東京 (14/01/22) 江戸城 (26) 内曲輪16門 / 内濠 (9) 坂道巡り (2) 港区 (2)
- 稲荷坂、末広稲荷神社
- 栄閑院 (猿寺)、杉田玄白墓
- 興昭院
- 愛宕新坂
- 切通坂 (手まり坂)
- 銀杏坂
- 西久保八幡社
- 西久保八幡社男坂/女坂
- しいのき坂
- すべり坂
- あひる坂
- 七面坂
- 大黒坂 (大国坂)
- 大法寺
- 一本松坂
- 一本松
- 狸坂 (旭坂)
- 暗闇坂 (宮村坂)
- 狐坂
- 中坂
- 芥坂 (ごみざか 紺屋坂)
- 北条坂
- 鉄砲坂
- 内田坂
昨日、沖縄那覇空港から成田行きフライトに乗ったのだが、那覇空港は、コロナの感染再発のせいか、ひっそりとしていた。国際線はクローズ状態、レストラン街は閑古鳥。機内も三十数名の乗客。今回はピーチエアーで来たのだが、ピーチも沖縄-東京は減便で通常のフライトの半分。それでもまだ客席はガラガラ。このフライトは片道5000円以下なので、このフライトでの収入は15万円。大赤字だろう。この状態が続けば、航空業界はどうなるのだろう..
前回、東京を訪問した最終日 (2021年10月8日) から、大江戸坂道巡りを始めた。今回は江戸城三の丸、二の丸、本丸の訪問では無く、前回からの続きの坂道巡りをする。江戸城内部の訪問は季節が良くなって、花が咲いている時期にする。前回始めた坂道巡りは港区の赤坂近辺から始めたので、今回は港区内の坂道に絞って行う。インターネットのサイトでは、東京23区の坂道の情報はかなり多い。坂道マニアもブログで紹介している。それらの情報をもとに巡る。
稲荷坂、末広稲荷神社
栄閑院 (猿寺)、杉田玄白墓
愛宕山の愛宕新坂に向かう途中、愛宕山の西側麓に解体新書を著した杉田玄白の墓と石碑が建っていたので立ち寄った。ここは栄閑院という浄土宗の寺院は、久蓮社俊誉園應和尚が1625年 (寛永2年寂) が、天徳寺の塔頭として創建された。猿寺とも称されていた。門を入った所に猿塚があった。寛永の頃に猿回しに扮した泥棒が、住職に改心させられました。泥棒は猿を置いて諸国行脚に向かい、猿は寺の人気者になり、それが猿寺と呼ばれる由縁。本堂の横に杉田玄白の墓があった。墓には隷書で幸 杉田先生之墓と書かれている。隷書と知らなければ、杉田とは読めない。
興昭院
栄閑院の隣には浄土宗の興昭院という寺があった。こんにゃく閻魔と呼ばれる石造閻魔王像があり、興味を引いたので、ここにも立ち寄った。この閻魔は、眼病に霊験あらたかとして信仰され、祈願者の願いが成就した時には、そのお礼として「こんにゃく」を供えるならわしとなっていたという。今ではその風習は失われている。
愛宕新坂
愛宕山の西北をぐるっと回って愛宕神社に上る舗装道路で、1886年 (明治19年) に、当時ここにあったホテル愛宕館の申請によって造られた坂で江戸時代にはまだなかった。上りつめたところにNHK放送博物館 (写真右下) がある。
切通坂 (手まり坂)
愛宕山の南の青松寺の脇からの坂道で、青龍寺の前を通り、オランダ大使館、芝給水所に至る。この坂は長い坂で切通坂と呼ばれており、オランダ大使館の前の道は手まり坂 (写真右下近辺) とも呼ばれていた。寛永年間のころに山を削り切通しを通して道が開かれた。江戸時代の古地図からも分かる通り、坂下の一帯は寺だらけで、その参拝客目当ての芸人小屋が立ち並び大変賑やかだったそうだ。
銀杏坂
江戸時代の増上寺と徳川家の霊屋の敷地だった北部分に建てられている東京プリンスホテル (写真左下) に沿った北側の道は銀杏坂と呼ばれている。この地一帯は芝公園 (写真下) で,建設当時、地形は多くの改造が行われ、新道も開かれて昔とは随分変わっている。銀杏坂も昔とは変わってしまっている。
西久保八幡社
神谷町に西久保八幡神社があった。この神社は、源頼信の祈願により寛弘年間 (1004-1012年) に霞ヶ関に創建されたが、太田道灌の江戸城築城に際して、1600年 (慶長5年) に、この地へ遷座している。関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として1634年 (寛永11年) に社殿が造営されたと伝わる。愛宕山の西方の窪地にあったので西窪 (西久保) 八幡社と呼ばれるようになった。は,愛宕山の西方の窪地の意味。はじめは霞ヶ関にあり,現在地に移ったの。源頼信は源満仲の三男で、河内国石川郡壷井 (現 大阪府羽曳野市壺井) を本拠とする河内源氏初代当主。摂政藤原道長に仕え武勇に優れた将軍として名を馳せ、平将門以来の大乱となった平忠常の乱 (1030年) を平定、坂東武士を膝下にまとめ河内源氏東国支配の礎を築いた。
