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現代俳句鑑賞

2019.01.13 13:28

https://72463743.at.webry.info/201405/article_1.html  【現代俳句鑑賞・その1「様々なる意匠」】より

かんばせに朝のひかりや五月来る 玉宗

支へ木も一つ年とる桜かな 辻恵美子 句集『帆翔』より

根尾谷薄墨桜の写生らしい。支え木、あれは桜のいのちを支えている姿にほかならない。そんな支え木も風雪に耐えて花見の季節をむかえた。いのちを継ぎ守ることのたくましさ、切なさ。それは薄墨桜を守る人間への思いでもあろう。

戸を開けて家のはじまるちちろ虫 しなだしん オーパス第37号より

蟋蟀の鳴きすだく世界から帰って来たのである。家の戸を開けるということはまさに異界を出入りするということでもあった。たかが戸一枚。されど一枚。帰るべき家のある幸を感じているのかもしれない。季語の世界を再確認させてくれる。

闇よりもか黒き水を盗みけり 若井新一 句集『雪形』より

真昼間に水を盗む奴もいないのだろう。闇夜に紛れて歩きなれた畦道を行く。勝手の知った水口から月も照らさぬ真っ黒な水が、後ろめたさを隠すかのように流れ出す。「水盗む」ということが今でも行われているのかどうか知らないが、季語が生まれた現場を知らなければできない句であろう。

ミシン目にそって男を開けてゆく 浪越靖政 「川柳カード」5号より

現代川柳であるが、このような手法は現代俳句でもよく目にするようになった。主流にさえなろうとしているのではないだろうか。現代の素材を借りての暗喩、象徴、そしていくらかの時代精神。流行なのだろう。

蝶去りてまつりのあとのやうな午後 澤田和弥 「あすてりずむ」第5号より

「やうな午後」で云いとどめることを独自の感性と受け入れるか、表現の甘さとみるか。ごとく俳句が成功するかどうかは似て非なる世界の響き具合に掛かっている。

白き鳥墜つ わたしのなかの無人島 田吉明句集『幻燈山脈』より

句意明快からは程遠いが、感じることができる者にしか解らない作品といったものである。これもまた最短定型詩の可能性ではあるに違いない。淋しがり屋のナルシストが見えてくる。

火事跡の仏間に垂るる氷柱かな 野口和男 「梟」3月号より

これ以上でもこれ以下でもない。寡黙な写実の妙。黙ってものを提示することの面白さもある。

喉あいて飲みものとほる露台かな 森賀まり 「静かな場所」No.12より

悪くはないが、私には知が勝っている句である。上五中七に作為が感じられてしまう。もう少し具象化すればもっと面白いものになるのではなかと高望みをしてしまう。

軍艦と最中は嫌い日向ぼこ 西谷裕子 夢殻集―らんの会2014」より

金輪際固いものとあやふやなものの代表を二つ並べてみる。主義主張の拘りも、どっちつかずの無節操も、どちらも好きになれない。真の平和主義者は日向ぼこするほかあるまい。衒いのない俳諧味がいい。取り合わせの成功には肩の力を抜くのがコツと云わんばかりである。

ストーブに小さき窓ある忌服かな 鈴木牛後 「藍生」3月号より

物語性に富んでいると云うべきか、「ストーブの小さき窓」の情景がいい味を出している。北の大地に生きる作家ならではの寡黙な世界が感じられる。

風光る団子のたれは道に垂れ 佐藤文香 「里」3月号より

面白いが「道に垂れ」で少し戸惑った。若い作家に似合わず手慣れた作品である。そこが心配。というより、私などは若い精神が向かわざるを得ない現代の光と影を垣間見る思いがしている。

風邪引いて夜空へ落ちてゆく心地 泉風信子 「陸」3月号より

熱に浮かされているのだろうか。「ゆく心地」で着地してしまうのが奥ゆかしいと言えば奥ゆかしい。このような感性を表現するのに男女の差異が現代では見つからないように思える。

