「俳句」百年の問い 夏石番矢編 その2
https://mochizuki.hatenablog.jp/entry/2020/06/29/173521 【「俳句」百年の問い 夏石番矢編 その2】より
はじめに
寺田寅彦さんの他に、いくつか抜書した箇所ができたのでまとめておきます。全文書き写すべきだが時間切れだったのが、山本健吉さんの「抽象的言語として立つ俳句」です。そこでは、絶対に不可能な「共時性」を俳句表現においてみようとしており、そこでは俳句はあたかも一枚の抽象画として立ち表れることになります。この抽象、という概念も一般的なイメージに躓きやすいのですが、ここでは「抽象=本質的具象」という意味合いをもちます。通常の意味を離れた意味、というよりほかない「本性」。禅では不立文字として顕れる事ですが、俳句はそれを文字であらわさなけらばなりませんから、禅よりもよほど際どい境界に位置していることになるのです。
「抽象的言語として立つ俳句」
俳句の短さは、一句を構成する言葉すべての同時現前を起こして朗誦される時間の経過に頼らず、紙の上へ抽象言語として立ち、作者の適格で力強い判断のみを読者へ投げ出している。(節の冒頭に編者が?要約したもの)
井筒さんの本を教科書とする者にとって、「同時現前」はひじょうに重要な状況です。「共時的」と「経時的」は、「勝義」と「世俗」を考える上で必ずでてくる項目だからです。
と、ここで早急に私は、「写生」について書いた以下の文をここに書き留めておきたくなります。(筆者のメモより)
印象派 屋外写生 外光派。
写生を重視する絵画が「印象派」と揶揄されたという歴史は、俳句の写生論では重要だ。「ありのまま」にはさまざまな面があるので。
井泉水さんの「凝結」と「流動」という捉え方は銘記せねばならない。俳句は流動する宇宙を不可能な凝結体として示す形式で、それは必ず仮定的静止断面として提供されざるをえず、印象派がそこに写実的流動性を導入したように、「自由律」は反動的にそれを誇張したとする。
ありのままに似せるため。
「流動性」を、因果関係からの自由としたシュールレアリズム、多元空間的表現としたのがキュビズム、速度(移動)としたのが「未来派」とするなら、シュールレアリズムは「凝結」へ回帰し、未来派も反動的にモノへ回帰した。もっとも「ありのまま」に似ていたのは、空間にこだわった「キュビズム」だ。
しかし、わざわざ多(他)次元(時空視座)を導入せずとも、眼前の花瓶に挿した花をデッサンしている間に、花の形象はもちろん、光線も、写生しつづける主体としてある自身の身体的状況も、変化し続けている。我々はそれらの変化を「記憶」によって捨てる。知覚と認識の間に生じる時差が、絶えず流動する「事」を存続する「物」として同定し続けるための辻褄合わせを可能とする。この時差がなければ「我」も「他」も一切は存在できないからだ。
つまり、写生とはこの「変化」を「記憶」によって無視することによって成立させようとする態度ではなく、変化をみとめるための「過去」に一切執着しないことによってそこに「変化」を認めないという態度で、「記憶」を捨て去って一切の過去に執着しない「今」を感受する態度なのである。
この時差0の状態と「我」とを往還するのが「悟り」だ。
「現在形」とは、仮想的断面の継続を前提とした非時制的なものである。
エクリチュールとパロール
また、山本さんは、俳句の母体である短歌がパロールであったことを完全に抹殺したエクリチュールとして俳句があるといいます。
対象の的確な把握をめざして作者の中をいろんな生な肉声を持った口頭の言葉が出つ入ついたしますが、それは十七音形式の坩堝の中でとろかされている間に、いろんな属性をふりすて、言葉そのものとして紙の上の抽象言語として変貌するに至るのであります。(同書)
対象の的確な把握。これこそが「写生」の態度です。そしてどのような写生論も反写生論も、結局はこの態度を肯定した上で、未熟な写生態度をあたかも「客観写生」の名のもとに批判しているにすぎません。人の心を表現するなどといっても、つまり心に映るものは「物」でしかないのですし、世界を荘厳する「物」のバリエーションに比して、それに対する人間の「感情」を示す言葉の貧相さを顧みれば、「具物(愚物)」を離れた「情感」ばかりを顕す類型の貧しさ、つまらなさは明らかなことなのです。しかし、それは「感情」を無視してただひたすら目に映る物の自然科学的外観をスケッチすればよいというものではないことは、繰り返すまでもありません。
