初代 神武天皇 10.伊須気余理比売
イワレビコ、正しくは神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのすめらみこと)が、前回、ついに大和を平定いたしました。
一般に言われている「神武東征」の完了であります。
筆者は、所謂小学校の社会科歴史教育以前に、きっかけはなんだったか忘れましたが日本史好きになり、最初は武士が興ったあたりから、面白いもので過去と未来にその興味が広がっていきました。
あ、言い方わかりづらいですね。
要するに、未来とは、鎌倉、室町、江戸時代と現代に近づいていき、過去は平安、奈良、大和、先史と遡っていったのです。
こういう学習の仕方は珍しいかもしれません。
また、意図的にそうしたのではありませんでした。
ごく自然に、そう、必然に... です。
多分、その方法が必要だったのでしょう。
しかし、そこで学んだことにひとつだけ大きな弊害がありました。
それは、現代に近づいていく方はすんなり自分の中に吸収されましたが、逆に過去に遡っていくことは、多くの「疑問」という抵抗に随所で遭遇したということです。
あ、歴史を逆流している違和感とか、そういうことではなく(実際にタイムスリップしているとか、そもそもが歴史って現実に起こっていることではなく、文書の読み込み作業ですから...)、なにか「流れ」がおかしいなって??
例えば、水は上から下に流れます、橋の下を流れています、山から海に流れていきます。しかし、なにかのきっかけでたまに支流ができます。でも、その支流があるとき本流になってしまいます。あるいは、その支流からさらに分かれた支流が本流に戻っていったりします。
そんなことを思っていたら、はっと気がついたのが、「毛細血管」でした。
そう、歴史というのは毛細血管みたいなもので、それが大きな脈流の形成になっているんだってことでしょうか??
歴史を下っているだけだと分からない、この色々な流れ。
その理由はただひとつ、「勝者の理屈」なんだっていくこと。
ここに小学校歴史教育を受ける以前に辿りついてしまいました。
だからなのかどうだかは分かりませんが、古代史の中で、当時からの疑問は、
なにゆえ神武東征??
でした。
そう思いますよね??
遡っているからこそ分かる、
「では、わたくしたちの先祖さまは西からこられたんだ??」
「なんで、この国の民じゃないんだ??」
「では、その前からここに住んでいた人間はどうなったの??」
「いや、そもそもこの国には民は存在しなかったのかなぁ??」
普通にそう思います。
だって小学校4年生くらいですから。
さらにいえば、武士の興りの方は並行してきちんと現代に向かって学んでましたから??
どうして武士が興ったのか??
なぜ鎌倉幕府は必要で、さらになぜ源氏が統領にならなければいけなかったか??
どうして北条氏は執権だったのか、また、将軍職にならずに朝廷から将軍を迎えなければ成り立たなかったか??
そして、なぜ滅びて、次も武士の政権が必要だったのか??
みな、全部納得して学んでます。
こっちは辻褄があうんですね。
そこに並行して、一方では遡っていきます。
おもしろい!
だから、わたくしには歴史は面白く学べたし、更に迷ったときは「今の自分の位置」を軸に置くと、ほとんどの歴史の虚実が判明してくるんですね。
その当時は...
昨今、科学の発展もあり、歴史学を裏付ける新たな素材がたくさん放出され、歴史は新しい「発見と発掘」、そして、それによる「開発」の時代に入ってきました。「歴史の開発」って、言葉的にはおかしいかもしれませんが、まさに、これからはそういう時代です。
特に、神話、古代史は...
さて、古事記ではついにイワレヒコが大和を統一して、神武天皇になりました。
(現代語訳)
イワレビコ命(神武天皇)が日向にいたときに、阿多の小椅君(オバシノキミ)の妹の阿比良比売(アヒラヒメ)と結ばれて、生んだ子供が、多芸志美美命(タギシミミノミコト)、次に岐須美美命(キスミミノミコト)のニ柱です。
ですがイワレビコ命が更に皇后として美しい女性を探していると、大久米命(オオクメノミコト)が言いました。
「ここに良い少女がいます。 少女は神の御子といわれています。 神の御子といわれる理由は……
三島湟咋(ミシマミゾクヒ)の娘に勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という美しい少女がいました。
美和(ミワ=三輪)の大物主紳(オオモノヌシ神)が彼女を気に入り、少女が大便をしているときに、丹塗矢(ニヌリヤ=丹を塗った赤い矢)に変身して、そのトイレの水が流れる溝に流れて、少女の陰部を突きました。
驚いた少女は慌てて走り回りました。
すぐにその矢を床に置くと、矢はたちまち立派な男になりました。その少女を美麗な壮夫(オトコ)が娶って生んだ子供が「富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ命)」です。別名を「比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)」といいます。
ホト(=陰部)という名前を嫌って後に名前を変えました。
そういうわけでイスケヨリヒメは神の御子というのです」
とオホクメ命はいいました。
※実は、古事記の中で最初に「大物主」がここで登場してくるのです。
大国主命のところでは、まだ、三輪山に鎮座されたということまでで、実際に「大物主」というお名前は出てきていないのでしたね。
(現代語訳)
さて、七人の乙女が、高佐士野(タカサジノ)に野遊びに行った。イスケヨリヒメもその中に加わっていた。するとオホクメノ命は、そのイスケヨリヒメの姿を見て、歌でもって天皇に申し上げた。
倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をしまかむ
(大和の高佐士野を七人行く乙女よ、その中のだれを妻としようか。)
このときイスケヨリヒメは、その乙女たちの先頭に立っていた。そこで天皇は、その乙女たちを見て、心の中でイスケヨリヒメが一番前に立っているのをお知りになり、歌をもってお答えになった。
かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ
(ともかくも一番先に立っている、年上の乙女を妻としよう。)
そこでオホクメノ命が、天皇のお言葉をそのイスケヨリヒメに告げ明かしたとき、姫はそのオホクメノ命の周辺に入墨をした鋭い目を見て、、不思議に思って歌っていうには、
あめつつ ちどりましとと など黥ける利目
(あま鳥、つつ、千鳥、しととのように、どうして目じりに入墨をして、鋭い目をしているのですか。)
するとオホクメノ命が答えて歌っていうには、
媛女に 直に逢はむと 我が黥ける利目
(お嬢さんにじかにお会いしたいと思って、私は入墨をしてこんなに鋭い目をしているのです。)
そこでその乙女は、「天皇にお仕えいたしましょう」と言った。
ところで、イスケヨリヒメの家は狭井河のほとりにあった。天皇は、そのイスケヨリヒメのもとにお出かけになって、一夜おやすみになった。その河を佐韋河というわけは、その河のほとりに山百合がたくさん生えていた。それで、その山百合の草の名をとって佐韋河と名付けた。ヤマユリの本の名は佐韋というのである。
※歌は、男女のやり取りの中で使われますが、それは古事記でも一緒です。
もう、この時代から歌を送りあっていたのですね。
わたくしには歌心は不足していて、細かい部分までは残念ながら解説できませんが(のちほど、纏めて解説いたします。大した内容にならないと思いますが... なにしろ、歌心がありませんので...)、さすがに日本の古典文書だなぁと単純に感動しております。