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モルモン教会に裏切られて Betrayed By Mormon Church

ジーナ・ハンティントン・ジェイコブス・スミス・ヤング

2017.10.22 12:22

Zina Diantha Hntington  (jocobs Smith Young) 

ジョセフ・スミスの5番目の妻


生い立ち ●1821年1月31日生まれ ●父ウィリアム・ハンティントンは裕福な農夫、母はジーナ・ベイカー ●10人兄弟の8番目    兄のディミックは熱心なモルモン信者となる。    姉のプレセンディアも後にジョセフの妻になる    弟のオリバーも熱心なモルモンとなり、ジーナと仲良し ●大きな農場で仲の良い家族の中で育った。平和な子供時代を過ごした。 ●音楽が好きで、家族でオーケストラをした。父がバス・ビオール、母がチェロ、息子ウィリアムがコルネット、ディミックがドラムを担当。 ●14歳でモルモンに改宗。ハイラム・スミスからバプテスマを受けた。 ●19歳の時、ヘンリーと交際中にジョセフ・スミスにプロポーズされたが、これを 拒否した。 ●1841年3月、ヘンリー・ジェイコブスと結婚。彼の子供を二人産む。 長男はゼブルン(Zebulon)、次男はヘンリー(Henry ) ●1841年10月にジョセフ・スミスと結婚。教会の公式の教えでは、ヘンリーと別れてからジョセフと結婚したとあるが、これは正しくない。彼女と周りのの全て人たちの記録が教会の公式の教えが間違っていると物語っている。 ●1846年2月ブリガム・ヤングと結婚。彼の娘を一人産み、ジーナと名付けた。 ●ヘンリーが伝道中に、一方的に彼と離婚する。 ●エライザ・R・スノーの片腕であり、自分自身も扶助協会の会長を務めた。 ●いつも人に奉仕し、暖かい人柄だった。 ●1869年 ニューヨーク ワールド という雑誌でジーナはこう言っている。 「良く出来た多妻婚の妻というものは、自分の夫に対して無関心でなければなりません。   深い尊敬の念以外、どんな気持ちも抱いてはいけないのです。愛とは、間違った感情です。多妻婚において、愛という感情は存在してはならないものです」 バプテスマ ●ハイラム・スミスが祈っていた時、示現を見た。 「ある男性が水の中に入り、誰かにバプテスマを施している、天からの示現を見ました。それで、バプテスマを受ける時だと感じました」14歳でバプテスマを受けた。 異言を語る賜物 ●異言を語る力を持っていたらしい。 エライザ・スノーとエリザベス・ホイットニーと並んで、ジーナも異言を語るので有名だった。 ●こんなエピソードもある。ジーナの母親のジーナ・ベイカーが経験した話。 ある日、ジーナ・ベイカーは亡くなった隣人の死体に一晩中付き添った。 この隣人を生き返らせるだけの信仰が自分にはある、と思った。 死体に両手を置くと、彼は目を見開いてジーナを見つめた。これにはジーナも驚いて部屋を走り去り、死人は又眠りに就いた。 カートランドでの暮らしと銀行の倒産 ●予言者ジョセフ・スミスが訪れて、すぐに土地を売ってカートランドへ来るように勧告した。そこでジーナの家族は住み慣れた土地を売り、モルモンたちと住むことになった。カートランドで新しい家と土地を買って住始めた。 ●ジーナはカートランド神殿の聖歌隊に加わった。神殿で、彼女は天使たちが歌っているのを聞いたという。 ●母ジーナは貧しい人々に施しをして回った。娘のジーナもこれについていった。 ●父ウィリアムはカートランドの「アンチ銀行」にほとんどの財産を投資していた。1837年の秋、この銀行がつぶれ、自分の土地を失くしてしまった。 これについて弟のオリバーは皮肉を込めてこう書き残している。  「銀行が倒産して僕らは無一文になった、他のモルモンと同じように。いずれは貧乏になるだろうとは予測していた。だが、こんなにあっけなくそうなるとは!」 ●カートランドアンチ銀行とは? 予言者ジョセフ・スミスが神からの声を直接聞き、啓示によって指示された通りにKirtland Safety Society Anti-Banking Company(カートランド安全協会アンチ銀行)を立てた。しかし、これは実は州の議会から許可を得ないで立てたものだった。 最終的に、銀行は破たんし、多くの信者が財産を失い、ジョセフは怒った債権者たちから幾つもの裁判で訴えられた。 ●父ウィリアムは労働者として働くしかなかった。家族はほとんど食べるものがない状態だった。 カートランドを追い出される ●1838年5月21日、家族はカートランドからミズーリへと旅立った。この旅も、ユタへの旅ほど良く知られてはいないが、厳しいものだった。 ジーナ17歳の時である。ところがミズーリに住み始めてすぐ、反モルモンの攻撃を受けた。兄のディミックや弟のオリバーはDanites(ジョセフが結成した警備隊)の一員として働いた。ディミックはキャプテンにもなった。 しかし、彼らは1年もしないうちにミズーリを追い出された。 ダナイトについて ジョセフ・スミスは、つねに逮捕や襲撃、誘拐や迫害の恐怖にとりつかれいたので、攻撃するためというよりも、むしろ自分の身の安全を確保するため、防御のための軍隊を設置したのだという説があるが、恐怖心は人間を凶暴にするのである。事実スミスは、ノーヴー軍を教会の一部としてくみ込み、軍隊を自分の手足として使うようになるから、ノーヴー軍は私設の警察であり、軍隊だったのである。またスミスは、自分のための最強のボディー・ガードを組織し、スミスに敵対する人物をひそかに抹殺したり、暴力を用いて黙らせるのである。(高橋 弘 著 「素顔のモルモン教」)より ヘンリーとの出会い ●家族の多くがひどい病気にかかり、母親のジーナが死んで、家族はジョセフの家で世話をしてもらうこととなった。このように、ジーナは他の女性と同じおうに、ジョセフの妻になる前に彼と共に住んでいたことになる。 しかし、皮肉なことに、ここでジーナは初めの夫となる、ヘンリーと会うことになった。元気になった後は家族はジョセフスミスの家を出た。彼はバイオリンを弾くのがうまかった。 ●父ウィリアムはリディア・パートリッジ(エドワード・パートリッジの未亡人)と再婚した。このリディアの二人の娘、エミリーとエライザも後にジョセフの妻となる。 ●ジーナとヘンリー・ジェイコブスが交際している時、ジョセフ・スミスがジーナにプロポーズした。