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Kazu Bike Journey

東京 (16/01/22) 江戸城 (28) 内曲輪16門 / 内濠 (11) 坂道巡り (4) 新宿区 (1)

2022.01.17 04:53


東京滞在三日目、今日は娘たちと夕食をするので、日中は新宿付近から待ち合わせの練馬方面に向かって坂道を巡ることにする。


まずは泊まっているホテルのある東新宿近辺の新宿地区の坂道と周辺の文化財を巡る。


西向天神社

泊っているホテルの裏すぐのところに神社があることは気づいていたので、寄ってみた。西向天神社という。この神社は、1282年 (安貞2年) に明恵上人 (1173-1232) が京都の北野天満宮を勧請し、創建したと伝えられ、社殿が太宰府天満宮の方の西を向いているため西向天神と呼ばれた。天正年間 (1570年代) に全焼したが、聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、再興されている。寛永年間 (1630年代) に徳川家光の鷹狩りの祭に、黄金の棗 (なつめ) を下賜されたことから棗の天神ともいわれている。この地域はかつての東大久保村で、村の鎮守で大久保の天満宮とも呼ばれていた。東都七福神の一つだそうだ。(亀戸天神社、湯島天満宮、平河天満宮、牛天神北野神社、五條天神社、関屋天満宮) 

境内には社殿 (写真左上)、神楽殿 (右中)、中世より春日部にあったが、後にこの地へ移転し、別当寺の梅松山大聖院 (右下) がある。梅松山大聖院は江戸時代には聖護院宮を開基とする門跡寺院で、天台宗本山派 (修験派) の江戸番所として江戸の拠点となっていた。

階段になっている表参道一之鳥居とは別に、裏参道東の鳥居 (写真左上) がありそこを入った広場には、1842年 (天保13年) 築造、明治期に一時的に撤去、1925年 (大正14年) に再建された富士塚 (写真左下)、富士講碑 (右下)、大東亜戦争戦没者慰霊碑 (右上) などがある。


紅皿の墓

西向天神社の裏の駐車場の片隅に太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女の紅皿の墓があった。墓は中世の十三仏板碑となっている。江戸時代中頃成立した伝説では、太田道灌が高田の里 (現在の面影橋のあたり) へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りよう と立ち寄った。その家の少女紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、御拾遺集の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具 (蓑) のないことを伝えた。ところが、道灌は「蓑が欲しいと言ったのに山吹の花では役に立たない」と怒って帰ってしまった。帰宅した道灌がこのことを語ると、近臣の一人が「その歌は、醍醐天皇の皇子の中務卿兼明親王が詠まれたもので、その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」という。驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになり、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。

この山吹の里伝説は自分の幼少期には子供向けの読み本や絵本があり、良く知られたものだった。今の若者は知っている人は非常に少ない之ではないかと思う。今でもその時に読んだ内容や挿絵は頭に残っており、懐かしさを感じた。山吹の里と伝わる場所は都内には数か所あり、都以外にも埼玉県越生町、神奈川県横浜の六浦に存在するそうだ。それほど、江戸中期から昭和中ごろまでは、大衆に好まれた話だったことがわかる。


山吹坂

表参道の階段以外に、西向天神社の西側から神社に上る かなり狭い石段。この坂上の大聖院にある「紅皿の碑」にちなみ,こう呼ばれるようになった。


不動坂

もう一つの階段坂が、山吹坂と同じ大聖院の境内に上がる北側の参道階段。


厳島神社 (抜弁天)

西向天神社から北に向かい抜き弁天通に出る、その交差点に、この通りの名のもとになった抜弁天がある。正式には厳島神社という。その昔、源義家が戦勝祈願した厳嶋神社という。この近くを旧鎌倉街道が通っていたために源義家の伝説が残っているといわれている。ここにある弁天社は抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天、新宿山の手七福神の一つに数えられている。


犬御用屋敷跡

神社付近一帯には、江戸時代元禄年間に設置された犬御用屋敷が置かれていた。五代将軍徳川綱吉の悪名高い生類憐みの令 (1687年 貞享4年) に伴って1695年 (元禄8年)、飼い主のいない犬を収容するため、四谷・大久保・中野に犬御用屋敷が設置された。ここの大久保の犬御用屋敷は、総面積2万3000坪という広さを誇り、約10万匹の犬を収容していた。1697年 (元禄10年) には手狭となり閉鎖とり、中野御用御屋敷に一本化されている。一般的には犬の過度の保護といわれているが、最近の研究者は野犬公害への対策、犬の繁殖を阻止が主目的であったと再評価している。1709年 (宝永6年)、徳川綱吉の死によって中野犬御用屋敷も撤去された。10万匹以上の犬がどうなったのかは、はっきりしないのだが、処理 (殺処分) されたとも、追い払われて散り散りになったともいわれている。


