信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・49(山形城包囲網にほころび)
永禄3年の12月の最上家の評定では、さらに重苦しい空気の中で行われた。
山形城と真室城は伊達軍によって包囲され続け、山形城城下では一揆も勃発していた。
戦力がなく救援を送れない中で、状況は確実に悪くなっていた。
そんな中、白寿丸からの金を朝廷に送る段取りが付いたという報告は、元来望んでいたことだったが、莫大な軍資金を成るかわからない朝廷の和平工作に使用することへの不安も、家臣たちには芽生えてきていた。
だが当主・義守は、計画通り朝廷工作の金の輸送を指示した。
もはやいくら金を使おうが、伊達家と戦う戦力は整わないことはわかっていたからだ。
また氏家守棟には、新たな発見を求め、蝦夷地の巡察を命じた。
領内の開発は引き続き、池田盛周に開墾を命じた。
永禄3年12月。
伊達家の亘理元宗隊らは、最上家の鶴ヶ岡城へ迫っていた。
最上家には応戦する兵力は残されていなかった。
永禄3年12月。
山形城を包囲する伊達軍の中で、一部の兵士が寝返りを行い、背後より襲撃する最上軍に加わったという噂が流れた。
総大将を引き継いでいた須田盛秀は詳細を調べたが、どの部隊からも裏切りものはないという報告がなされ、軍紀をを律した。
だが、最上家の背後からの襲撃に恐れていた将兵の多くは、この噂を否定する須田盛秀はどうかしていると、ささやきあった。
事実として、伊達家の具足や旗を掲げた者に、襲撃され始めていた。
永禄3年12月。
北条氏康は北条綱成隊兵4000に、佐竹家の烏山城攻略を命じた。
永禄3年12月。
松平家の長篠城に対し、武田・今川連合軍が侵攻を開始した。
松平家は織田家に救援を要請し、織田家の軍勢は三河国へ続々と進軍した。
永禄3年12月。
日之江城を攻略した島津家は、さらに北上して高城城を目指した。
対する竜造寺家も次々と部隊を送り込み、戦力ではほぼ互角の戦いとなっていた。
永禄4年1月の評定では、氏家守棟の巡察の報告がなされ、徳山館周辺で馬の資源が見つかったとの報告がなされた。
また山形城での一揆は収まる気配がないという報告もあったが、天童頼長は状況が変だと気づき始めていた。
いくら堅固な山形城であっても、2万もの軍勢を相手に7か月ももちこたえることなど考えられなかった。
伊達家に何かが起きているのではないかと、義守に話しかけた。
義守は「だが・・・」とうなだれ、「向かわせる兵力がないではないか」と力なく言い返した。
この時、氏家守棟は当主の無様な言動から目をそらした後に、こう呟いた。
「そんな弱い男ばかりが最上ではありませぬ。」
氏家守棟は二人の武将を思い出していた。
父と、そしてこの戦を始めた男のことを。
永禄4年1月。
伊達軍の部隊で寝返りが発生しているという噂は瞬く間に軍中に広まり、多くの部隊が撤退を始めた。
そんな中にあっても蘆名盛氏隊ら一部の部隊は、城の包囲は解いてはならぬと山形城にとどまった。
伊達家との初戦で敗戦敗走し、命からがら高水寺城に帰った城主・九戸政実は、再び軍備を増強し、伊達家侵攻の機会をうかがっていた。
永禄4年1月。
山形城を包囲する部隊の多くが撤退を始めたとの報告を受けた政実は、伊達家の寺池城に向けて、総勢2400の兵で出陣した。
伊達家は城主・田村隆顕が兵1000で迎撃に出た。
永禄4年1月。
北条家の北条綱成隊は、難なく烏山城を攻略した。
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