しかし、ジーナはこれを拒否した。ジーナは19歳。ジーナはジョセフを予言者と認めていたし、恐らく、兄ディミックからもジョセフとの結婚を勧められたろうが、ジーナはこれを拒否した。でも、悩んだのは確かである。彼女は日記にこう書いている。  「おお、神様、私に知恵を下さい!主よ、正しい道を教えて下さい。あなたのみ旨が行われますように。知性をもって私たちを照らして下さい。」 ●ジョセフは常にプロポーズする際に頑固だったので、拒絶されることが、更に彼を強引な求婚へと駆り立てた。ジーナがヘンリーと交際しているにも関わらず、である。 ヘンリーとの結婚と予言者ジョセフからの執拗な求婚 ●しかし、1841年の初め、ジーナはヘンリーと結婚することに決めた。これでもう、ジョセフが求婚してこないとホッとしたことだろう。ヘンリーがジョセフの求婚について知っていたかどうかはわからない。ただ、彼はジョセフの良き友であり、弟子であった。 ●ヘンリーとジーナは婚約し、ジョセフ・スミスに式を挙げてくれ、と頼んだ。  ジョセフはその役を引き受けた。 ●1841年3月7日、しかし、ジョセフは当日ドタキャンした。  ヘンリーとジーナはノーブーの市長、ジョン・C・ベネットに結婚式を執り行うように頼むしかなかった。 ●2人は後にジョセフ・スミスに会った時、「なぜ結婚式を挙げるのをドタキャンしたの?」と聞いたら、ジョセフは、「主がジーナは私の永遠の妻になることになっている、と言ったから」と言った。 ここで又、ジョセフは、ジーナはジョセフと結婚した後もヘンリーと夫婦としてに生活していてよい、と言ったのも明らかだ。  記録によると、ヘンリーはこれを受け入れたが、ジーナは非常に苦しんだ。当時のモラルは非常に高く、女性は夫婦の絆を大変清らかなものとして尊重していたからである。多妻婚だけでもおぞましいのに、多夫婚など、とても受け入れられるものではなかった。 ●1841年10月、悩み続けたジーナに、決断の時が来た。 ジーナの兄のディミックが、ジョセフ・スミスからのメッセージをジーナに伝えた。内容は以下の通りだった。  「さやから抜いた剣を持った天使が現れて、『もし一夫多妻をやらなければお前は今の地位どころか命も失うぞ!』と言ったのです。」  自分がジョセフと結婚しないと彼は予言者の地位を失い、殺されると思ったジーナは結婚をする決意をする。 予言者ジョセフとの結婚と苦悩 ●1841年10月27日、ジーナはジョセフと結婚した。この時、ジーナはヘンリーの子供を身ごもっていた。妊娠7か月だった。 兄のディミックが式を執り行い、その妻のファニーが証人だった。これはジーナを通して兄ディミックと父ウィリアムをジョセフに結び付けるものだったと思われる。 この結婚を決意するにあたって、ジーナは次のように書いている。 「私は神が多妻婚の法律をこの教会の中につくられたという証を得たの。 私は自分の命を捧げるよりも大きな犠牲を払った。もう二度と、敬意の目で私の愛する人たちから見られることはないでしょう。」 ●ヘンリーはジーナとジョセフの結婚を受け入れた。 後に、ジーナは  「私はジェイコブ氏と結婚したが、幸せな結婚ではなかった。だから私たちは離婚した。」 と書いている。 これを読む限り、次の順番でことが起きたように聞こえる。 ジェイコブスとの結婚ーー不幸せな結婚ーー離婚ーージョセフとの結婚 しかし、ジョセフが、人妻となったジーナにプロポーズした時は、まだ、ジーナとヘンリーは新婚だったのだから、不幸せになる時間はあまりなかったと思われる。それに、二人はその後も一緒に住み続けるのだから、このジーナの言葉は、彼女がジョセフとの結婚を説明する際に、同時に二人の男性と結婚していた事実から言い逃れをする為に後に書かれた歴史の「書き換え」であったと思われる。 実際、二人の結婚は、ジョセフが生きている間に離婚するに至るほど不幸なものではなく、ジョセフの死後何年も二人は一緒であった。 次々と伝道へと召されるヘンリー ●ジーナとヘンリーが結婚している間、ジョセフはジーナと肉体的関係を持ったか? ジョセフは他の妻たちと関係を持ったのだから、ジーナとも寝た、と思われる。 ヘンリーは次々と伝道へ行かされて家にいないことが多かったし。 ●ジーナはこう書き残している。 「それは誰かに話すにはあまりにも神聖で、私にとっては生きるか死ぬかの問題だったのです。何年もの間、安どの息を吸うことが出来なかったくらいでした。」 ●1842年1月2日、長男ゼブルンが誕生。彼はこう書いている。 ある時、父がコートを買って来たが、大きすぎた。母がこれを切って父にぴったり合う様に作り替えた。父は次の日曜日、それはそれは誇らしげにそのコートを着て行った。 ●ヘンリーもジーナと同じで、異言を語る賜物に恵まれていた。 ●1842年1月17日、ヘンリーはシカゴへ短い伝道へ行った。息子ゼブルンが生まれて1週間後のことだった。 ●1843年、ヘンリーは2,3か月の伝道へ。同僚だったジョン・D・リーによると、ヘンリーはジーナのことを自慢にしていた。「ほとんど崇拝していた」とリーは書いている。 ●1843年5月、ヘンリーはニューヨーク西部へ伝道に。10月に帰還。 ●1844年4月、テネシーへ伝道に行った。使命は ジョセフ・スミスの大統領選挙への出馬のキャンペーンの為。 ジョセフの死とブリガム・ヤングとの結婚 ●1844年6月27日、ジョセフ死亡。 ブリガムはジョセフから、もし自分が死んだら彼の妻たちを頼む、と言われていた。ブリガムはジョセフの妻たちのうち、9人と結婚した。ヒーバー・C・キンボールは11人と結婚した。他の妻たちは他の12使徒たちと結婚した。 ●ジョセフと結婚した既婚者妻たちは、彼の死後、元の夫たちと住み続けながらも今度はブリガムやヒーバー、他の12使徒たちと結婚した。 ジョセフの妻たちは、後に神殿でジョセフと永遠の結婚をする。 以下に彼女たちの状況を挙げる。 ①ルシンダ・ペンデルトンはジョージ・W・ハリスとこの世での結び固めを受け、2人は共に住み続けた。 ②パティ・セッションズはデビッド・セッションズと住み続けた。 ③例外だが、マリンダ・ハイドはオルソン・ハイドと永遠の結び方目をした。そして住み続けた。(後にマリンダは、オルソンがものすごく若い妻をめとったのを見て彼と離婚し、ジョセフと永遠の結び固めをした) ④エルビラ・コールズはジョナサン・ホームズとこの世での結び固めを受け、共に住み続けた。 ⑤サラ・クリーブランドは、引き続き非モルモンの夫と住み続けた。 ⑥シルビア・セッションズ・ライオンは、破門された夫と住み続けた。 ⑦メリー・ライトナーは、非モルモンの夫と住み続けた。 ⑧プレセンディア・ハンティントンは教会に反対していた夫と住み続けた。 ⑤~⑧の場合、夫が神権者でなかったので、ジョセフを妻と結び固める代理人になれなかった。それで、他の神権者たちが代理人として、まず、これらの女性たちと結び固めを受け、それからジョセフの代理人として、これらの妻たちをジョセフに永遠に結びつける儀式をしたのである。 非常に複雑だが、それでも、一定の法則にのっとっている。 とことが、ジーナの場合、この法則が破られた。 夫ヘンリーは忠実なモルモンだった。よって、彼はは神殿でジョセフの代理人としてこの世でジーナと結び固めを受けることが出来たはずであった。①~④の夫たちと同じ様に。 しかし、なぜかはわからないが、ブリガム・ヤングはジーナに強引に求婚した。 記録によると、こうだ。 「ヤング会長がジーナに言った、『もし私と結婚したら、もっと高い栄光に入ることが出来る』と。」 ところが、ジーナは既にジョセフ・スミスと結び固められていた。  よって、この世でブリガムと結び固められることが彼女の永遠の救いを  手に入れるチャンスをどうやって高めるのか?明らかにされていない。 ●1844年9月、ジーナはブリガム・ヤングとこの世の結婚の結び固めを受けた。 ヘンリーはこの事実を知っていた。しかし、ジーナはヘンリーと夫婦として住み続けた。恐らく、二人は一生このままともに連れ添って生きていくと思っていただろう。 ジーナとヘンリーのほほえましい結婚生活 ●ヘンリーは土地を買い、家を建てた。 ●1845年1月19日、ヘンリーは七十人の会長会の一人に召された。  ジーナは妻として誇らしげにこう書いている。   「ヘンリーは会長会の中で一番若いのよ」 ●二日後、ヘンリーは短い伝道へ行った。 ●1845年2月6日、ヘンリー家へ戻った。ジーナは 「ヘンリーは伝道で成功を収めた」と書いている。またまた、誇らしげに。 ●1845年2月11日、ヘンリーは又伝道へ。3月1日に帰ってきた。 ●1845年3月7日、ジーナとヘンリーは4回目の結婚記念日を祝った。 ●5月5日、ジーナはヘンリーの誕生日を日記に書いた。彼女は親しい家族のメンバーの誕生日を日記に書いていた。 ●この後、ジーナはヘンリーが何かの問題を抱えていて、それをとても心配していると日記に書いている。  「問題を抱えているヘンリーを慰めて下さい、彼は一言も不平をもらしていないのですから」 ●1845年6月11日、ヘンリーはブリガムに呼ばれて勧告を受けた。彼が何か反抗的な態度を示したからなのかはわからない。 ●この頃、ジーナの日記には、病気のエライザ・スノー・ヤングを見舞ったことや、パティ・セッションズ・スミスと葬式へ行ったことが書いてある。こうして、ジョセフの妻たちはこれから後、共に助け合っていくのである。 ●1846年1月3日、ヘンリーとジーナは、新しく完成した神殿で、共にエンダウメントを受けた。 ●1846年2月2日、ジーナは、神殿で、ジョセフ・スミスと永遠の結び固めの結婚を、ブリガム・ヤングとはこの世での結び固めの結婚をした。出席者は7人。 ジーナ(花嫁) ブリガム・ヤング(ジョセフの代理人として、又、この世でのジーナの夫として) ヒーバー・C・キンボール(式を執り行った) ヘンリー・ジェイコブス(ジーナの夫でお腹の子の父親) ウィリアム・ハンティントン(ジーナの父親) ジョン・D・リー) フランクリン・D・リチャーズ(書記として) (ヘンリーとウィリアムとジョンは証人として出席した) この時、ジーナ25歳、ヘンリーの2番目の子供を妊娠していた。 ユタへの旅の最中、ヘンリーは宣教師としてイギリスへ ●ヘンリーとジーナは息子ゼブルンを連れて旅に出た。雨がよく振って、道はぬかるみ、幌馬車ははまってしまい、ひどい旅だった。  アイオワ横断の途中で雨の降りしきる中、ジーナは息子を産み、ヘンリーが赤ちゃんを取り上げた。  2代目ヘンリーの誕生だった。ブリガムはそこにいなかった。 ●こんな大変な時にヘンリーは伝道に召された。ヘンリー自身もひどい病気だった!  どこへ?イギリスへ! ●ピスガ山での出来事を息子ゼブルンがこう書いている。  「ヨーロッパへの伝道へ行く時、父はあまりにもひどい病気で毛布にくるまれて幌馬車にかつぎこまれなければならないほどだった。でも、父は完全な信仰を持って一生懸命頑張った」 ●1846年6月25日、ヘンリーはノーブーからジーナへ最初の手紙を書いた。   「君のことをよく夢に見るよ。会いたくてたまらないよ、息子たちにも。シルクのハンカチを贈るよ。この手紙を受け取ったら、すぐに返事を送ってほしい」 ●1846年7月11日、ニューヨークでヘンリーはジーナの弟オリバーと会った、オリバーの親せきの家で。オリバーはこう書いている。 エルシー姉妹とヘンリーはここで深く愛し合い、ヘンリーが伝道から戻り次第、結婚し、一緒に西へ行く約束をした。でも実際ヘンリーが戻ったら、エルシー姉妹は婚約を解消した。 ヘンリーがジーナへ書いた愛情のこもった手紙を読んだ後でこの婚約話はショッキングに聞こえる。 ヘンリーとエルシーの婚約については、2つの可能性がある。  ①ヘンリーは本当に婚約した。ブリガムヤングがそうしろ、と勧めたのなら説明がつく。 ジーナはあの世ではジョセフ・スミスの妻になるので、今のところ、ヘンリーには永遠のパートナーがいないのだ。伝道中に多妻婚に踏み切り、ヘンリーにとって永遠のパートナーを見つけるようにとブリガムが指示したのかもしれない。 そうでなければジーナの弟のオリバーは、ヘンリーに対してすごく怒ったはずだ。 ②どうもこの婚約話は、疑問が残る。このヘンリーの婚約の話は、オリバーによる、歴史の「書き換え」ではないか? と思わずにはいられない。姉のジーナとブリガムの結婚を正当化する為にオリバーが書いたものかもしれない。 この物語は起こった当時に書かれたものというよりは、過去を顧みている項目の中に入っているからだ。 ジーナはヘンリーが伝道中に送ってきた全ての手紙を丁寧にとっておいた。 ●1846年8月19日   ニューヨークブルックリンにいるヘンリーの、ジーナへの手紙。    「親愛なる同僚へ     僕が荒れ野に置いてきた、大切な家族、ちゃんと食べているかい?     とても心配だ。 ジーナ、君のことを忘れてなんかいないよ。     