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ONCA|大洗自然と文化アーカイブズ

大洗磯前神社とその他の社寺|近世|大洗町史(第2編第4章第3節)

2017.12.07 11:40

一 大洗磯前神社の変遷

 蓋山(ふたやま)・笠置山・大扇山・五明山などと古くは呼ばれた山林 大洗山(おおあらいさん)に鎮座している大洗磯前神社は、数々の変遷を経て現在にいたっている。中世においては、摂社四〇余、神戸(しんこ)一千戸といわれ繁栄をきわめたが、永禄年間(一五五八~一五六九)の小田氏知の乱により灰じんと帰し、以後百数十年間、海ぎわに小さな祠を造って辛うじて存続している有り様であった(「磯浜誌」)。

 第二代藩主光圀は、社寺改革を推し進め、古社名刹の維持復興に努めたが、その一環として式内社(「延喜式」「神名帳」登録の神社)であり由緒のある大洗磯前神社の復興を思い立ち、元禄二年(一六八九)に磯辺より山の半復に遷宮を行い、同時に沖洲の鎮守であった宇佐八幡宮を社中へ移してきた(『新編常陸国誌』)。遷宮後の規模は、本殿が高さ九尺、表五尺、妻五尺の枋葺(ほうぶ)き、拝殿が表・長さ二間半、横九尺、前殿長さ八間半、横三間で、鳥居が一基あり高さ一丈一尺三寸、広さ一丈二尺であった。神体は石が二つで、一つは二尺五寸、もう一つは八寸とある(元禄九年鎮守帳・彰考館文庫)。次いで、第三代藩主綱條は、宝永四年(一七〇七)に仏を取り上げて神鏡(四寸四方)を奉納し(元禄九年鎮守帳)、正徳五年(一七一五)八月には安積覚に選文させて本縁を奉納した(『新編常陸国誌』)。

大洗磯前神社真景図(明治17年)(磯浜村 関根敬氏所蔵)


 大洗磯前神社は、古来、「鬼洗明神」と記されることもあったが、享保三年(一七一八)三月には「大洗明神」と正式に改められ、幕府にもその旨報告され、朱印文も訂正されている(水戸紀年(三))。そして、この享保年間(一七一六~一七三五)に山上(明治初年大洗磯前神社真景図の隨神門の辺り)への遷宮が村一同の力により行われた。このときの庄屋は与一衛門で大工棟梁は羽黒瀬平であった(「磯浜誌」)。遷宮は八月二十八日に行われたが、年号については享保十年説(『新編常陸国誌』・「磯浜誌」)と享保十五年説(水戸藩神社録)がある。なお、現在の宮座に引かれたのは寛政八年(一七九六)で、このときは出雲大社に習って玉垣の内は二五間四面とされた。その後、切石(階段)も整備されている。さらに、第九代藩主斉昭は、天保四年にしばしば参詣し、天保十四年(一八四三)には拝殿の高欄、屋根などの大修理を山戸彦衛門・田口半蔵などを責任者として行わせ、朱印高を増加させるなど厚い崇敬を示した(「磯浜誌」)。

 明治三年(一八七〇)の記録「水戸藩神社録」によると、本殿は高さ二丈六尺、表七尺二寸、横五尺二寸で堅魚(かつお)木三枚があり、拝殿は表三丈六尺、横一丈二尺余、随神門一間、表二丈四尺、横一丈三尺、石鳥居一基、高さ一丈三尺、広さ九尺三寸、鳥居一基、高さ二丈、広さ一丈六尺、とある。なお、明治三年九月二十三日に遷宮が行われたが、関根家(当時関根与一衛門)が本社の褥(しとね)ならびに畳を永代奉納することと決まっている。なお、そのときの「奉納寄附目録」の写しが「磯浜誌」に記されているが、当時の境内の様子を知ることができるので次に記しておく。