こたつから見ている丸いだけの山 坪内稔典 「船団」第100号より

私の独断ではあるが、言葉に過剰な負担を掛けない、作品は読み手が好きなようにうけとればいい、といったようなことを信条にしている作家だと捉えている。言葉遊びに徹する。本人もそれでよしとしているのではないか。一見、俳句に多くを期待していないかのごとくである。それにしても、俳壇に膾炙している氏の作品には取り付く島がない、というのが私の感想である。然し、掲句にはまだ遊び過ぎていないところがある。

火に寄りて股間けぶりぬ雪の杣 岡本雅洸 「鷹」3月号より

「鷹」俳句の中にあっては主観の控えめなところが良かった。見える俳句である。

どの顔も日当たりてゐる枯野かな 中西夕紀 「俳句新空間」No.1より

一読、虚子の「遠山に日の当たりたる枯野かな」を思いだしたが、確かに枯野のあかるさというものがある。顔に、それも「どの顔も」と表現することで虚子の作品ほどぼやけてはいない。老いてはいない。

(取り上げた作品は関悦史のブログ『閑中俳句日記(別館)』に掲載されたものをいくつか参考にした。)


https://72463743.at.webry.info/201405/article_3.html  【現代俳句鑑賞・その2「現代俳句の感性」】より

ひとつひとつ椿は紅を尽くしけり 玉宗

記憶谷追憶運河牡丹雪 黒田杏子「藍生」5月号より

花びらのくる月山の暁のいろ  同

蛇笏賞作家である。独自の人柄、感性が俳句にも色濃く出ていると以前から思っている。氏には名詞だけの作品がときに散見される。一見、その句風の潔さが男性的のようにも受け取れるが、私などには短歌を支えている抒情の底流が感じられるのである。現代女流作家の独自にして典型的感性の一つが確かにあるのではないか。

冬山を正面にして湧く言葉  中西夕紀「都市」4月号より

紅梅に愚直の棒の支えあり  同

俳句という文芸は作者の性を問題にしないような形式でもあろうか。中西氏が女性であることを私は知っているが、作品を中性的に観賞するのも読み手の自由ではあるが、それってどうなんだろうと思ってしまう私がいる。作者にとって不幸なことではないのだろうかと余計な心配をしたりする。そんなことを思わせる作品である。

歯痛あり頬に太古の梅雨の闇 加藤知子句集『アダムとイヴの羽音』より

この手のデフオルメされた感性の作品もまた現代俳句のあちこちで散見される。等身大の言葉、写生が死語となっている現実がある。よくも悪しくも自分をクローズアップしたくてたまらない現代人の感性を見る思い。

さういふものに私はなりたくない  筑紫磐井筑句集『我が時代』(実業公報社)より

俳諧の婆娑羅の道を歩むなり  同

何の犯罪青田の中を全速力  同

風薫るあの日のままの西ドイツ  同

「くたばれ写生」ということでいえばその最右翼の作家にして論者である。定型に思想を盛る、定型が思想を語る。定型詩の革新、定型詩の新地平を開拓しているには違いない。近代、現代の俳句表現の歴史のしからしむるところでもあろうか。俳句定型の構造そのものへの挑戦、俳句的感性そのものへの反逆。そのような試みをだれも押しとどめることはできない。

残雪に木立の影の躓ける  木暮陶句郎「ひろそ火」4月号より

春愁や長き手紙の嘘ひとつ  同

伝統俳句系の作家ではなかったか。手慣れた写生が、予定調和に収まってよかったね、といった感じ。しかし、「躓ける」という言葉の斡旋の嘘っぽさや「春愁」の句の類相感に違和感がぬぐいきれない。それこそ写生不足、感動が不明確と言いたい。

桜餅風も光も食べに来い  高野ムツオ「小熊座」4月号

縄跳の縄の音する前世かな  佐藤成之

この星の災いに添え梅一輪  渡辺誠一郎

高野氏は今年度の蛇笏賞を受賞された。佐藤鬼房亡きあと主宰となり、東日本大震災にも遭われた。三句とも震災句であろう。鬼房俳句にはその独自な人柄が色濃く滲み出ていた。一句で死んでもいいといったような気迫があったような気がしている。掲句もまた腸の句であろうが、鬼房ほどひねくれてはいないようだ。人がよすぎるのが心配だ。