久左衛門坂

抜き弁天通りの抜弁天交差点から西北西に入る道を久左衛門坂という。現在の抜き弁天通りは交差点から西は江戸時代には存在せず、この久左衛門坂に続いていた。この坂は徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた大久保村の富豪の島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになった。


永福寺

久左衛門坂の北側は永福寺という曹洞宗の寺院がある。1648年 (慶安元年) 創建と伝わる歴史ある寺。本堂の前にはは珍しい露座の大日如来像と地蔵菩薩像 (ともに区指定文化財) が残っている。新宿山ノ手七福神の一つで永福寺は長寿の神の福禄寿を祀っている。


梯子坂

永福寺の北には別の坂道がある。「梯子坂 久左衛門坂北方の裏通に在り、東へ登り十間許り,坂道急にして、恰も梯子を登るが如し、故に名付く」と記載されている。坂は最大斜度 約20度の狭い45段階段になっている。昔から階段だったのかは書かれていないが、急でまるで梯子を登るようであったため、この名がついたとある。


団子坂 (馬の首団子坂)

抜き弁天通りの抜弁天交差点から東に緩やかに登る道が団子坂だった。昔はこの辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥だんごのようになったという。1854年 (嘉永7年) の江戸切絵図には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。



団子坂途中の若松河田駅を通り、大久保通りに出る。この大久保通りの北側、早稲田までの坂道とその周辺史跡巡りに移る。


夏目坂

団子坂は大久保通りに出て、夏目通りに続く。夏目通り早稲田方面に向かって下りとなり、夏目坂と呼ばれている。夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになったという。通りには夏目漱石にあやかった商店が幾つかある。この近くには漱石終焉の地 (後日訪問) もあり、漱石ゆかりの地となっていた。


下戸塚坂

夏目坂から西に1ブロックの所に並行して走る下戸塚坂という坂道がある。江戸時代、このあたりは武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。1872年 (明治5年) に下戸塚町となったことで、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。


感通寺、津山藩松平家高田下屋敷

夏目坂と下戸塚坂の間に感通寺がある。寂陽院⽇建上⼈によって、1630年 (寛永7年) に開⼭され、松平越後守の津山藩高田下屋敷の⾼⽥御殿跡であり、本堂とともに毘沙⾨天堂 (写真中) と⽵駒稲荷尊 (これは見つからず) がある。資料ではこの感通寺は下屋敷跡となっていたが、江戸時代の地図ではこの寺院の前の道を挟んだところが下屋敷になっている。江戸時代の地図は時代によりいくつもあるので、ある時代ではここも下屋敷の一部だったのだろうか?

1600年 (慶長5年) 関ヶ原の戦いの後、美作国は備前岡山藩主小早川秀秋が領していたが、1602年 (慶長7年)、嗣子が絶え廃絶となった。1603年 (慶長8年) に信濃川中島藩より森可成の子忠政が入部し、 津山藩が立藩。美作の府庁として津山城の築城し、城下町も整備され、藩政の基礎が築かれた。1697年 (元禄10年)、四代森長成が死去し、後継ぎの衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中に伊勢で狂心し、幕府は美作津山藩を召し上げ、隠居した長継に備中国西江原藩の再襲移封、支藩の津山新田藩は播磨国三日月藩、宮川藩は備中国新見藩にそれぞれ転封した。1698年 (元禄11年)、結城秀康を祖とする越前松平家分家の松平宣富が10万石で津山に入部、以後廃藩置県まで松平氏が治めた。幕末にはこの下屋敷で炮術稽古、射撃訓練が行われた。1871年 (明治4年) 廃藩置県により津山県となる。北条県を経て岡山県に編入。

[津山藩松平家江戸屋敷: 鍛冶橋上屋敷、浜町中屋敷、高田下屋敷、深川下屋敷]


来迎寺

夏目坂には多くの寺院が集中している。その中に浄土宗寺院の来迎寺に立ち寄った。祟蓮社傳誉上人学阿西入良縁和尚が1631年 (寛永8年) 創建したと伝わる。境内に庚申塔 (写真下中) が残っていた。