君への愛は変わらない、もっと大きくなっているよ、これからも、もっとず    っと強くなると願っている、     永遠の世界までも、終わることなく。     ブリガム兄弟とその家族によろしく言っておくれ。     ・・・君を愛する真の夫、ヘンリー・B・ジェイコブスより」 ●1846年8月22日  ヘンリーとオリバーはイギリスへの船に乗った。10月1日にイギリスに到着。 ●オリバーは日記に書いている。  「ヘンリーはどケチだし、いつも伝道中に自分ばっかりしゃべって僕に話させてくれない。」 ●ジーナはその頃、父親を病気で亡くした。彼女はワンルームの丸太小屋に息子2人と住んでいたが、ホームレスを7人家に泊めてあげていた。 ブリガム・ヤングはヘンリー不在中にジーナを自分の妻とする ●その後、大変な思いをして旅をして、ウィンタークォーターにたどり着いた。ここで、何とジーナはブリガムの妻として公に生活し始めた。 ●ジョセフ・スミスは決して、夫のある妻たちと公には住まなかった。既婚者の妻たちはそのまま元の夫たちと住み続けたのだ。 ●ここで大きな問題が生じていた。ブリガムもジーナも、自分たちが一緒に住み始めたことをヘンリーに何も伝えていなかったのである。 ●ほっ建て小屋に住んだが、ジーナは多くの友達と交流出来て楽しいと書いている。ブリガムがみんなにとても優しくて、それは神が彼を教えているからこそなのだろう大きな多妻婚の家族でも幸せになれる、と、多妻婚が神の教えだと証している。 ●1847年1月14日、ヘンリーはジーナに手紙を書いた。   「子供たちにキスして、僕のことを話してあげて。手紙でゼブルンのことを教えて。」 ●2月14日、バレンタインの日にも手紙を書いている。  「生きていようが、死んでいようが、この世だけ又は永遠にわたっても、ジーナ、僕の君への思いは永遠に変わらない」  「君が将来他の人のものとなっても、僕は誰をも責めないよ。   ブリガム兄弟に対して怒ってなんかいないよ。ジョセフの日の栄の法律にのっとって、全てが正しいのだから。」  「でも僕は寂しい、自分のものだと言えるものが何もない。母親のいない子羊になった気持ちだ。」 「ジーナ、大変だろうけど、神を愛する者には必ず良いことが起こるよ、君と子供たちをどんなに愛しているか、とても言葉では言い表せないよ! ●1847年6月20日、ジーナは弟オリバーの妻でニューヨークに住んでいた   メリー・ニール・ハンティントンに手紙を書いた。そこには、ジーナはブリガムとすんでいて、もうヘンリーの妻ではないと書かれていた。 ヘンリー、伝道から帰還し、自分がジーナから離婚されたと知る ●1847年7月、ヘンリーとオリバーはイギリスを離れ、8月12日にニューヨークに到着、オリバーとその妻メリーの所にも滞在した。  ここでメリーがジーナからきた手紙をヘンリーとオリバーに読んだ。  (ジーナはヘンリーと離婚した、という内容の手紙を) ●ヘンリーもオリバーもびっくり!ヘンリーはうつ状態になり、どうすることも出来なかった。 ●この時、オリバーがジーナに書いた手紙をジーナはとっておいた。  「姉さんが7月20日にメリーに書いた手紙の内容を聞いたよ。大丈夫、ヘンリーは わかった、僕はかまわない、と言ってるよ。だけど、彼は独りぼっちだ。 僕はヘンリーから、彼が感じたこと、彼の苦しみを全て聞かされて、まるで僕も彼が姉さんのことで受けたと同じ試練を受けたかのように感じるよ。 もし姉さんが僕がどんなに苦しんだかわかったら、僕をかわいそうだと思うだろうに!」 こうなる前までは、ヘンリーはジーナとブリガムの結婚は儀式だけのものと解釈していたのだろう。ここでようやくヘンリーは、ジーナに離婚されたことに気づいたのだろう。 ●ヘンリーへの同情はあってしかるべきだろう。こんな方法で離婚をされるとは。 自分が遠くにいる間に、それもジーナの多夫婚2番目の夫が自分を伝道へ送った間に離婚されたのである。 ●ジーナの弟オリバーのきろくによると、WWフェルプスがここでヘンリーとオリバーに加わった。  ヘンリーはWWフェルプスと3人の女性との結婚の式を執り行った。 ヘンリーの結婚 ●ヘンリー自身もアセネスという女性と結婚した。 ●1847年11月30日、教会のリーダーたちは、上からの許可なしに3人の女性と結婚したとして、WWフェルプスを破門した。  ヘンリーは勝手にフェルプスと3人の女性を結婚の式を執り行った罪でディスフェローシップされ、神権を取り上げられた。 ●1848年の5月、ジーナはウィンタークォーターズからユタへの旅に出た。ブリガムはジーナの弟オリバーに、ジーナの面倒を見るようにと頼んだ。この様に、夫は不在、助けてくれるのは兄弟と親せき、というのが多妻婚の現実だった。オリバーは書いている、バッファローやプレーリードッグを見たとか、一緒に旅していた夫婦がおおげんかしてののしり合っていたとか。 ●ヘンリーもアセネスとユタへ。パーキンズ兄弟の100人の隊にいた。ヘンリーはその中の10人のグループの隊長で、ジョン・D・リーの50人からなる隊に属していたようだ。リーは日記にこう書いている。   「1848年6月5日、パーキンズ兄弟が『ヘンリーが、“誰も僕に暴君をふるうことは出来ないし、もしやったらはっきり言ってやる!ブリガム・ヤングでさえ、僕に暴君な態度はとれないぞ!”と言った』と文句を言っていた。」 ヘンリーは自分こそが50人のグループのリーダーになるべきだ、とパーキンスに言ったという。 ヘンリーがモルモン指導者たちに反抗的になったのはこの時だけである。 息子ゼブルンは旅の間、ジーナと一緒だったり、ヘンリーと一緒だったりした。 ●9月にソルトレークに着いた。 夫ブリガムが常に不在の寂しい生活 ●ジーナの兄のディミックがジーナとプレセンディア(ジーナの姉)の為に家を建て、ジーナは学校の先生をして働いた。 ●ブリガムとは一緒に住んでいない、招待された時だけ、彼の家に行くのだった。  家のことは全部兄や弟に頼っていた。 ●1849年の日記でジーナはブリガムが出来るだけ、彼女を支えようとしてくれていてとても優しい人だ、と言っているが、実際には、経済的に兄や親せきに頼り、自分でも一生懸命働かなければならなかった。 ●彼女は決してブリガムを批判してはいないが、日記を読むと経済的にかなり困難を極めていたことがわかる。 ●ある時、ブリガムとの会話のすぐ後で彼女は、寂しくて仕方がなくてすすり泣いたと書いている。 ●ジーナは本当にブリガムに忠実だったが、彼女は彼のお気に入りの妻ではなかった。