目許よりはじまつてゐし春の風邪  稲畑汀子「花鳥諷詠」4月号より

さて、伝統俳句のドンである。いつからの伝統かは知らないが、発句でないことは確かなことのように思われる。花鳥諷詠はクリスチャンでもある氏にとって嘘いつわりのない血肉の言葉、思想であることは疑いない。であるからこその日常俳句、事柄俳句、瑣末俳句なのであろう。俳句とは氏にとって四時の運行に身を任せている証なのである。ある意味力を抜いて言葉に寄り添っている自在さがある。自在すぎて言葉が軽く、感性、感じ方が型に嵌っているようなつまらなさもあるのだが。

口開けしままの埴輪や鳥雲に  金子敦「あまい!!!」

俳句的詩世界というより、詩の俳句的展開というべきか。しかし、「鳥雲に」という季語の取り合わせがありきたりである。類相に逃げている。この感性はすでに月並みとなっている観さえある。

洗ひあげ大根太くなりにけり  上野一孝「梓」第十四号

実感として言い切ってしまう俳句。その構造から嘘から出た真みたいなことになる。写生の面白みの一つがここにあろう。言葉が本来の働きをしているような。

春休みプールの底に人がゐる  上田信治「里」4月号より

山藤は鈍き痛みのままに咲く  月野ぽぽな

小鳥の巣そらをいちまいずつ捨てる  河西志帆

大根の鬆に溜まりゆく朧かな  島田牙城

白もくれん風をとほせる首まはり  佐藤文香

茂吉忌の野火妖しげに太りゆく  谷口智行

同結社の中の作品にもこれだけの感じ方がある。というより言葉への信頼度の違いがあるというべきか。意味性を拒否したものから多義性を駆使するものまで。これは一結社だけのことではなかろう。現代俳句の現場そのものの曼荼羅模様にさえ見えてくる。

(掲載作品は五島高資氏のブログ『俳句スクエア』から抽出した。)