 鳥居(永代永町奉納)、石灯籠(正徳二年)、石鳥居(元文元年当村氏子中願主郡司兵右衛門、天保中に嵐で倒れ、氏子中また造る)、敷石(寛政九年)、神馬所(天保巳年の嵐に倒れる)、狛犬(太田村小林何某・当所米川久兵衛)、天水鉄甕(天保三年、世話人染屋七三郎)、原山見付くぼ鳥居(鈴木作兵衛)、石灯籠(田囗与三右衛門・加藤庄右衛門)、公家堂上方御筆三十六歌仙(川上治左衛門、毎年三月太々神楽に宝前にかける)

 また、明治十七年ころの大洗磯前神社の様子を描いた版画刷絵大洗磯前神社真景図が残っている(上図参照)。それによると、磯浜町明神町を過ぎて一の鳥居をくぐると、しばらくは松並木のみであるが、二の鳥居下のみたらし付近に休息所や料理店が数軒あり、二の鳥居をくぐり石段を上ると、右手には手水所、八幡宮、稲荷があり、左手奥には大杉宮、ホウソウ神などがある。さらにまっすぐ進むと隨神門があり、拝殿、中門、本殿と続いている。現在の境内と比較してみるとおもしろい。


二 大洗磯前神社の霊験

 海上に龍のように火が上がる「龍灯」という現象など、大洗の一帯は異常現象の起こりやすい地域であったが(「享保日記」 加藤松蘿館文庫)、それらは神的現象として神と結びつけられてきた。太平洋沿岸は毎年十一月より一月までの厳冬のころ、海上に濃霧がひどかったというが、磯前明神の前より鹿島の浦までの幅三十間ばかりはまったく海煙がなく、漁船も安全に通行できたという。そして、これは大洗明神がこの地に来住してきた道であると解釈されていた(「郷土大観」)。こうして漁民の信仰を集めるようになり、豊漁の神さま、海難事故からの守り神として崇敬されるようになった。大洗明神が地元の漁夫を海難事故から救ったという話は、とくに元禄から宝永のころに形成された。これは、この時期がちょうど光圀の援助により大洗磯前神社が再建されたばかりの時期にあたっており、神威づけの必要があったからであろうと思われる。そのいくつかを紹介しよう。

 元禄六年(一六九三)七月七日、銚子沖での鰹(かつお)釣りのとき、急に大風濤となり、溺死者七五六人に及んだが、磯浜の漁夫六三人は全員無事であった。これは、船が転覆するときに一斉に大洗明神を祈ったからであるという。助かった漁師たちは、磯浜に帰ると、すぐに絵師を雇って一大龍を木板に描かせて神殿に奉納したが、一人だけこれに頑として応じない者があった。この者はやがて口がきけなくなり目も見えなくなったうえ両足にできものができて、五日後に死んでしまったという(「磯浜誌」、水戸藩神社録付属、『新編常陸国誌』)。また、元禄九年(一六八八)七月二十六日、磯浜の舟子十五人が岩城領の漁夫たちとともに鰹漁をしていたとき、急に大風雨となり、船は破壊され溺死者三千人をだしたが、磯浜の舟子たちは小板の縁につかまり、一昼夜漂流したのも商船に救助されて全員無事であった。これは漂流中に大洗明神を黙祷していたからだという。同様の話は、宝永元年(一七〇四)七月にもある(水戸藩神社録付属)。このように海上安全に功徳が大きいとのことで元禄中には太々神楽がはじまり、海上烈風の大難からの無事を広前で祝詞(のりと)するようになった。この神楽は、百姓中の三十石地頭が力を合わせて執行したという(「磯浜誌」)。

太神楽の額 文化13年6月(大洗磯前神社所蔵)


 大洗磯前神社は、「大洗磯前薬師菩薩神社」の号も持っており、薬師は薬の神の意味であるという解釈が行われ、疾病平癒の神としても信仰が厚かった 注(1)。文政期の「常陸紀行」(黒崎貞享著)は、大洗磯浜神社が本邦医家の始祖であるとしている。とくに、眼病によいといわれ、磯浜にいる瞽(めしい:目の見えない人)は他村出身者だけだといわれていた(水戸藩神社録付属)。天保のころには、大洗みたらしの雲水がとくに効くといわれ、他国からも眼療のために多くの者が訪れ、茶屋が繁盛したという(「磯浜誌」)。天保十年(一八三九)には、長崎で医学を修行してきた大場村の医者入野氏が額を奉納している(「磯浜誌」)。