西久保八幡社男坂/女坂
西久保八幡社への参道は二つあり、西久保八幡社正面の44段の石階を男坂とよび,右方のゆるい石段坂を女坂と呼ばれている。
しいのき坂
西久保八幡社の北側にある仙石山レジデンスとスウェーデン大使館の南 (写真左下) にしいのき坂がある。仙石山レジデンス (写真右下) は仙石山テラス・六本木ファーストビルなどと共に,2012年に開発され、その際にこのしいのき坂の道路が新設された。
すべり坂
麻布に移動。麻布十番大通りから環状3号線への短く緩やかな坂道が二本ある。一つがこのすべり坂。雨が降ると泥んこ道になり、滑りやすくなったそうだ。
あひる坂
すべり坂に並行に走るの隣の坂道ほんの小路である。坂名の由来はわからないそうだ。江戸時代の地図には無いので、明治以降に造られたのだろう。
七面坂
あひる坂から麻布十番大通りを越えて南に登坂が七面坂。坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていた事で、このように呼ばれている。
大黒坂 (大国坂)
七面坂の南は別の通りにぶつかる。ここから大黒坂が始まる。西側に登りになっており、坂の途中に大法寺がある。この寺では港区七福神のひとつの大黒天を祀っている事が坂道の名の由来。
大法寺
日蓮宗の大法寺は1597年 (慶長2年)、慈眼院日利上人によって創建された。ここで祀られている大黒天は「三神具足大黒尊天」と呼ばれ、大黒天の小槌を持ち、弁財天の髪をして、背には毘沙門天の鎧をつけているところから、大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を表しているといわれている。この大黒様は、もとは麻布六本木の旧家伊勢屋長左衛門の秘仏だった。ある時、この大黒が、長左衛門の夢枕にたち、「長く伊勢屋にいて福寿を授けてきたが、これからは大勢の人に福寿を授けたい」と告げた。目が覚めると、大黒は居なくなっていた。長左衛門が、大黒を探すと、大法寺に鎮座していた言い伝えがある。
一本松坂
大黒坂を登り切った所に一本松があり、そこを通る道が一本松坂。
一本松
ここにある一本松には伝説が伝わっている。平将門との戦いを終えた源経基はその帰りにここにあった民家に泊まり、翌日着ていたものをここの一本松の木にかけて出発した。それ以来、一本松は枯れては植え、枯れては植えを繰り返して植え継がれてきている。松の周りにはいくつもの石碑と灯籠が置かれて、その寄進の年が刻まれているのだが、どれも江戸時代の古いものだった。
狸坂 (旭坂)
一本松がある所は、四本の坂道が合流する場所になっている。大黒坂と一本松坂は先程通ったが、後二本の一つが狸坂。この坂では人をばかすたぬきが出没したといわれていたのでこの名がついた。旭坂とも呼ばれるのだが、坂が東へ登り坂になっているからとの説がある。
暗闇坂 (宮村坂)
もう一本の坂が暗闇坂。樹木が暗いほどおい茂った坂であったと言う。以前の宮村町を通るため宮村坂ともいった。
狐坂
狸坂を下ると、道は登り坂に変わる。この坂では狸ではなく狐が出没し、時々人を化かしたというので狐坂と呼ばれる。大隅坂ともいい、昔はさびしいところだったそうだ。
中坂
狐坂を登りきった所には中華人民共和国の大使館があり、大勢の警官が警備していた。狐坂は大使館を過ぎると道は下り坂になる。中坂と呼ばれている。北条坂と芥坂の間を西へ下るのでこう呼ばれる。この辺りはかつて麻布三軒家町といったが、それは元禄9年に地主3人が町家をたてたことによるそうだ。
芥坂 (ごみざか 紺屋坂)
中坂の北側には芥坂 (ごみざか) がある。短い坂で、崖線の芥捨場になっていた脇を下っていたので、この名がついた。別名の紺屋坂は坂脇に紺屋が一軒あったと伝えられている。
北条坂
中坂の南側が北条坂下で、この坂近く南側に大名の北条家の下屋敷があったためにこの名がついたそうだ。
鉄砲坂
北条坂の坂下部は鉄砲坂の別名がある。江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた。
内田坂
北側の六本木ヒルズとの間に長い坂道が東西に走っている。六本木高校の脇を通っている。この高校は江戸時代には内田豊後守の屋敷だった。
この時点でで午後4時半になった。東京の日没は沖縄に比べて1時間程早い。そろそろホテルに向かわないと日が暮れる。今日はこれで打ち止めとする。