https://72463743.at.webry.info/201405/article_6.html  【現代俳句鑑賞・その3「俳句という自己更新」】より

鈴が鳴る花のかたちや夏めきぬ 玉宗

犬吠の海見て二月始まれり    和田耕三郎

冬の終わりと早春の気配に浸ろうとする作者の静かな気息が感じられる。二月という冬が終わり切らず春にもなりきっていない季節。人の世の二月が始まろうとしている。

梟のきのふの声と思ひけり    しなだしん

夜の番人、梟。その声が昨日の声だという。昨日の方から聞こえたというのではない。闇の真実はいつも遅れてやってくる。一昨日でもない昨日ところが梟の存在感だと。

夜の海に雨の満ちゆく鯨汁 同

「雨の満ちゆく」が情感を深めている。鯨という巨大哺乳類を喰らう人間の性を潤す夜の雨。それが鯨の墓場となった海に満たされてゆく。

耳打のやうな風過ぐ春隣     辻 多恵

春を待つ感性が風の耳打と捉えた。決して北風のように吹きすさぶようなものでもなく、囁くがごとく、私だけに耳打してゆく。聴覚もまた春を控えて新しくなろうとしている。

合鍵を忘れてきたる春の闇    長谷川真理子

手の内が見えている。春の闇が甘すぎないかな。もう一歩踏み込むなり、飛躍してもよいのではないか。私なら「合鍵を忘れて来る蛙かな」とでもするのだが。

沈丁花歯科医の髪の白くなり   日置久子

マスクをしている歯科医。否が応でも目につく頭髪の白さ。意外と人生を知っている人物に今、自分の口内を覗かれている。何気ない目線を向けた窓の外には沈丁花。

てのひらに硬貨の匂ふ余寒かな  宮崎静枝

寒さとは五感が研ぎ澄まされるのだろうか。硬貨を握ってちょっとした買物に出た。春とはいえ思いのほかに外は寒かった。てのひらに残る硬貨の匂ひに季節を感じている。

駅前に空のありけり寒昴     宮崎多美

夜の駅前に降り立ち、改めて夜空の広さ、存在に圧倒されている。夜でなければならない。人生の旅の途中の寒昴、といった感慨が湧いているのだろう。

霜焼の耳持ち歩くきのふけふ   和田恵美子

「持ち歩く」と云わずにはいれない耳の存在を再認識している。それもこれも霜焼のせいだ。昨日も今日も気なってしょうがない。

スコツプを入れれば雪の中は青  渡辺陽子

云い切ってしまうことで見えてくる世界がある。表現とは一つの誠へ通じるための方便である。感じるものがあっての写生ということだ。

川底の石明らかな弥生かな    池部月女

春の小川の清らかさがある。透明感がある。それがそのまま弥生月の情緒に叶っている。「かな」の詠嘆がそれを醸し出してもいよう。

しののめの夢に高音の春の鳥   磯野良徳

しののめ時の浅き夢路に覚醒を促すが如き春鳥の声。

情緒が勝ち過ぎて俳諧味に欠けるが、「の」の重なり具合の遊びが面白い。

竹五本置くだけの橋山すみれ   上野みのり

季語の寄り添い方が情景のイメージ拡張に成功している。素直な写生に好感がもてる。

柊を挿してふたり分の煮炊    岡田理津子

柊を挿すという邪気や災難を払う節分の行事。家には二人分の煮炊きをする暮らしがある。息災、安寧を願う慎ましやかな心根が伝わってくる。それもこれも多くを語らないからだ。

がらんどうの電話ボツクス霾れり 亀割 潔

霾天の下、がらんどうの電話ボックスというアリバイ証明が息をひそめて生きる人間の影が浮かび上がらせる。

枯芝のぬくみが人を座らせる   北岡ゆみ

どの作品も些か説明っぽく、理が先行しているきらいがある。掲句も散文的なのではあるが知的感興が写生不足を補う俳味がある。

春隣石の恐竜動きさう      北畑みち代

「石の恐竜動きさう」とは誰でも感じるようなことで陳腐でもあるのだが、季語の「春隣」に救われている。もう一歩踏み込んだ写生がほしい。

しばらくは琵琶湖の上を帰雁かな 木村弥生

「しばらくは」が面白い。それは帰雁にもそれを見上げている人間の思いにも掛かっている。名残惜しさの本情が見えてくるということだ。琵琶湖の情景設定もわるくない。

髪の毛の先が眠くて春隣       桐原淑式

「春隣」と「眠くて」だけでは即き過ぎなのだが、「髪の先」としたところで俄然詩的飛躍をなした。「髪の先が眠い」とはどういうことか理屈では解らないが、肉体の言葉であることは解る。それこそが共感できる所以でもあろう。

髪を切りケーキを買つて冬田道    黒崎トヨ

写生の成功は見るべきものを見、感じるべきものを感じることに尽きる。焦点がぶれることを写生不足とは云うのである。言葉の斡旋、省略も正確さを求められる写実の掻かすことのできない技なのである。

散髪のエプロン払ふ花ミモザ     斎藤かずこ

映画の一場面を見るようだ。「花ミモザ」の明るさが利いている。取り合わせの妙。

ひとつづつ巣箱を抱いて森に入る   坂本 登

物語性の面白さよりも、私などにはその写生眼に感嘆してしまう。季語の世界に立ち会っているような新鮮さがある。季語が息づいている。作品が脈打っている。詩的であるということだ。

かげろふの向かう寝釈迦のむくむくと たかはしさよこ

陽炎の向こう側には夢があり、妄想があり、光りがあり影がある。一見言葉遊びのようではあるが、季語を感じているには違いない。俳諧の誠を見るまなざしがある。

<掲載句はOPUS俳句会(代表 和田耕三郎)の作品から抽出したものである。>


https://72463743.at.webry.info/201405/article_8.html 【「現代俳句観賞・その4「現代の月並」】より

お隣の躑躅が燃えて目に余る 玉宗

榮猿丸・句集『点滅』ふらんす堂より

ローリング・ストーンズなる生身魂 榮猿丸

俳句は省略の妙ではあるが、それにしてもなんだかものたりない。余りに読み手に放り投げすぎていないか。写生不足というより表現不足ではなかろうかと。

黒板のふかみどりなる梅雨入かな

わるくはないが、一見季語が利いているようであるが、中7が類相的感性ではないか。「黒板」の黒と「ふかみどり」が気になる。つまり写生不足ではないか。もう少し内に迫ってくるものが立ち現われるのではなかろうかと、惜しい気がする。