 このほか、鹿島灘の大かた十里ばかりの砂浜には小石がないのに、・大洗磯前と酒列磯前(那珂湊市)の辺りは今も年ごとに一夜の間にここに石が寄せてきて、正月十六日には民がこれを取ってつねに用いているが、まったくなくならない。これも両神が与えてくれたものだと信じられていた(「玉勝間」)。


三 別当と祠官

 大洗磯前神社には、文禄以前(小田氏知の乱による焼失前)多くの祠官がおり、神田もかなりあったようであるが、それは江戸時代になってからも字名・地名として残り、伝承されてきた。字惣根に大山寺という寺院を建て、明神の祭礼を取り仕切ったといわれる大山民部(常陸長者)の屋敷跡は「大山屋敷」と呼ばれたし(江原忠昭著『大洗地方史』)、「神官後」・「伯耆面」なども祠官に関係のある地たったことを示している。また、「磯浜誌」によれば、「漫米麺」・「反神地」・「堂面」などは神田であり、「鈴内」・「神楽面」は巫女あるいは神楽 祝子(はふりこ)の免除地であったという。この江戸時代以前の大洗明神の運営について、「磯浜誌」では、「大山民部と大洗山普賢院が支配していたが、やがて大山民部が絶家したのも、佐竹義宣の郡代人見主膳と普賢院の支配となった。さらにその後、小野玄蕃が郡代のときに、大塚大蔵へ祭礼免の三分の二、普賢院へ三分の一が分け与えられた」としている。この普賢院は、大洗明神の別当であり、社頭のほとりに位置し観音像を安置していたが、小田氏知の乱で焼失し、天童という所へ移ったという(「寛文三年開基帳」彰考館文庫)。なお、元亀元年(一五七〇)には、関根刑部・助惣・長兵衛・監物・鴨右衛門・弥作の六人が施主となり、普賢院に大般若経六百巻を寄付する事業を開始し、天正八年(一五八〇)に完成したという(「磯浜村暦代記録」)。

 大洗明神は、江戸時代に入ってからしばらくの間、海ぎわに小さな祠を構える程度に衰退していたが、式内社であり、常陸第七座としての格式だけは保って、慶安元年(一六四八)十月二十四日には幕府より吉田村(現水戸市内)に朱印地十石を下賜され、社中の竹木や諸役を免除された。このときの大宮司は大塚伊勢守(従五位下藤原朝臣)とある(「磯浜誌」)。寛文三年開基帳にも、この朱印地の記載があるが、それによると実高は吉田村の六石八斗七升二合であり、代々別当普賢院が領有していると記録している。なお、普賢院は、このほか無証文の除地を一石八斗二升三合所持していたこともわかる。貞享二年(一六八五)にも慶安元年のときと同文の朱印状が与えられ、その権利を継承したが、このときは普賢院の寺領分のうち五斗五升三合の畑が祠官に下賜され、同時に新たに村除地七石四斗二升四合が祭礼免として与えられ、普賢院が領したという(「磯浜誌」)。なお、元禄九年(一六九六)の「鎮守帳」(彰考館文庫)には、社領六石八斗七升二合とある。

 普賢院は、大洗明神の別当として、大洗山普賢院般若寺あるいは鬼洗蔵王権現と号し事務を統制していたが、天和年(一六八三)、光圀の宗教政策により、すでに処分されていた大里村の真言宗阿弥陀院の跡地へ移転され、大里村来迎院と号して元禄五年(一六九二)には天台宗となり、長福寺の末寺となった。所有していた社領は社人の対馬に与えられ、来迎院にはその代わりに七石の除地が大里村に与えられることになったという(「探旧考証」)。これについて、元禄九年鎮守帳には、天和年間のものと思われる朱筆で「大洗明神より仏取り上げ鏡納む」と書かれている。