実際、エメリンという妻はブリガムとの間に10人もの子供を産んでいる。 ●エライザ・スノー、パティ・セッション、ルイーザ・ビーマンと仲が良かった。 みんなジョセフ・スミスの妻であって、よく集まってブレッシング・ミーティングを行っていた。 ●よく、友達と集まってパーティーをした。そこでは、神聖なダンスや異言によるコーラスが行われた。 ●1850年ジーナは8か月の妊娠の時、日記に「昼も夜も、何時間にもわたる私の痛ましい寂しさを理解出来る人はいないでしょう」と書いている。  優しいブリガム、でも辛い時に一緒にいてくれないブリガム 代理妻としての低い地位に耐える ●ジーナは一度、ハリエットという女性と住んでいた。ハリエットもブリガムの妻でトラブルメーカーだった。ブリガムの娘のスサがこのように書いている。  「ある時、ハリエットがジーナおばさんに、『あんたなんか、どうせただの代理妻(proxy wife)のくせに!ブリガムはあんたのことなんか愛してないのよ。あんたを愛してくれる人なんて、一人もいないわ』と言った。ジーナおばさんはこう言ったの。 『あなたを愛してるわ、ハリエット姉妹』」 こうして、正規の妻でない女性たちは、家族内で低い地位にいたものとうかがえる。 ●1850年4月3日、ジーナはブリガムの娘を出産、ジーナ・プレセンディアと名付けた。 ヘンリーの新しい生活とジーナへの手紙 ★1848年10月15日、ヘンリーの妻、アセネスが出産、ジョージと命名。  でも、2か月後に死亡。 ★1年後、ヘンリーはカリフォルニアに住んでいた。この時、もう一度バプテスマを受けていた。この時代、ユタにいるモルモンたちはカリフォルニアにいるモルモンを背教した者たち と見ていた。 しかし、ブリガムがヘンリーを宣教師としてカリフォルニアへ送った可能性もある。アマサ・ライマンもヘンリーをジェイコブス兄弟と呼んでいる。 ★1851年1月26日、ブリガム・ヤングはもう一度、ヘンリーをディスフェロウシップした。理由はわからない。 ★1852年9月2日、カリフォルニアにいるヘンリーのジーナへの手紙。   「ジーナ、君たちにたくさんの手紙を書いたのに一度も返事をもらっていない。君と、僕の息子たちに会えたら何てステキだろう!」  又、この手紙の中で ジョセフは予言者だ、と言っている。  「僕は自分が教会から断ち切られたと聞いたけど、何も心あたりはないんだ。」 ★過去の記録から察するに、ヘンリーはジーナを取り戻そうと望んだ、だから破門されたようだ。 ★このことに関して、二通りの意見に分かれる。 ①ブリガム・ヤングは既にたくさんの妻がいたにも関わらず、彼の教会の地位と特権宗教のリーダーとしての増大な力と圧力を利用して、ヘンリーが心から愛していた妻を、そしておそらく彼女もヘンリーを愛していたであろう、その妻を、巧みな策略によって奪い去り、代わりに他の女性とヘンリーを結婚させた。  しかし、ジーナと数年一緒に住んで二人の子供まで出来たヘンリーは、彼らに対する気持ちを断ち切ることが出来なかった。そこで、ブリガムは彼をイギリスへと伝道に送り、家族と離れさせ、アイオワのど真ん中で生まれたての赤ん坊とジーナを夫のいない境遇におとしいれた。  ユタで、ブリガムはヘンリーを破門した。ヘンリーが若いころから教会に忠実で自分の妻をも予言者ジョセフに捧げたのに。これは、究極の信仰を試すテストというものだろうか?(でも、ジョセフはブリガムと違ってヘンリーとジーナを離婚させようとはしなかった。)  そして、ブリガムはヘンリーがジーナに書いた手紙を横取りしたのだ。  ②ジーナは恐らく、ヘンリーに愛想をつかしたのだろう。(彼のおしゃべりで頼りないところに対して)そしてブリガムを選んだのだろう。  ヘンリーは離婚されたのにしつこく元妻にまとわりついた。だからジーナはヘンリーの手紙に返事を書くのをやめたのだろう。  愛されていないのにそれを受け入れることが出来ず、新しい人生を始めることが出来なかった。  もう別の男性と結婚しているジーナに戻ってきてほしいと言ったので、ブリガムが ヘンリーを破門する必要がある、と感じたのだ。 ★1852年、アセネスはヘンリーと離婚。 ●1854年、ジーナは日記に 「今日はヘンリー・B・ジェイコブスのお誕生日。彼は38歳になった。」 と書いている。彼女は愛する家族や仲の良い友達の誕生日を日記に書いていた。  ブリガムと結婚した後も、何年にもわたって日記にヘンリーの誕生日を記していた。 ●ジーナの子孫たちは多くがヘンリーに対して同情的である。 ●1856年2月6日、ジーナは親せきの一人とパーティーへ行った。  そこで、夫のブリガムが他の妻たちと一緒にいるのを目撃する。 ●「スーザンがほとんど1日私と過ごした。彼女の夫が妹のイレクタと前日に結婚したから。彼女にとっては試練の時。」と書いている。 ●1856年9月31日、ライオン・ハウスに引っ越した。 ライオンハウスとは、ブリガムが自分の妻たちの為に、集団生活の実験として建てたもので、ジーナは3階の西側の部屋をあてがわれた。ここで娘のジーナと息子のヘンリーを育てた。ゼブルンは奉公に出ていた。 ●ブリガムの妻の一人、クラリッサが死んで、その子供4人を育てるようにとブリガムから頼まれ、引き受ける。 ヘンリーはユタの信者から白い目で見られ、耐えきれなくてカリフォルニアへ移る ★1859年、10月にはヘンリーユタへ戻った。  殺人犯のトーマス・ファーガソンが死刑になるとき、ヘンリーもそこにいた。 デゼレト・ニュースには、こう書いてある。 「トーマスが誰か祈ってくれる人はいないか、と頼んだ。   ヘンリー・ジェイコブス氏が絞首台へ登り、トーマスとひざまずいて短い祈りをささげた。」 おそらく、破門されて3回も離婚を経験したヘンリーは、この罪人に自分と通じるものを感じたのだろう。 ★ヘンリーは再度バプテスマを受けた。 ★1860年、3月1日、ヘンリーはサリー・テイラーと結婚。しかしこの前にもう一度結婚し、離婚していた。 ★ユタでモルモン信者は彼のうわさばかりしたので、ヘンリーはカリフォルニアへ行くことにした。 ★サリーの元夫は「ヘンリーが異邦人と一緒に行って悪人と接して彼らの罪を見ず彼に受けるならそうするがいい、でもサラ(サリー)は神の民と住み続ければ正しい者とみなされる。」と言った。離婚した後も彼はサリーが好きだったらしい。彼は又、元ヘンリーの伝道の同僚だった。 ★ヘンリーはカリフォルニアへ行った。 