八幡坂

夏目坂を下り、夏目通りを進むと早稲田通りにぶつかる。早稲田通りを北西に進むと、八幡坂がある。ここに穴八幡神社があったことで八幡坂と名づけられている。昔は急坂だったようで、坂の下り口と上り口には、いわゆる「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止める手助けをして、賃金をもらっていたと伝えられている。


高田八幡 (穴八幡神社)

八幡坂沿いに穴八幡神社がある。この神社は1062年 (康平5年) に源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀った事から始まる。今日訪れた厳島神社 (抜弁天) では源義家が奥州討伐に向う前に戦勝祈願をしたとされていたことを思い出した。1636年 (寛永13年) には、ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。1641年 (寛永18年)、神社の増築の際に横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、以来、穴八幡宮と称するようになり、三代将軍徳川家光は、穴八幡宮を幕府の祈願所、城北の総鎮護とした。


高田八幡男坂

参道を入って正面の急な階段が高田八幡男坂。坂下に大きな石鳥居、坂上に朱色の随身門がある。


高田八幡女坂

参道を入って正面の急な階段の高田八幡男坂の手前を左に上り、石垣に沿って右に曲がりながら上る坂。この神社の正面参道の急な「男坂」を南に迂回する坂が「女坂」。



高田八幡 (穴八幡神社) から早稲田に向かう。


グランド坂

早稲田大学のキャンパス北側に緩やかな坂がある。グランド坂と名付けられている。江戸時代の地図でもこの通りは存在しているが、無名坂だった。以前あった戸塚球場 (今の早大総合学術センター) のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。


地蔵坂

グランド坂から早稲田通りに戻り西に進む。かつての高田馬場を通ると地蔵横丁に交わる。ここから登坂があり、地蔵坂と呼ばれている。この地に住んだ小泉源兵衛の功績を讃えて享保の時代に造られた源兵衛地蔵の横を走る道で地蔵坂と呼ばれるようになった。


源兵衛地蔵尊

地蔵坂の起点に源兵衛地蔵尊がある。この地域の商店街、通り、坂道の名として残っている。この地蔵尊付近は、元祿の末頃に源兵衛という人が、鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開墾し、同心の人々が集まり、28戸の村ができ、源兵衛村という名付けられた。その後、二~三十年の間に、亡くなった源兵衛や同心縁者の菩提の供養とその、功績を讃え、村民が講中を結集して1726年 (享保11年) にこの地蔵尊を安置した。源兵衛村は戸塚町、そして西早稲田と地名は変わったが、西早稲田商店街のシンボルにもなっている。子育て地蔵という事で、今日も途切れなく、子供連れの家族がお参りに来ていた。


早稲田通りを西に進み、落合に移動する。早稲田通りから新目白通りに入ると落合になる。新目白通り北側は下落合で斜面になっており、その地域には何本も坂道があり、そこを訪問する。


相馬坂

地蔵坂から下落合に移動する。江戸時代の地図には存在していない。ここには江戸時代は一般人の立ち入りが禁止され、御禁止山 (おとめやま、御留山とも書かれる) と呼ばれた将軍家御鷹場 (現在はおとめ山公園) の側に相馬坂がある。明治時代になって鷹場は相馬家が買取り、屋敷を建てたが、この坂はその際に相馬邸に通じる道として開削された新坂で相馬坂と名付けられた。


七曲坂

相馬坂の西側に七曲坂がある。落合では最も古い坂道のひとつで源頼朝が和田山 (現在の哲学堂付近で和田義盛の居館があった場所) に出陣した時、この近くに陣を張り敵勢を探る為に七曲坂を開かせたと伝わっている。七曲というので、曲がり角を数えながら通ったが、7ヶ所はなかった。3ヶ所の曲がり角だった。調べると、元々は7曲りだったのだが、明治37年に交通の便の為、開窄してこの様になったそうだ。七曲坂の坂下新井薬師道との辻には石地蔵があり、供え物がされていた。


おばけ坂

新宿区立下落合野鳥の森公園のすぐ東を南に下る坂。江戸時代の地図にはこの道はないのだが、この地域の地図が詳細まで記載されていたかは疑問。ここにある薬王院の東側に当たる。


久七坂

豊多摩群誌には「久七坂、村道元耕作道、字本村に属す、急坂なり」とある。土地の人たちの話によれば、むかし、妙正寺川べりの田んぼは大半山上の農家のもので、久七坂も住家から田んぼへ下る野良道であったという。坂名はゆかりの人名にちなむものと考えられている。江戸時代の地図はあらわれていないが畦道ということなので、記載されていないのだろう。