俳句はある特殊な個人の特殊な対象に基づく感動によって生まれます。そのような特殊な対象を見失った時、俳句はことわざに近い物になります。(無季俳句はこのような陥穽をもつ)(同書)
ここでの「特殊」は、柄谷さんの言葉になおせば「個」ということになるだろう。特殊を一般化すればことわざになる。個は個の感動を離れることなく、その感動を再現すべく言葉を用いねばなりません。それだけが「普遍」へ至る可能性を孕みます。「普遍」とは「真如」への道に他なりません。
このような奇蹟を成就したものを私は純粋俳句と呼ぶのであります。触れる不安定な対象への思念が抽象的言語の中に揺るぎない不動の位置を獲得するに至ったとき、思想の奇跡は確保され、作者の判断は形を得るに至るのです。(同書)
「判断」という言葉の用い方は、当時の哲学の流行からくるものなのでしょうが、おおむね、山本さんの俳句論はとてもおもしろいものだと思いました。
其の他抜粋
「読み了えたところから再び全句に反響する性格がある。」
「発句とは行きて帰る心の味なり」(芭蕉)
「真実感合」という飛躍 加藤楸邨さんより
俳句の切れとは、この往還を内蔵しており、「かな」などの切れ字はその効果を高める。この反響は、短歌の場合は明示されているが、俳句は暗示されるのみである。
〈物〉を掘り下げていくこと、それは〈物〉と〈物〉の〈関係〉を掘り下げることに外ならない。
〈物と物との関係〉の追求はついに〈事〉の追求に外ならない。
われわれの詩は〈物〉に埋もれ〈事〉に没して生きる外ない。
「垂直に息づく永遠の詩」富沢赤黄男さん
富沢さんの「物」と「事」の用語法は、私の「華厳」理解に一致していると思う。ただ、その意味で「詩は〈事〉に没して生きる外ない」の部分は同意できないのである。
重ねて言うが俳諧文学というものは、詩=文学としての「流動性」と風雅=心境としての「凝結性」との両面をもっていなければならない。この凝結性が形式として一般化したものが定形という表現意識の定着性である。今日、われわれの自由律俳句というものは、この定着性を溶解して、これに詩としての「流動性」を与えたものである。
「本質的なものと異質的なもの」荻原井泉水さん
「流動性」「凝結性」は、真如における「無常」と世俗における「執着」に通じ、「流動=事」「凝結=物」、「共時と経時」、つまりは「分節」を考える上でひじょうに有用な指標である。
片言的な表現は、その単純化や誇張、思いがけない比喩などによって固定しがちな私たちの思いや感覚をゆさぶる。俳句形式はそういう片言的な表現の活力を最大限に発揮させようとする装置のようなものである。(…)〈写生句〉と呼ばれる多くの句がつまらないのは、情景を写生し終えたときにしばしば片言性を消してしまうからだ。
「片言の活力」坪内稔典さん
いいおほせてなにかある。を「片言」と表した小論。これはかつての佐藤優樹さんの言葉をとりあげたブログで何度も話題にしたところである。その片言は、対象の本質に個として迫り普遍を顕わにさせるのであるが、むろんそれがそのような力をもつのは、それまで読み手の意識に、言葉がそのように用いられたことがなかった、という驚きを認めてこそなのである。言語とは差異による体系であるから、意味の斬新さとは、体系全体を揺さぶることになる。それを論理的な緻密さによって行うものが「哲学」「批評」である。片言は「哲学」「批評」の対象となりうるが、逆はありえない。むろん、言語では表せない対象ともよべぬ対象を対象とする詩は、それを表現する言語をハンドメードするほかないという意味で、「片言」にならざるをえないのである。
また、多くの写生句がつまらない、というのはミスリードである。これは単に、つまらない俳句はつまらない、というべきである。
おわりに
俳句のために作品つくる義理も技量もないし、俳句のために何かを論ずる力もない。俳句はおもしろければいい。中上健二さんが言うように、「俳句は遊撃的な使い捨てカメラ」だ。ただ、この言葉は訂正されなければならない。俳句がそのようなカメラであるわけではなく、俳句は、私自身をそのようなカメラにするメディアである、というべきなのだ。そしてその営みはスマホで写真を撮るほど簡単ではなく、写真というよりは、やはりラフスケッチというべきであろう。