ペットボトル絞り潰すや雲の峰

このシチュエーションは如何にも現代の月並、ベタではなかろうか。

「現代俳句」5月号より

長崎に夜も崩れぬ夏の雲  宇多喜代子

「長崎に」の「に」に躓いてしまった。大家の作品に手を入れて恐縮であるが「長崎や夜も崩れぬ雲の峰」ではだめなんだろうかと思ってしまう。

みちのくの我も生霊初桜  高野ムツオ

もとより写生句に甘んじる作家ではないことは承知しているが、「我も生霊」にはいささか引いてしまう。俳句に盛るべき思想のかたちというものがあるのではないかなどと考えさせられた。

糠雨を聴き澄ましたる角袋  堺谷真人

「糠雨・ぬかあめ」読むのだろうか。粉糠雨のことだろう。よく見ていると思うが、「聴き澄ましたる」が惜しい。「たる」ではなく「ゐる」ではなかろうか。

逃げ水やゆれる原子力発電所  五島高資

「や」はいささか強すぎないだろうか。「に」でもよさそうに思えるのだが。

「鷹」5月号

空をゆく此の世の鳥や西行忌  小川軽舟

問題は「此の世の」という措辞であるが、言わずもがなのことを敢えて文字化するにはそれなりの思いや情があるのだろう。そうではあるが「此の世」は流通言語になり下がっている。「西行忌」がなんとかそれを受け止めてはいるが。

日本は海に囚われ薺打つ  奥坂まや

島国日本の宿命を「囚われ人」と捉え直した点が評価できる。しかし、「日本は」と大上段に、事大主義的に述べているところが気になる。

雪片の吾を慕ふあり厭ふあり  髙柳克弘

孤独な眼差しが捉えた雪の本情と一つになっている。月並を脱している。

遠方に友あるごとし春のくれ  加藤静夫

これも又ベタな発想で類相を免れまいが、そんなことより座五が動くか、動かないかの方が余程月並を脱する現代的課題ではないかと思ったりする。

「雷魚」98号から

ひらがなはほほゑむかたち春隣   太田うさぎ

わたしには「上五中七」の把握はどうにも共感できない。肉体の言葉のような気がしない。「ほほゑみゐたる」ならまだ季語が利いてくるんじゃなかろうか。

道ありて人現れし枯木山   亀田虎童子

眼差しに嘘がない。言葉が正確で過不足がない。句意明快にして余情ある。

貼り交ぜの屏風を立てて長生きす   小島良子

「長生きす」がまで言ってしまっていいものかどうか。

雪女きみの記憶のなかに見る   小林幹彦

陳腐というより、共感する鍵穴が見つからない。

歩むたび来し方殖える寒暮かな   櫻井ゆか

自問自答しながら人生を歩む人間が見えてくる。語らずして語る玉手箱のような俳句の妙。

みづうみに木霊の遊ぶ夕桜   鈴木夏子

一見、重厚であるが、なにも見えてこない。この手の俳句が結構多い。

そのうちと言いて沙汰無く年の暮   平佐悦子

言ってしまって、取り付く島がないという類の句ではなかろうか。

階段があつたら上る春の月   宮路久子

文字通り三尺の童の句。未熟な感性と紙一重。

「澤」5月号から。

やまざくら投げ入れし水うすにごり   小澤 實

春の水行方不明者立ちあがる

一読、季語に無理強いしているかのようであるが、作者なりの季語の本情への寄り添い方であることに気づく。月並でない。

われら地の處女(をとめ)殺しぬ麥青む   高橋睦郎

処女地ではなく「地の処女」としたところが如何にも詩人である。大地の再生力を讃嘆していると思いたい。