目まぐるしく活躍するジーナ ●ジーナは、ブリガムの要求に応じて助産婦の勉強をし、産科の学校を教えた。又、看護婦の学校も創立した。デゼレト病院が建った後、1880年に病院長となった。 ●1869年、ジーナはブリガムのペット・プロジェクトのカイコを育てた。カイコの幼虫が大嫌いだったが、この仕事を引き受けた。「ジーナおばさんは何か月もの間、カイコの幼虫の悪夢にうなされた」と、スサ・ゲイツは書いている。 ●ノーブーで始まった扶助協会は、エマ・スミスが一夫多妻に反対した為、一度は閉鎖された。が、1866年、扶助協会は再度結成された。エライザ・R・スノーが最初の会長で、ジーナは副会長として仕えた。 ●ジーナの娘のジーナは結婚してカナダへ行った。母ジーナはいつも、いつも、寂しいと、娘への手紙に書いていた。夫はほとんど一緒にいなかったから。 ●1877年8月29日 ブリガム死亡。 ●その後、いつも助けてくれた兄のディミックも死亡。しかし、死ぬ前に、彼は霊の世界を訪れたという。彼はそこで、知り合いに会った。母のジーナ・ベイカーとも会った。みんな忙しくて幸せそうだった。信仰を持ち続けて神権のある者たちは、悪霊を負かす力があったという。 ヘンリーの晩年と死 ★ヘンリーはカリフォルニアで畜産農家をして成功していた。 ★1877年、ゼブルンはカリフォルニアでヘンリーと会った。  ゼブルンはこう書いている。  「僕に会って、父は僕の首に手をまわして大泣きして、生身の僕に会えたことを   神様に感謝していた。」 ★1880年5月までに、息子ゼブルンとヘンリーが父ヘンリーをユタへ連れて帰ってきた。ヘンリーはジーナの部屋に住んでいた。しかし、ジーナは違うところに住んでいたらしい。 ★1886年8月1日 病死。69歳だった。神殿着を着て埋葬された。 多妻婚をかばうことで、国際的な女性解放運動の会でスピーチすることを拒否される ●1869年 ニューヨーク ワールド という雑誌のインタビューでジーナはこう言っている。 ーー良く出来た多妻婚の妻というものは、自分の夫に対して無関心でなければなりま  せん。   深い尊敬の念以外、どんな気持ちも抱いてはいけないのです。愛とは、間違った  感情です。多妻婚において、愛という感情は存在してはならないものですーー ●1878年11月16日、反多妻婚の改革運動に対して、ジーナはジョセフと自分の結婚についてみんなの前で証した。それが扶助教会リーダーの義務だったから。 ●フェミニスト運動の集まりに呼ばれたりもした。これはモルモン主催ではない。 ●バッファローで開催された 婦人の会議(WOMENS CONGRESS)で ユタの女性の代表としてスピーチを頼まれたが、多妻婚の妻であるとわかり、スピーチをさせてもらえなかった。 ●ニューヨークのNWSA会議〈全国婦人参政権協会National Woman Suffrage Association〉でも話すことを拒否された。 扶助協会の会長として ●1888年、66歳で3代目扶助協会の会長となる。(ウィルフォード・ウッドラフに召された) ●多くの神殿をまわり、儀式を執り行った。エライザが生きていた頃からこれは行われていた。 ●この様に華々しく活躍するジーナだったが、娘のジーナに書く手紙には、寂しいといつも漏らしていた。エメリン・ウェルズはこう書いている。  「ジーナおばさんはいつもと同じで孤独だった」 ●1896年、大管長ウッドラフ、ジョセフ・F・スミス、フランクリン・D・リチャードが来て、  扶助協会を民間企業(private corporation)として組織しようと言い出した。  これにジーナは反対したが、彼女の意見は無視され、結局、男性陣の望んだようになった。エメリンはこう書いている。 「ジーナおばさんはこれについて非常に心配した。扶助協会の霊的さが取り去られ、この世的なものになってしまうのではないか、と恐れたから。」 ●1896年5月23日、ジーナは娘のジーナにこう手紙を書いている。  「全てが寂しく、静かなの、私の黒いショールの様に。」 ●1896年8月、息子ベブルンへの手紙にはこうある。 「ジーナと子供たちに会いたくて、死にそうよ!いなくなるとどんどん寂しさが増してくるの。でも、我慢しなくちゃね。」 ●1901年8月28日、ジーナ死亡。皮肉なことに、ヘンリー・ジェイコブスの家族の一画に埋葬された。ヘンリーの墓からさほど遠くない所に。 ●死んだジーナが娘のジーナに2回現れて、ヘンリーの家族の為に系図を調べるようにと言った。 ●ヘンリーとは別れたのに、なぜかいつもヘンリーとつながっていたジーナ。 ●もう一度、彼女が多妻婚の妻の在り方について述べた言葉を読んでみましょう。 Consider this direct quote from Zina Huntington as she described romance in polygamy in an article published in New York World in 1869: "[The successful polygamous wife] must regard her husband with indifference, and with no other feeling but reverence, for love we regard as false sentiment; a feeling which should have no existence in polygamy." ●1869年 ニューヨーク ワールド という雑誌のインタビューでジーナはこう言っている。 ーー良く出来た多妻婚の妻というものは、自分の夫に対して無関心でなければなりま  せん。   深い尊敬の念以外、どんな気持ちも抱いてはいけないのです。愛とは、間違った  感情です。多妻婚において、愛という感情は存在してはならないものですーー 私の感想 ●まず、ブリガムがヘンリーからジーナを奪い取った、という話は、何年も前にユーチューブで聞いたことはありました。でも、当時は、これは過激過ぎる、ここまでブリガムはひどい人ではないだろう、と信じていた私は、おおげさな作り話だと思って信用しませんでした。 ところが、1年前にこの話を裏付けるサイトを見つけました。 このサイトの持ち主は、ジーナの子孫で、何と、ヘンリーがジーナに書いた手紙を実際に持っている、というのです。これらの手紙を読むと、ヘンリーがどんなにジーナを愛していたかわかる、と、このサイトの持ち主は述べています。