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渋谷昌孝(Masataka shibuya)

ドン・キホーテ的冒険

2022.01.16 13:59
私が何かに注意し配慮しているとは、それが注意すべきものとしての地位が与えられているからこそである。注意すべきものとわかるから注意することができる。方向性なしに方向はないはず。ただ注意している側のほんとうの正体はわかっていない。私は私自身について知っている情報量の多寡とその真偽についてまったく自信がない。私を分析すればするほど私というものが分からなくなるほどであるから。真理に近づこうとすればするほど真理から遠ざかってしまうのは自然の流れである。私の本質(真理)に近づこうとすると私がさらに遠ざかり私がもはや私ではなくなるといった具合に。確かに外界に注意するものがあるように思える。注意されるものはこの分からない謎めいた私という何者かによって観察されるのであるが、地盤の曖昧な方から注意されるものがあるとしても、いったいどこに重心があるのかという問題が浮上してくる。注意するほうか、それとも注意されるほうか。明確な私という実態がない側から注意されるものを観察したとしても、誰がどのように観察しているのかはっきりしない。誰すら謎なのだ。さらに問題の根は深い。注意されるものは注意する側の影響を受けているのだから。注意されるものが初めから固定されてあるのではない。

注意しているとは気に掛けていることだが、この気に掛けて配慮しているものの正体が揺らいでいる。注意されているものは、この不明で不安定な存在である私によって注意され気にかけられているのであるが、この一連の現象そのものが不確かで曖昧になってしまうのではないか。注意や観察という現象に堅牢な土台などないのではないか。謎が謎について気に掛けるこの過程を現象ということができるのか。では話をもっと穏やかにしたらどうなるか。何かに対して気に掛けるとか配慮するとか観察するとかといった日常的な行為について意味を考えよう。気に掛けるとは私が気に掛けるものとしての有用性に気づいているから気に掛けられるのである。知ろうとする以前に知ろうとするものの価値をあらかじめ認めてしまっている。(或る方向に眼をやらなければその方向にあった或るものは見えないのは当然)。この未確認の価値を規定した主人こそ私という名で呼ばれるところの正体不明の謎的存在である。端的に表現しようとするならばこうなる。知るものと知られるものとの二項対立が成り立たないのならば、全ては幻想となるであろう。真理は幻想であるとしても、現実は現実として別に機能しているのだから、ここで考えたことは真理にまつわるドン・キホーテ的冒険にすぎないと言われても仕方ないのであるが。


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