第七回:塚原卜伝
第七回は塚原卜伝を考察していきます。
卜伝と言えば上泉信綱と並び戦国の剣聖と呼ばれた一人です。
戦国時代の兵法家なので当然のごとく多くの合戦へ参加し力を発揮していたようです。
彼の弟子曰く
『真剣での立ち会いは十九度、生涯三十七度戦へ行き、二十二度敵と槍を合わせ、一度も負けず、大将首十二、端武者の首十六、二百十二人を討ち取ったが、刀傷は一切受けず、矢傷を六箇所に蒙ったのみだった』
と言われております。
(これは誇張されてますね。間違いなく。
数字が細かすぎて逆に怪しくなってしまいますよねww)
卜伝の祖父は鹿島七流の使い手であり、父も多くの門人を擁する剣豪だったそうです。
卜伝も小さな頃から結構厳しめな英才教育を受けていたそうですね。
さらに10歳になると塚原城主の土佐守安幹へ養子となります。安幹は鹿島七流、天真正伝香取神道流を修めているほどの剣豪であり、それを卜伝へ伝授したと言われています。
卜伝は17歳にして全国へ修行の旅へ出ます。
京へも渡り、名のある剣豪達を打ち負かしたり、戦場へ行き己の実力を高めていったとありますね。
その頃には結構、名が知れ渡るようになり旅の道中、侍達から剣の教えを請われることもあったそうですね。
その後、鹿島へ戻り奥義の"一の太刀"を会得します。(これは様々な説がありますが、最近では師の一人である松本備前守から伝授されたという説が一番有力ですね)
ちなみにこの松本備前守も凄い人生を送っている剣豪ですのでまた調べてみて下さい。
その後、二度ほど全国へ修行の旅へ出ますが三度目には大名行列みたいになってたそうですねww(まあ、塚原城のお殿様ですからね)
弟子は雲林院松軒や、諸岡一羽、斎藤伝鬼房、足利義輝、足利義昭、武田家の軍師である山本勘助などなど…
その後に流派を起こして有名となった人たちが多かったみたいですね。
弟子の多さからもその剣術が当時からも相当な評価を受けていたことはわかりますね。
「生涯37度の合戦で矢傷1つ負わなかった等々」
という伝説から、後世になり剣聖と称えられるようになった卜伝の有名な逸話に"無手勝流"の話があります。
卜伝が結構高齢になってからの話ですが、
「琵琶湖を渡る船に卜伝は乗りました。そこへ一緒に乗り合わせた侍の一人が、卜伝に気づき勝負を挑んできたそうです。
卜伝は断りますが、相手は諦めません。渋々、卜伝は引き受け、別の船へ乗り移り、侍と小島へ船を漕ぎ始めました。
小島へ着くと、侍は息巻いて船をおりました。見計らって卜伝は何事もなかったように船をこいで沖から離れていきます。
侍は気づき怒りますが、卜伝は
"これが戦わずして勝つ。無手勝流だ!!"
と高笑いした」
という話です。
卜伝は"戦わずして勝つ"てことを結構重視していたそうですね。
今回は
ランクB
です。
肖像画を見る分には小さい男のようであまり強そうではなかったので、ランクも低くしようかと思ったのですが、戦国時代の兵法家として名を馳せ、多くの戦場でも生き残った実績を考えるとBですね。
ただ、上泉信綱も卜伝も将軍、義輝へ剣を見せています。
まあ、塚原卜伝ももう高齢だったこともあるでしょう。
「上泉天下一」の評価を受けた上泉信綱は卜伝よりも神掛かって見えたのだと思います。
上泉信綱と比べると少しだけ差があるのかも知れません。