大洗磯前神社


 大洗明神の祠官について、「磯浜誌」は、安永・天明のころまでは数馬・田宮・民部などが大宮司となり、その後は井上氏が数代続けたとしている。また、天保十五年の記録には、大宮司は大塚修理とある(「水尸藩寺社方令達」 茨城県歴史館蔵)。

 天保期の持高については、「巡見衆通行筋村々高辻等覚書」、「御国中御朱印地除地寺社記(天保六)」(茨城県歴史館蔵)のいずれも、朱印高は十石であるが、当高は六石八斗七升二合であると記している。しかし、徳川斉昭は、天保十五年(一八四四)一月、寺社改革の一環として由緒ある神社に寄進を行ったが、このとき、大洗磯前神社も朱印地を増加されて都合一七石五斗五升三合となった(「水戸藩寺社方令達」)。また、斉昭は、毎年三月に式内社へ代拝使を差し遣わす制を定めているが、大洗磯前神社は、静・吉田の次の三番目に遣わすことにしている(『水戸市史』中三巻)。


四 大洗磯前神社の四幸の祭礼

 中世にはかなり盛んであった数々の祭礼も、永禄年間の小田氏知の乱により面を除いてほとんどの祭礼具を焼失してしまったため衰退していった。しかし、元禄期の光圀による神社復興もあり、中世とは形を変えながらも祭礼が執行されていった。「磯浜誌」によれば、四季の祭礼として、正月七日の御戸開き祭、三月中旬の太々(だいだい)お神楽(かぐら)、六月晦日(みそか)の御祓い、七月七日の虫干し、八月朔日(ついたち)の八朔祭、八月上子日の新嘗祭(にいなめさい)、九月二十五日の祭礼(有賀祭)、十一月朔日の湯立て、十一月十日と十二月二一日の神田祭が行われていたという。このうち大祭は、八月朔日と九月二十五日の祭礼であった(日付はすべて旧暦)。これらの祭事には、大貫・夏海・網掛・宮ヶ崎・有賀の五つの末社の禰宜が来て祭礼を務めたという。

 ここでは、八朔祭以外の祭事について述べてみよう。

 正月の御戸開きの行事は、毎年十二月の晦日より正月七日まで行われた。十二月の晦日の夜より大宮司や祠官が潔めて斎王の神殿に入り、外へ出ることを許されずに、粢醴(しれい:穀物と酒)を供え、この間、神楽も奏さず、村中では寺院の鐘や一切の笛・太鼓など鳴り物が禁じられ、家造りも止められた。正月七日の巳時(午前九時より二時間)にいたってはじめて御戸を開き、神楽を奉じ祝詞(のりと)をあげ、「四海昇平五穀豊熟」を祈祷して物忌(ものい)みを終えた(「磯浜誌」 水戸藩神社録附属)。

 三月中旬には、昼夜三日間、太々神楽が奉納された。これは、永禄以前はかなり古来の風を残した田楽(でんがく)・申楽(猿楽)の舞であり、祠官や祝子(ほふりこ)が面をかぶって舞ったり、笠を持って舞う「はなみおどり」などが大規模に舞われたという。宮が海ぎわに移ってからは、それ以前に舞が行われた山上の場所を「能下」と呼んだ。永禄の大火以後も江戸時代中期ごろまではかなり盛んに行われ、寛永より寛政期ごろまでは、この能舞の影響を受けて村人のなかに謡能が流行したといわれるが、江戸時代後期には形式的に行われるだけとなり、「はなみおどり」も行われなくなったといわれる。なお、江戸時代後期、太々神楽のときに、川上治左衛門が宝前に「公家堂上方御筆三十六歌仙」の額を掲げたという(「磯浜誌」)。

古能面(大洗磯前神社所蔵)


 二月四日は祈年祭(としごいのまつり)で五穀豊穣を祈り、六月晦日には名越祓(なごしのはらい)で穢(けが)れを祓った。そして、七月七日には神宝が虫干しされた。この神宝について、大洗磯前神社に伝わる「本縁」では、永禄の兵乱により神宝は二つの面を残しただけであとは焼けてしまったと記しているが、「磯浜誌」では虫干しのときに古作面三、中昔面十二、神代の矛一つを虫干しにしたと記している。八月の第一の子(ね)の日には新嘗祭かおり、本殿の扉を開き五穀を供え祈った。また、天保十五年(一八四四)よりは斉昭の命により十月にも年穀豊穣を祈祷したと言う(「磯浜誌」)。

