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ZIPANG TOKIO 2020「国宝 富貴寺 六郷満山開山1300年 非公開文化財特別公開 【豊後高田市】」

2017.10.12 15:10

国宝「富貴寺 大堂」

富貴寺大堂 国重要文化財の「阿弥陀如来坐像」、浄土曼荼羅を背に鎮座。


千年のロマンと自然が奏でる交流と文化の町

豊後高田市とは

六郷満山文化を観て体感できる町。文化を継承し存続して、発展できる魅力溢れる町。

豊後高田の春(並石ダムと桜)

豊後高田の夏(長崎鼻リゾートキャンプ場のひまわり)

豊後高田の秋(銀杏並木)

豊後高田の冬(天然温泉 ほうらいの里仙人湯)

豊後高田シャクナゲの寺(長安寺)

豊後高田ビーチ(長崎鼻海水浴場)

豊後高田の海(粟嶋社と海岸)

豊後高田景勝地「無明橋」崖上約80m、昔修験者の修行の場となっていた石の橋

豊後高田の山々(高山寺の雲海)

豊後高田の夕陽(真玉海岸)

豊後高田の祭り(高田観光盆踊り大会)


自然

豊後高田市は、大分県の北東部、国東半島の西側に位置し、東経131°26′、北緯33°33′、東西の距離17.1km、南北の距離23.2km、総面積は206.24km2で、西は宇佐市、東は国東市、南は杵築市と接している。

また、大分市まで約60km、北九州市まで約90kmで、両市に比較的近い距離にあり、北は周防灘に面し、豊かな自然と温暖で過ごしやすい瀬戸内式気候に属している。  地域の東部から南部にかけては、ハジカミ山、尻付山、両子山や日本三叡山に数えられる西叡山等の山々が連なり、国東半島のほぼ中央の両子山から、放射状に谷や峰々が延びた地形となっており、その谷間を桂川、真玉川、竹田川が走り、河口付近に市街地が形成されている。  域内には、瀬戸内海国立公園及び国東半島県立自然公園を擁し、山間部及び海岸部の自然景観や農村集落景観、六郷満山文化ゆかりの史跡等、豊かな自然と歴史文化などの地域資源が豊富である。

豊後高田なんとなく懐かしさを感じる「昭和の町」

歴史

当地域は、奈良時代末から宇佐神宮の影響を強く受け、平安時代には宇佐神宮の荘園となり、その経済力を背景として独特の山岳仏教文化「六郷満山文化」を開花させました。また、当時は海路交通により関西方面との交流が盛んであったため、直接、都の文化の影響を受けたものと考えられます。鎌倉時代から戦国時代まで、当地域は国東半島地域の武士団の瀬戸内海への根拠地であり、明治以降においては関門地域への内海航路の拠点となるなど歴史的には西瀬戸地域の交流の結節点の役割を果たしてきました。その後、昭和にかけて町村合併により、昭和29年に豊後高田市、真玉町、香々地町の1市2町が誕生しました。

その後、我が国の産業構造の変化に伴う、都市部への人口流出により、過疎化、高齢化が進行したため、新たな時代の変化に対応すべく、平成17年3月31日に1市2町が合併し、人口26,101人(男性:12,207人、女性:13,894人)、新生「豊後高田市」が発足しました。



国東半島が誇る文化遺産「六郷満山」について

宇佐神宮 西大門

宇佐神宮 勅使門

宇佐神宮 御本殿

六郷満山とは?

六郷満山とは、国東半島の6つの郷(来縄・田染・伊美・国東・武蔵・安岐)の谷々で発展した寺院群で、活動の目的から3つのカテゴリー(本山→学問、中山→修行、末山→布教)に分かれていました。  国東半島は宇佐神宮・弥勒寺に伝わった天台宗の実践の場として、九州ではいち早く仏教が栄えた地域であり、宇佐・八幡神の影響を強く受けながら、厳しい地形での修行を好む山岳宗教との融合を経て、独特の六郷満山文化を花開かせました。

そのため、六郷満山では神仏習合の文化が色濃く、神社と寺院とが一体となって存在していたり、神社の規模が寺院と同等であったとする。また、寺院によっては後背の耶馬(岩峰)の中に多くの修行の場(岩屋・無明橋など)が設けられている。


