新選組と歩く幕末京都 池田屋騒動
古高は御所に放火し天皇を長州に奪還する計画を白状する。
元治元年(1864年)6月5日三条通の長州藩常宿池田屋において20名程の志士が密会
をしていた、鴨川の西側を探索していた新選組の近藤、沖田、永倉、藤堂の4人はその現場へ
踏み込んだ。近藤は御用御改め!手向かいいたすにおいては容赦なく斬り捨てる!と大声を発した
この時、土方隊は鴨川の西側を探索していた、たった4人で斬りこんだがまず沖田が一太刀浴び
せるがこのような時に持病の為に喀血しすぐにその場を退いた。
2階に上がる大階段・・
志士との戦いも三人では苦戦を強いられたが遅ればせ土方隊が到着して決着がついた。
2階に記念撮影ができる。
新選組は池田屋事件の働きで天下にその名を轟かせた。
お龍の手記では龍馬は新選組が通ると身を隠した。
江戸幕府から池田屋事件の残党の捜索を命じられた新選組は、東山の料亭「明保野亭」(「あけぼの亭」に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得た。
武田観柳斎率いる新選組隊士15名と会津藩士5名の20名がともに探索に出動した。明保野亭に踏
み込むと座敷にいた武士が逃げようとしたため、会津藩士の柴司(21歳)が追いかけて庭先に追い
詰め、背後から手槍で腰を突いて後ろ傷を負わせた。直後に相手が「自分は浪士ではない、土佐
藩士の麻田時太郎である」と名乗り、確認が取れたため解放し、麻田は土佐藩邸に引き取られ
た。
会津藩は事情聴取の上、柴の行為は正当な職務遂行であって問題なしと裁決し、念のため土佐藩
邸に見舞の使者と医師を送る。これに対し土佐藩側は、最初に名乗らなかった麻田に落ち度ありと
し、公式には穏便に処理する姿勢であった。しかし翌11日に土佐藩が、現場で逃走を図った上、
武士にあるまじき後ろ傷を受けたことを「士道不覚悟」として咎め、麻田を切腹させたことで事情が
変化する。
当時、土佐藩は藩主山内容堂の方針で公武合体を支持しており、会津藩との関係も良好であった
が、内部には土佐勤王党など倒幕を目論む勢力もあった。その中で起きた会津藩士との刃傷沙汰
と麻田の切腹を、土佐藩士の一部は土佐藩に不公平な処理とみなして反発し、新撰組・会津藩へ
の報復を主張する者も現れた。山内容堂も藩内強硬派の意向を抑えかね、事態は会津と土佐の衝
突に発展しかねない状況になってきた。
会津藩主・松平容保は、事態の処理に苦慮する。京都守護職という立場上、他藩との抗争で自ら
京の治安を乱すことはできない。一方で土佐藩の面子を立てて事態を収拾するには、両成敗で柴
司を処断する以外になかったが、いったん正当と裁決した上は柴に切腹を命じる名分がなく、不可
能であった。
藩主の苦悩を聞いた柴は兄とも相談の上、自主的に切腹することで藩の苦境を救う決意をする。結
局、12日に柴司が兄の介錯で切腹し、会津藩と土佐藩の衝突は回避された。 柴の葬儀には会
津藩士の他、新撰組隊士たちも参列してその死を惜しんだ。墓所は京都・金戒光明寺にある。
この事件の舞台となった明保野亭は当時、他にも多く見られた様に料亭と旅宿を兼ねており、倒幕
の志士による密議にも多く利用されていたことが事件の背景にあったと考えられる。また、土佐の坂
本龍馬の常宿の1つといわれている。なお、明保野亭は現在も東山区清水三年坂(産寧坂)に石
碑とともに店舗が現存するが、当時は現在よりもやや北東位置にあったとされている。
新選組は実際には勤皇派の浪士を斬るより、内部抗争で殺した数のほうがはるかに多いと言われ
ています。