そして、私は自分の宗教が恐ろしい、ともコメントしています。 そして、今回、この本を読み、完全に本当の話だったとわかり、ショックです。 ブリガムが、かなり功名な手口でジーナを自分のものにしたのでしょう。 本来、良き指導者は夫婦の仲をとりもつべきですよね? ブリガムはジーナに、自分と結婚すれば彼女の息子たちはもっと高い栄光に入ると言ったのではないでしょうか? 子供の為には、親は、特に母親は、どんなことでもします。自分の幸せを捨ててもです。私が彼女だったら、同じことをしたと思います。 だから、本当は彼女はヘンリーを愛していたのに、無理して別れたのではないか、と思います。だから、毎年ヘンリーのお誕生日を日記に書いていたのだと思います。彼の年齢まで覚えていますし。 もし、ヘンリーと一緒にいたら、きっと、妻として愛され、子供を産み、ブリガムといるよりは幸せだったでしょう。本当にかわいそうな人です。 ヘンリーとジーナは、ジョセフとブリガムの身勝手さにほんろうされた、悲劇のカップルだとしか言いようがありません。 ●以下はジーナの子孫であるという人物がネットに載せているもので、その一部を日本語に訳したものです。 A MORMON FAILURE SUNDAY, OCTOBER 18, 2009 Lessons from Zina Huntington (ジーナ・ハンティントンから学ぶ 2009年10月18日) ジーナ・ハンティントンは私の ひおばあさんであるリディア・パートリッジの義理の娘です。 リディアはエドワード・パートリッジの妻です。リディアとエドワードの娘、エミリーは私のおばあさんです。ジーナとエミリーはどちらもジョセフ・スミスの妻となりました。そして、彼らの結婚にはいくつかの共通点があります。 共通点1 ジーナはジョセフが多妻婚の啓示を受ける前に、彼の家に住んでいた。 共通点2 予言者ジョセフからのプロポ―ズを断った後、無理やり結婚させられた 共通点3 ジョセフの死後、ブリガム・ヤングの妻になった 共通点4 悲惨な状況の中、ユタへ旅した 共通点5 何十年も、正式な妻としてではなく、代理妻として、2級の妻として扱わ     れ、それに耐えた 共通点6 ジーナの姉のプレセンディアも、同時にジョセフの妻であった 共通点7 代理妻だったにも関わらず、ブリガム・ヤングの子を産んだ 相違点といえば、エミリーはジョセフから「君は私の為に造られた女性だ」と言われたのに対し、ジーナは、「結婚してくれないと私は天使に殺される」と言われたことでしょう。 又、エミリーは独身でしたが、ジーナは既婚者で子供までいました。 これは、教義と聖約132章61節にある多妻婚のおきてに反しています。 おきてによると、多妻婚の妻はバージンでなければならないはずです。他の男と結婚していてもいけません。 興味深いことに、ジョセフはジーナをヘンリーと住み続けさせました。しかし、ヘンリーの子供たちは天国ではジョセフのものになります。彼がどんなに育て、世話をしても、いずれは自分の子供たちをジョセフに捧げなければならないのです。 それだけではなく、ジョセフの死後、ブリガムがやってきて、ジーナを代理妻としました。これをヘンリーを伝道に召した時に行いました。そしてヘンリーがいない間にブリガムはジーナにプロポーズし、結婚しました。 後に、ブリガム・ヤングはヘンリーをディスフェローシップしました。ヘンリーがジーナをとられた後に他の妻をめとったからです。もちろん、ブリガムこそがジーナを奪った張本人です。 歴史的記録によると、ブリガムがジーナを取り去ってしまったという理由があったから、ヘンリーは破門されずに済んだというのです。ヘンリーは後に破門されます。 なぜ私がこれについて述べるのか?自分のモルモン人生の過去で起きたあまりにも多くの事実への反響に共感しているだけなんだ。 ヘンリーは教会とリーダーたちにに全てを取り上げられた。2人の男がジーナと結婚するのに立ち合い(彼のジーナへの愛情と彼女を自分のものだと主張することは無意味であった)、悪意に満ちた理由とみられるひどい扱いを受けても、それに耐えた。 一生涯、愛するジーナを失った悲しみをたくさんの手紙に託した。今でもそれらの手紙は残っているんだ。私はそれを読んだ。心が張り裂けそうになる。同じ夫、父親としてこれらの手紙を読んで具合が悪くなった。恋しがる気持ち、悲しみ、当惑、空っぽな心が、これでもか、と手紙に詰まっている。同情してやまない。 ヘンリーの教会への忠誠心は実に、驚くべきものだった。リーダーたちの良いところを見ようと努力していた。彼らにひどい状況に立たされたにも関わらず、である。 常にジーナと子供たちを気に欠けていた。 しかし、全てが彼から取り上げられるのだ。彼の心からの努力と正しいことをしたいという気持ちは、教会の要求を止めることは出来なかった。 この教会、彼が全力を傾けて働いたその教会が彼から無残にもすべてを取り上げた。 更にひといことに、ジョセフ・スミスは多夫婚を禁止する法律を教義と聖約の132章の中に書いているのだ。こんなにわけのわからない混乱と災難を耐えろ、と言われて耐えられるものか?! 皮肉なことに、このめちゃくちゃな状況の下で、ヘンリーとジーナはただ、正しいことをしようと務めただけなのだ。二人とも、正義と悪を見抜こうとした。だが、それでどうなった?悲惨だ。ここで巻き込まれた人たちが、ただただ、正しいことを行いたいという純粋に思っただけなんだ。それにも関わらず、大きな不幸と不必要な苦痛心の張り裂けるまでの悲しみがもたらされた。このことに私はがくぜんとした。 それが私を謙遜にする。 誰かが何かを正しいと信じてそれに自分自信を捧げたからと言って、それが幸せをもたらすとは限らないのだ。 以下のジーナの言葉を読んで考えていただきたい。彼女は多妻婚における夫婦の愛について、次のように語っている。 ーー良く出来た多妻婚の妻というものは、自分の夫に対して無関心でなければなりま  せん。   深い尊敬の念以外、どんな気持ちも抱いてはいけないのです。愛とは、間違った  感情です。多妻婚において、愛という感情は存在してはならないものですーー (1869年 「ニューヨーク ワールド」の記事に載ったジーナの言葉) 一体どういう環境が、彼女にこんなことを恥ずかしげもなく言わせる原因となったのか?このような言葉を発するように教会はどんな手を使って彼女を説得させたのか? このような言葉を発するようになるまでに、彼女がどれだけのことを耐え抜き、精神的なトラウマにあってきたか、想像を絶する。 