並び立つ天念寺講堂・身濯神社      重文・木造阿弥陀如来立像のあった小両子岩屋

旧無動寺(下黒土・身濯神社)             中山仙境・無明橋


平安時代の面影がそのままに

  国宝・富貴寺大堂          真木大堂・木造阿弥陀如来坐像及び木造四天王 

不動明王の化身とされる木造太郎天立像    無動寺・木造薬師如来坐像及び十二神将 

六郷満山の文化財で最も有名なのが、国宝に指定されている「富貴寺大堂」です。富貴寺大堂の中には、中央の木造阿弥陀如来坐像(国重文)や大堂壁画(国重文)によって、平安時代の人々が思い描いた極楽浄土の世界が表現されている。

六郷満山では平安時代後期に仏像製作に取り組んでおり、各寺院に平安時代の仏像が残されています。富貴寺大堂と同じように阿弥陀如来像(富貴寺本堂・真木大堂・霊仙寺・小両子岩屋(鬼会の里))や、厳しい形相で衆生を教え諭す不動明王像(真木大堂・長安寺(太郎天)・応暦寺・無動寺)が多く残っています。その他には、日本最大の木造大威徳明王像(真木大堂)、木造薬師如来坐像 附十二神将(無動寺)など、地方の仏像では最高峰のものが多数残されている。


石造文化財の宝庫

熊野磨崖仏(㊨大日如来像 ㊧不動明王像)       鍋山磨崖仏(不動明王立像)

200基の五輪塔と磨崖五輪塔(霊仙寺墓地)           大曲の国東塔


国東半島は安山岩・凝灰岩の両方が採れる石材の宝庫であり、石造文化財は数え切れないほど残されています。
特に有名なのが磨崖仏であり、熊野磨崖仏(国史跡・国重文)には8mを超える日本最大級の磨崖仏(不動明王像)がありますし、鍋山磨崖仏(国史跡)・元宮磨崖仏(国史跡)・福真磨崖仏(県史跡)・堂ノ迫磨崖仏(県史跡)・梅ノ木磨崖仏(県史跡)など多数残されています。
また、宝塔が国東半島で独自の発展を遂げた国東塔、中世のものだけでも数万基残されている五輪塔、江戸時代の地元仏師による表情豊かな石造仁王像など、六郷満山はまさに石造文化財の宝庫となりました。


寺院の歴史が人々をつなぐ

修正鬼会(黒:荒鬼 赤:災払鬼)       オオダイ(大松明)を担ぐ長岩屋の人々

熊野磨崖仏での開白護摩行         神仏習合の峯入りでは神社にも詣でる


「国東塔の魅力 ~最も国東らしい文化財~」

智恩寺国東塔

国東塔とは「宝塔」の塔身に蓮華座が備えられたものをいい、すらりと縦に長い姿が美しい、国東半島独自の発展を遂げた石塔です。古い国東塔は単なる墓標ではなく、生前供養・追善供養・一族や寺門の繁栄のためにつくられたものも多く、数百年単位で位置の変更が無いものもあることから、仏の里・豊後高田市の歴史や文化を直接語ってくれる存在として貴重なものです。

国東塔は鎌倉時代後期からつくられるようになりました。市内では、銘から鎌倉時代のものと分かる国東塔は1基(塔ノ御堂国東塔)、様式から鎌倉時代のものとされる国東塔も数基(長安寺国東塔など)のみと特に貴重とされています。南北朝~戦国時代にかけての国東塔はかなりの数が残されており、銘が残されていたり、大型で形のよい塔は指定文化財にもなっています(県指定9基、市指定17件(兄弟塔なども含む))。


「仁王がいっぱい 豊後高田!」

豊後高田市には70以上の石造仁王が存在しており、その数は全国屈指になります。豊富な石材を使って、地元仏師・石工が多くの仁王像を造りあげました。
豊後高田市の仁王像のほとんどは江戸時代に造られたもので、全体として自由な作風が特徴です。その為、よくチャーミングだとか、人間味溢れると言われており、市内各所の仁王像の個性豊かな表情を求めて、「仁王様巡り」が人気である。

富貴寺の仁王像


都甲八幡社の仁王像


元宮八幡社の仁王像


豊後高田最古の白鳥神社の仁王像


日枝神社の仁王像


仁王様めぐりのお供に・・・

仁王様巡りのお供には「仁王マップ」が役立ちます! 「高田庁舎・商工観光課と真玉庁舎・教育庁総務課で配付していますので、お気軽にお声掛けください。」との事。是非ご連絡を!



