陸前高田 2016年9月
毎年Brass for Japan にあわせて9月に東北にボランティアに行っているのですが、今年は個人的なスケジュールの都合で、予定を10月に延期。そのかわりといってはなんですが、9月の祝日を使って日帰り旅行に行ってくることにしました。
場所は、岩手県、陸前高田市。
あの、奇跡の一本松で全国的にも有名になった街です。
朝5時に大船を出て、東京駅6時初の新幹線。8時半に一ノ関駅に到着し、そこからレンタカーで約1時間半ほど。
陸前高田の最初の目的地、旧・道の駅高田松原に到着しました。
ここは、震災の爪痕を残す道の駅がそのままの形で保存され、震災と復興の道程を示した写真館や、祈念碑などが置かれる場所です。ここで、現地ガイドさんと待ち合わせの約束になっています。
陸前高田観光ガイド、菅野コハルさん。とってもおしゃべり好きで明るいおばあちゃんです。
コハルさんのご紹介を受けながら、写真館に展示されている写真を見て回ります。
あの地震のあと、陸前高田市に津波が到着したのは約30分後。そのたった4分後には、津波が街のすべての飲み込んでしまいました。波が押しては引き、押しては引きの繰り返し。
これが8回も繰り返されたというのですから想像を絶します。コハルさんはその時ひたすら高台に向かって車を走らせ、津波は見ていないんだそうです。やっとたどり着いた高台で、
命からがら逃げてきたお友達を見つけ、泣きながら抱き合ったんだとか。
「陸前高田が、なくなっちゃった」
お友達の言葉を聞いて、そこで初めて津波が街のすべてを覆ってしまったことを知ったんだそうです。
陸前高田市は海沿いに面して、街の奥深くまで低く平らな土地が広がった地形になっています。
明治時代にも大きな津波が襲っており、地域には「ここから下に家を建ててはいけない」と伝えられる境界があったんだそうです。しかし、街の発展に伴い、徐々に徐々にその教えは忘れられ、海の近くに街が作られました。
陸前高田市では、市内の避難所として街のなかにある体育館が指定されていました。地震の後、かなり多くの人がそこに集まりましたが、津波にのまれ、そこで生き残った方はたった3人しかいらっしゃいません。その中のお一方は今でもその時のことを語らず、「あの時のことは墓場まで持っていく」とおっしゃっているそうです。
「自分たちがどんなところに住んでるか知らなかった。これは私たちの油断」コハルさんはそう言います。
震災から5年半。被災地の現状を知らせるニュースは少なくなりました。みなさんは、今街はどうなっていると想像するでしょうか。いくらなんでも少しは家が建ったり、店が建ったりしている、と思うのでは?
正解は、何一つ建っていません。そう、何一つ。
昨年の南三陸でもお伝えしましたが、いま津波の被害を受けた地域では、土地全体をかさ上げするための工事が行われています。街を作る広大な土地を、そのまま11m標高を人工的に上げてしまおうというのですから、これはもう途方もない大事業です。
しかし、おそらく陸前高田市は被災地の中でも、その作業が最も早く進んでいる地域といえるでしょう。皆さんもテレビなどでご覧になったことがあるかもしれません。陸前高田市は近くの山で切り崩した土砂をそのまま町中に張り巡らせたコンベヤで運ぶという、とてつもない作戦に打って出ました(この技術は、神戸で六甲アイランドという人工島を造った時の技術が生かされているんだとか)。そのおかげで10年以上かかると言われた工事は約2年半で終了、昨年の9月にコンベヤのスイッチが止められました。いまではコンベヤはほとんど撤去され、ただただ広大な土地が広がっています。2~3年ほどは土地を落ち着かせ、そのあとに初めて家や店、街がそこに作られるのです。
陸前高田に街が戻るのは、まだまだ先のことになります。
約4万本あった防潮林の松はすべてなぎ倒され、残った奇跡の一本松。ご存知の通り、松はその後枯れてしまい、今は人工的な処理を施し、モニュメントとしてその場所に立っています。近くには大きな堤防が作られたり、大きな工事が進められていますが、なぜかこの一本松の周りだけはこの姿のまま時が止まっているように感じられました。
いまでは倒された防潮林をもう一度新たに作った堤防の上に復活させようという動きがあり、今は苗から育てられているそうです。4万本の松が再び陸前高田市に姿を見せるのは、2030年ごろだと言われています。
「子や孫たちの世代のために、私たちの世代でできることはすべてしてあげたい。もう一度、一からこの街を作るんだ。」
コハルさんは、そう言っていました。
「あきらめるって言葉は、私は一番嫌いだから」
コハルさんと別れ、教えてもらったあるお寺に向かいます。
普門寺。被災した市街地から高台に上がったところにある、豊かな緑に包まれた、美しいお寺です。ちょうどこの時期、県指定の天然記念物であるサルスベリが美しい花を咲かせていました。
ここでは、震災犠牲者の追悼を込めて作成された約400の石像が置かれています。五百羅漢。いずれ500になるようにと、毎年8月に市民をはじめ全国から集まり、作成しているのだそうです。
そこに並ぶ石像は、ひとつとして同じ表情はなく、みな穏やかで安らかなお顔をしています。中には淋しさや虚しさを感じさせる像もあり、ひとつひとつの中に想いや祈りを感じさせます。
そしてすべての石像は、陸前高田の市街地を向いています。
その姿を見ていると、津波直後に高台に上がって市街地を見ている市民の方々の姿が彷彿されて、胸がいっぱいになりました。
短い滞在ではありましたが、改めて震災とその後を見直すことのできたひと時となりました。
自分の住んでいる土地を知る。意外にできていないことです。海沿いの街に津波の危険性があるように、高台には土砂崩れ、川沿いには大雨、洪水。この国の自然はあまりに厳しく、地震や台風、さまざまな自然災害が私たちを苦しめます。
しかし、その土地にはこれまでも災害を生き抜いてきた先人の知恵があり、またそれを新たな技術で予測し、予防しようとする科学の進歩もあります。温故知新。こんな厳しい土地に住む私たちだからこそ、先人の声に耳を傾け、また最新の技術にも敏感になっておく必要があるのかもしれません。
さて、来月にはまたボランティアに行こうかな。