 九月二十五日の祭礼には、有賀村鹿島明神の祠官が矛を持ち村民数十人の護衛をつけて大洗まで下り、矛を神殿に奉じ祭を修めて帰るというものだった。稲の新穀・草菜・柚(ゆず)・紙は有賀から持参し、大洗磯前神社大宮司は初物の魚を供えたという。なお、古くはこの祭礼を宮ヶ崎の祠官も来て助けたというが、近世中期には来なくななった 注(2)。なお、大貫の諏訪神も旧九月二十七日には六十年に一回大洗磯前神社へ渡御したというが(江原忠昭著『大貫夏海年代考』)、これらのことはかなり古くは有賀神社だけでなく、大洗磯前神社に関連のある近郷の神社からももっと多くの諸神が磯下りを行っていたということを暗示している。酒列磯前神社では、いまでも近郷四八か村もの諸神が磯下りを行っているのである。

 十一月朔目には湯立て祭りがあり、巫女が湯を奉って吉凶を占った。また、神田祭は二回あり、十一月十日の場合は宮ヶ崎の祠官が来て祭り、また、修験大学院が新稲を奉って豊穣を祈ったというが、ともに江戸時代後期には行われなくなった。十二月二十一日の祭礼は大宮司が新稲を奉って大祝詞をあげた。また、十二月二十六日の夜、本殿の扉を開き賢木(さかき)の葉で褥(しとね)を掃き、畳を敷き替えた。この褥と畳は代々関根家が奉納することになっていた(「磯浜誌」)。


五 八朔祭

 八月朔目の祭礼は、古くは鹿島神宮の祠官が来て祭っていたが、近世初期にはすでに大洗磯前神社の末社であった宮ヶ崎と網掛(ともに現茨城町)の鹿島神社の祠官が来て祭るようになった。彼らは、大貫と夏海の境の海ぎわ(潮見塚)で馬を下りて休み、ここで磯浜の街々が年番で振る舞う手づくりの酒を飲んだあと、浜辺を馬で駆けて曲松に入り、笹竹で支えられた注連(しめなわ)を長太夫馬あるいは平太夫馬と呼ばれた祠官が剣を払ってその年の吉凶を占った。この剣によって払われて山側に倒れた笹竹は民衆が奪おうと競い合い、海側の笹竹は金沢町の若衆に守られて舟主の彦助宅へ持って行かれたという。大凶作の天保三年(一八三二)のときには、この注連の剣を払う祠官が、馬が急に暴れだしたため馬から落ちて気を失ってしまい、人々は大いに驚き逃げまどったという。そのとき大洗神山より黒色の雲が飛び上がり、その直後に祠官が気がついたため無事神事を終えることができたという(「磯浜誌」)。

 注連の剣を払った祠官たちは、騎馬で大洗磯前神社へ向かい、神殿の北の壇場で神事を行った。この祠官たちは、矛と盾を守って持参しており、盾をとくに鬼板といい、鬼板を持つ祠官を政所といった。政所は青襖(すおう)を着ていた。盾は広さ二尺、長さ三尺で、近世後期にはすでに判別しにくくなっていたが、神獣らしい絵が描かれていたという。政所に従う四人は、肩衣袴を着ており、そのうちの一人を代官といい、三人を士と呼んだ。近世初期から中期にかけては、この両神社の祠官を満願寺馬・観音寺馬と呼んだときもあったというが、近世後期には両代官と称していたらしい。神事は、鬼板を三回・五回・七回と翻すことで始まり、三度勝ちどきをあげ、矛と鬼板を一坎(いっけつ)に鎮めて海内 寧謐(ねいひつ)を祈り、もう一度勝ちどきをあげて神事を終えた。なお、この坎は坎太夫という者によって掘られたという。このあと神殿へ所願成就を告げて、両代官は帰っていった。