六郷満山の文化財で最も有名なのが、国宝に指定されている「富貴寺大堂」である。富貴寺大堂の中には、中央の木造阿弥陀如来坐像(国重文)や大堂壁画(国重文)によって、平安時代の人々が思い描いた極楽浄土の世界が表現されている。


日本最大の真木大堂 木造大威徳明王像(国重要文化財)

真木大堂 阿弥陀如来坐像・四天王像(国重要文化財)

真木大堂 不動明王像・二童子像(国重要文化財)

六郷満山では平安時代後期に仏像製作に取り組んでおり、各寺院に平安時代の仏像が残されている。富貴寺大堂と同じように阿弥陀如来像(富貴寺本堂・真木大堂・霊仙寺・小両子岩屋(鬼会の里))や、厳しい形相で衆生を教え諭す不動明王像(真木大堂・長安寺(太郎天)・応暦寺・無動寺)が多く残っている。その他には、日本最大の木造大威徳明王像(真木大堂)、木造薬師如来坐像 附十二神将(無動寺)など、地方の仏像では最高峰のものが多数残されている。

大分高田長安寺 太郎天像(国重要文化財)


富貴寺境内は、平安後期に創建されたと考えられる寺院境内で、のちに国東半島に所在する天台宗寺院の集合体である六郷満山の一つとなった。現在は天台宗寺院である。国東半島中央部に源を発し西北に流れ周防灘に注ぐ桂川の支流蕗川の作る蕗谷に位置する。奈良時代に仁聞が開基したと伝え、貞応2年(1223)の文書に「蕗浦阿弥陀寺」と見えるのが初見である。当時は宇佐大宮司家累代の祈願所であったが、その後南北朝時代になると、天台宗の六郷満山の一末寺となっており、肥後の菊池氏とともに懐良親王を支えた調氏の影響下にあった。この調氏が大堂の大修理を行っていた。江戸時代後期の史料によると、境内には大堂(講堂)、院主坊、客殿のほか、鎮守六所権現社、薬師岩屋等があった。また、同じ資料によれば、その周辺には大門坊や妙蔵坊等六坊や末寺の清音寺があったが、ほとんどが当時百姓屋敷となっていたと記されている。  現在の境内には、平安後期建立の建築として国宝となっている大堂を中心として、その西に宝暦11年(1761)建立の六所権現社、東には正徳5年(1715)建立の本堂・庫裏、創建の時期は不明だが奥ノ院が存在する。六郷満山の寺院は、講堂の背後に六所権現社と奥の院を配するのが通例だが、富貴寺の場合はこれと異なっており、創建当初は六郷満山に組み入れられていなかったことを物語る。  このうち大堂は、正面3間、側面4間の本瓦葺宝形造である。内部は中央やや後方に四天柱が立ち、その中に須弥壇がある。須弥壇の上には本尊阿弥陀如来坐像を安置する。周囲の壁や四天柱には阿弥陀浄土図等が描かれ、浄土世界が表現されている。

富貴寺境内 笠塔婆


 現在の富貴寺境内には国宝の大堂のほかに本堂、薬師 岩屋(奥ノ院)、白山社(六所権現社)などの堂舎のほか、笠 塔婆や仁王像、十王石殿などの石造物、護摩堂跡や妙蔵坊 等の坊跡の遺構など、富貴寺の永い歴史を映す数多くの 文化財が所在している。  これらを含めた境内全体が、その中心にある大堂を今 日まで守り続ける役割を果たしたといえる。


『六郷満山寺院群詳細調査報告書』について


豊後高田市では、平成25~27年度にかけて、六郷満山に関連する石造物・仏像・遺跡などの価値を再発見し、これからもより良い保存・活用を目指していくために、市内24ヶ所の六郷満山寺院について詳細調査を行ってきた。
その成果として、『六郷満山寺院群詳細調査報告書』が完成した。
『六郷満山寺院群詳細調査報告書』は、市政情報コーナー(市役所高田庁舎1階)に配架。
六郷満山について、より深く勉強されたいという方はぜひご参照されては如何ですか。


お問い合わせ

教育庁文化財課
〒872-1101 大分県豊後高田市中真玉2144番地12(真玉庁舎)
電話番号 0978-53-5112, ファックス番号 0978-53-4731




鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使



協力(順不同・敬称略)

豊後高田市役所
〒879-0692 大分県豊後高田市是永町39番地3(高田庁舎)電話番号0978-22-3100(代表)

宇佐神宮 〒872-0102 大分県宇佐市大字南宇佐2859 TEL:0978-37-0001

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111