月光ゲーム―Yの悲劇'88を読んで 三輪忍
先に述べておくと、紹介ブログではない。同調や共有を促すものでもない。私が読んだことで、「語りたいな」と思ったことを書き綴っていったものだ。ネタバレも当然入ってくるし(真相は避けるが)、他の作品も引き合いに出すので、それでもいいという稀有な方のみ、そのまま読んでもらいたい。
さて、ざっくりとした感想は「文が若い」ということ。
うまく言葉にできないが、序盤のキャラクターたちの行動、なんとイキイキしていたことか。私もその場にいて青春の1ページを謳歌したい気持ちになったし、羨ましかった。今年の春ごろ、友人達と野辺山近辺で宿泊したこともあり、変なところで主人公と共感したのも大きかった。昨今の聖地巡礼の気持ちも分かるような気がする。
ちなみに私の推理であるが……(ここより言い訳)眠気眼で読んでいたのがすべての元凶、また、頭の中で物語を整理できているという傲慢な自負がすべてをダメにした。江神が犯人を当てるという文章を「江神が犯人である」と読んでしまったのだ。「犯人を教えている状態で論理だけを考えるものなのか」と勝手に納得したのだから、さらにたちが悪い。
なので、荒唐無稽の推理をひけらかすが、Yは江の左側、さんずいの2,3画目を表していると考えた。テント上部の紙が破れているのが伏線で、1画目が何らかの要因で消えたという推理を進めていた。……これ以上はやめておこう。火山弾に当たりたくなってくるので。
話はそれるが、「本格」とは何だろうか。もっというと「新本格」とは何だろうか。先日偶然「新本格という病」を目にしてはっとしたばかりなのだが、この問題は早めに触れておきたかった。これから色々な体験をしていくだろう私が、今と後でどう変化するのか気になるからだ。
私の動画をご存知の方は「お前は『本格』ミステリー動画と冠しているではないか」と思うだろう。まさにその通りで……新本格とは名乗っていない。そこには私なりの定義があるからなのだが……。
ミステリー好きであるならば避けては通れぬ、「本格の定義」。
私の見解は「謎と論理に普遍的な因果関係があるもの」だ。
新本格というのはそこからより「作者という色を濃くしたもの」だととらえている。
私の動画は蝶や和柄を使い、どことなく和風の色を出しているが、様々な角度の問題をあつかっている以上、これはエッセンス程度であり、カラーの一歩手前、フレームである。(新本格という書き方をすると、初心者に分かりづらいかなということもあり、本格と冠している節もある)
というわけで、月光ゲームの話から、本格定義に流れてしまったが、月光ゲームを読んだ直後の私は「自分の本格定義しっかりさせないと!」という気持ちでいっぱいだったので、こればかりはどうしようもない。
みなさんも是非一度、自分が好きなものの定義を考えてみたらいかがだろうか。冷静に分析すれば、そこから新たな面白さに気づくチャンスかもしれないので。