 ところで、大洗磯前神社は一つの神刀を蔵しており、この神事に奉じたが、この神刀は両代官が壇場での神事を終えて神殿に向かうころに、壇場近くの「金洗沢」という渓水で浄めてから奉納したという。この渓水は近世にはすでにかれていたため、この浄めの神事は行われなくなったという(「磯浜誌」)。この金洗沢は現在の金沢町あたりであると言われているが、「水府志料」は、大洗磯前神社より東の後釜という所にあったと記している。

 この日、神前に生薑(しょうが)を供える儀式も行われたが、九月二十五日の祭礼にも同様な儀式が行われた。また、賢木追払(さかきおいはらい)という行事もあった。詳しいことはわからないが、賢木に大麻をかけ、さらに猿田面をかけ、「宮田本郷」と書いたものをつけて行うもので、中野谷氏が執り行ったという(「磯浜誌」)。

 八朔祭礼について、「水戸歳時記」(小宮山楓軒著)では祭礼を朔日より二日までとしているが、「続水戸紀年・哀公上」(文政期)では、磯・湊の祭礼は朔日・二日・三日の三日間とし、さらに「躍り数多くでて、大名行列、神田獅子などもでる」としている。また、天保期の「南郡年中行事」では、「湊・磯浜の祭礼は子供踊り、瓜小屋がでるが、天明三年のときのとおりに取り締まるように」と役人に指示を与えている。

 八朔祭礼はかなりにぎやかだったようだが、街々では五色の幣(ぬさ:はらいに使う物で紙や麻などを垂らして作る)をつけて作った旗をさした母衣を作ったという。旗には杜丹・桜・柳などの絵が描かれ、時代がたつにつれ新作が登場した。この執行人は、羽織・袴、あるいは裃(かみしも)を着て執り行い、年番制だった。また、髪釜(ひいがま)街では大きな吹き流しが立てられた。とくに、紀州廻り網が繁盛した元禄・宝永期に盛んであったらしいが、やがて後期には小規模なものとなった(「磯浜誌」)。

 八朔祭礼では、街中を神輿(みこし)が練られたが、神輿の先頭には猿田彦神の面をつけた道案内がついた。これは古例により代々中野谷氏によって務められたという。また、この神輿の前には、軍陣のいで立ちの騎馬武者の姿をした幼童が供奉したというが、この姿も寛政のころまでで、文政期には「万度大麻」の幼童となり、支度も伊達(だて)風になったという。その後、斉昭が藩主であったとき、一時的に武者風にもどったというが、このときは騎馬には乗らない歩行武者であった(「磯浜誌」)。

八朔祭例のときの武者行列(「磯浜誌」)

 

 踊りの舞台となった屋台は、花屋台・瓜小屋の二種類があったが、素朴で簡単にできる瓜小屋はやがて衰え、近世中期ころよりは花屋台だけとなった。宝暦ころ(一七五一~一七六三)まではあまり華美ではなかったが、明和・安永・天明のころ(一七六四~一七八八)より華美となり、寛政期には一町目の屋台が松島惣蔵の美声を披露し、永町の屋台が「道成寺」を演じるなど、狂言・田楽・浄瑠璃などを七~十もの屋台が競い合うようになった。このころ金沢町で四十二年ぶりにできた大屋台はひときわ目立ったという。文化・文政期はとくに華美となり、文政九年(一八二六)の祭礼のときは前代未聞といわれた。このとき、一町目屋台では「道成寺」が演じられ、長唄二代目冨士田新蔵・二代目岡安喜三郎が美声で楽しませ、永町屋台でも「紫染百夜車」などが演ぜられ、浄瑠璃では常磐津造酒太夫などが顔をそろえた。両町の屋台だけで計二百両余の経費がかかったという(「磯浜誌」)。

八朔祭例のときの屋台「磯浜誌」(関根敬氏所蔵)



本書について|もくじ


出典|大洗町史(通史編)、昭和61年3月31日発行

発行者|大洗町長 竹内 宏

編集者|大洗町史編さん委員会

発行所|大洗町

印刷|第一法規出版株式会社


登録者|若井 大介(ONCA)