聖母坂

聖母病院沿いに聖母通りが走り北に向かっての登坂になっている。この通りは明治以降に造られた道で、2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し 67路線の道路通称名を決定した。その際にこの聖母坂通りもその一つとして聖母通りとして標識が建てられた。


西坂

豊多摩群誌に「西坂 新宿道、字本村と字不動谷との間にあり」 とある。江戸時代の地図にある道と一致している。坂名の由来は、この坂が字本村の西に位置するからだという。かつて坂上にあった 徳川男爵邸の庭園は、ボタンや菊の時期に一般公開され、この坂あたりも賑わったという。


霞坂

豊多摩郡誌に「霞坂、大字下落合より小学校前へ開穿したる新坂なり」とある。むかし、この坂下は一面の水田だったので、春がすみの立つ、のどかな田園風景が美しかったという。


市郎兵衛坂

豊多摩群誌によれば 「市郎兵衛坂 中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。坂名の由来についてははっきりしないが、この坂にゆかりのある人名から名付けられていると思われる。江戸時代の地図にもこの坂道がある道は記載されている。


見晴坂

新目白通りから中井通りに入ると、登坂がある。むかし、この坂上からの眺望はすばらしく、特に富士山の雄大な姿は抜群であったということで見晴坂と呼ばれる。江戸時代から道のルートは少し変わっている。坂下の水田地帯は古来より落合蛍の名所として知られる。

先ほど通った相馬坂沿いのおとめ (御禁止) 山公園 (江戸時代は将軍家御鷹場) は特に名所で浮世絵にも描かれいる。


六天坂

見晴坂から西に1ブロックの所、同じく中井通りからの登坂がある。昔、この坂上に 第六天の祠が建っていたため、こう呼ばれるようになったという。大正時代に開かれた坂道である。坂上に第六天の祠があったため六天坂と名付けられたという。この第六天の祠があったが、現在のものは坂下に置かれていた。

第六天は、仏界欲天の最高位、且つ六道の天道 (天上界) の最下部である中の第六天に住む「他化自在天 (たけじざいてん)」の仏で、魔王とも呼ばれ、人々の喜びを自分の喜び、糧にするという。天人としての他化自在天は、弓を持った姿で描かれる。江戸時代、関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などで大流行した。西日本では全く見られない。明治以降神仏分離令により、第六天は稲荷神社と合祀されたりし、その姿はほとんど見えなくなってしまった。


山手坂

六天坂を登り路地は山手通りに繋がっていた。山手通りを渡ると、そこから坂道が分岐している。山手通りに直接下りる坂ということで山手坂と呼ばれているようだ。江戸時代の地図には中井通りは、昔からあるが、この坂道も山手通りも存在していない。2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し 67路線の道路通称名が決定した際に、山手坂通り、山手坂もその一つとして標識が建てられた。


振り子坂

山手坂は坂下で振り子坂と合流する。この坂も江戸時代には存在しない道。坂名の由来も不明。山手坂と同じく、2009年に新宿区が道路通称名を一般公募した際に名が付き、振り子と呼ばれている。


次に落合地区の西隣の中井地区に移動する。この地域は江戸時代は上落合村となっている。ここにも多くの坂道がある。江戸時代から名が付いている坂道は少ないのだが、2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し、名が付けられ、“一の坂”から“八の坂”まで番号のついた坂名が並んでいる。


一の坂

中井地区の“一の坂”から“八の坂”まで番号のついた坂名の一番東の坂が一の坂。この道は江戸時代には存在せず、大正末期に周辺の宅地化に伴いこの道が開けた。


二の坂 (蘭塔坂)

一の坂から1ブロック南に行った所、東からの中井通りが山手通りと立体交差する地点 (山手トンネル) を越えたの西側から、左右に曲がりながら上る坂が二の坂。この二の坂は江戸時代からの道で、蘭塔坂と呼ばれていた。坂下にその由縁を説明した柱が立っている。「かつてこの坂の途中に墓地があり、蘭塔と呼ばれる卵形の塔婆があり、多くは禅僧の墓標として用いられた。」


ここで時間切れとなった、4時半、暗くなるまではまだ30分あるのだが、5時に約束の場所に着くには、そろそろ向かわなければならない。この後の三の坂から八の坂までは次回に持ち越しとする。