私はこのような考え方を抱く女性を哀れに思う。 これは間違っている。多妻婚、19世紀に行われた多妻婚は家族の在り方を侮辱するものだ。どんな女性もこんなにひどい人生をおくる必要はない。 私の宗教がどれだけ人を駆り立て、彼らがもっと幸せな人生をおくれるはずなのに、そうではい、と、信じ込ませてきた事実に恐ろしさを感じる。 私は自分の宗教が怖い。 ●豆知識  Kirtland Safety Society Bank Company,日本語ではカートランド安全協会銀行。 1837年1月2日に設立された。頭取はシドニー・リグドン、現金出納係はジョセフ・スミスで始めた。 以下は、「Mormonism - Shadow or Reality? page 531:モルモニズムー影か現実実か?531ページ」からの抜粋である。 ウォレン・パリッシュはジョセフの銀行の役員だった。彼は後に、モルモン教会から背教する。彼がこの様に言っている。 「私は、、、ジョセフがこう宣言するのを聞いた、神の声が、銀行ーアンチバンキング金融機関を建てるように指示したと。この金融機関は、アロンの杖の様に、他の全ての銀行を飲み込み、成長し、栄え、世界の果てまで広がるだろう、そして他の全ての銀行が倒産しても、生き残るだろう、と。」 (Painesville Republican, February 22, 1838, as quoted in Conflict at Kirtland, page 297) ●ウィルフォード・ウッドラフは1837年1月6日、日記にこう書いている。  「私も又、大管長ジョセフ・スミス・Jrが、供託所で、F・ウィリアムズとD ホイットマーとS・スミスとウォーレン・パリッシュとその他の人たちの前で、 あの日の朝Kirtland Safety Society(カートランド セーフティ・ソサエティ)について、主の言葉を聞いたと言ったのを聞いた。ジョセフは一人で部屋にいた時、例の声だけでなく、実際に声を聴いたのだ。」 (ウィルフォード・ウッドラフの日記1837年1月6日 カートランドでの闘争 で引用された 296ページ) ●Mormon Enigma(モルモンの謎)pp62 にはこう書いてある。 神殿の建設によって、一時はカートランドの経済は活性した。しかし、奉献式の後、貧しい改宗者がどっとなだれ込み、経済は低下した。古くからの居住者らは、新しい居住者が入って来ないように経済的圧力をかけたが、モルモンの人口は20倍にも跳ね上がった。これに対して、土地所有は4倍にしかならなかった。 1836年11月、ジョセフと他のリーダーたちは、銀行を建てる為の条項を作成した。投資の為の資金を供給するのが目的である。これは死に者狂いのかけだった。 オリバー・カウドリは紙幣を印刷する為の板を調達する為にフィラデルフィアへ行った。 オルソン・ハイドはコロンブスの議会へ赴き、銀行のライセンスを得る為に請願書を持って行った。これは却下された。  オリバーはカートランド・セーブティ・ソサエティ・バンクの為に板を買って来たが、ハイドは許可なしで戻った。  買って来た板に多額の金を費やしたので、とにかく何かを印刷しよう、ということになり、 「バンク(bank)」の前に 「アンチ(anti)」、最後に「ing(イング)」 と書いた。銀行券には、 「Kirtland Safety Society Anti-Banking Company,」と書かれた。  1837年6月8日と7月7日にジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは銀行の役員を辞任し、フレデリック・G・ウィリアムとウォーレン・パリッシュが代わりに役員に選ばれた。 銀行券は、法で認められた紙幣として合資会社から配られた。 初めはお金がどんどん流通した。モルモンよりも金融に詳しい商人とビジネスマンたちが紙幣を換金し始めると、ジョセフはこれでは銀行が破滅すると気づいた。 ジョセフとシドニー・リグドンが銀行の取り締まり役を辞任してから1か月後、銀行は倒産した。これにより、ジョセフの地位は危ぶまれることとなった。 ジョセフが初めから詐欺を働くつもりだった、と確信した人たちは、彼に暴言を吐き暴力をもっても脅した。こうして、ジョセフはしばしばカートランドから逃げることになったのである。  1837年4月、ジョセフはエマに会うことなく、隠れ家へと逃げた。 ●フォーン・ブローディ(Fawn Brodie)が彼女の本((No Man Knows My History, page 198)) にて、Kirtland Safety Society Anti-Banking Companyの崩壊の模様を詳しく書いている。 「もしこの銀行が、その成功を信じる人たちの中でほんの少しでも残っていた名声を打ち砕かれるとどめの一発を食らったとしたら、それはウォーレン・パリッシュが現金出納係を辞任し、教会を去り、予言者ジョセフが行った銀行の運営方法を公に説明し始めた、その時だった。」 パリッシュは後に、25000ドルを持って逃亡した罪で訴えられた。 しかし、もしウォーレンが本当にこの額の金を盗んだとしても、その金は  「価値の無い銀行券」だったに違いない。 なぜかというと、それだけの額の紙幣が金庫にあったならば、少なくともジョセフが現金出納係だった時に銀行を救えていたはずだからである。 No Man Knows My History, pp. 199-202)によると、以下の通りである。 債権者たちは脅しと支払命令書を持ってジョセフの下へ雪崩れ込んだ。彼はひどい夫妻を抱えた。彼と彼の長老たちが一体、いくら借りていたのか知るすべはない。 忠実なモルモン信者たちは記録を残していなかったからである。 しかし、非モルモン債権者たちは一連の訴えを起こし、それはGeauga county court(Geauga群の法廷)に正式に記録されている。 「1837年6月と1839年4月までに13の訴訟が予言者ジョセフにつきつけられた。総額25000ドルの額を彼に支払わせる為である。損害賠償は35000ドル程にもなった。 ジョセフは4か月の間に7回逮捕され、彼を支持する信者たちは勇敢にも、彼を釈放させる為に38428ドルを集めた。 13の訴訟のうち、25000ドルのうち、12000ドル分、6件しか法廷では解決できなかった。」