (カママーイ) と旧暦12月24日の解き御願 (フトゥチウグァン) には平中、久美山と9ヶ所の火ヌ神を拝む祭祀が行われている。竈廻り (カママーイ) とは竈 (カマド) まわりのことで、台所廻りの火災防止のために、集落内の主要な火ヌ神を廻りのだが、琉球王統時代は王朝時代の役人が各家庭を廻り、火の用心を促したそうだ。それが、村の行事となり主要な火ヌ神を廻って、火災発生防止を火ヌ神に祈る行事となっている。現在でもカママーイは多くの集落で行われてはいるが、だいたいは集落で火種を保管していたところにある火ヌ神だけを拝んでおり、この知念集落のように9ヶ所も巡る例は初めてだ。ガイドマップでは大体の場所が示されているので、そのうちどれだけ見つかるかと探してみた。結果は4つの火ヌ神が見つかった。9ヶ所の火ヌ神は海岸近くの集落から、坂道を登り国道331号線までに点在している。見つかった火ヌ神は海岸側から下記の通り。


火ヌ神 二番、宮城小之井泉 (ナーグスクグヮーヌカ-)

民家のそばにある大岩の下に祠があり、香炉が置かれている。この岩の裏側にはかつては宮城小之井泉 (ナーグスクグヮーヌカ-) があったようだ。


火ヌ神 一番、八番 (?)

坊主井泉 (ボージガー) 近くの民家敷地内にある火ヌ神が一番火ヌ神 (写真左)。前の坂道を登った所に 拝所らしきものがある。これが八番火ヌ神 (写真右) だろうか?これは自信がない。



火ヌ神 三番

火ヌ神 (二番) の北側の畑の側に割れた大岩があり、その割れ目の前方に祠があり、火ヌ神 (三番) が祀られている。


火ヌ神 九番

坂道の途中には四番から八番までの火の神があるが、見つからず。坂道を登り切り国道331号線沿いの民家の庭に九番火の神の祠が二つある。竈廻り (カママーイ) の祭祀では最後に拝まれる拝所。 


火ヌ神 四番、五番、六番、七番、八番 (未訪問)

見つからなかった火ヌ神の紹介が資料に載っていた。機会があればまた探すだろうから、その時の為に、ここに残しておく。四番 (左上) は親川 (ウェーガー) 隣の広場にあり、親川の神屋では大綱引の時に祭祀が行われる。五番 (右上) は与那城前之井 (ヨナグスクメーヌカー) 後ろの小道沿いにある。六番 (左下) は集落南西部の民家敷地内にある大岩の下にある。七番 (中下) は国道331号沿いの民家の後方にあり、民家横の駐車場に大岩を拝んでいたこともあるそうだ。八番 (右下) は農村広場の南西部の金網の外側に祠がある。かつて岩場だった農村広場に散乱していた骨片を合祀した拝所にもなっている。


今日は晴天で気温も20度を超えて、1月とは思えないぐらい。汗をかくぐらいだった。集落を巡って、所々で花が咲いていた。八重瀬岳では桜が咲いたそうだ。


来週は東京に一週間ほど行く予定なので、それまでは、江戸城巡りの下調べをするので、旧知念村巡りは東京から帰って来てからになる。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)