初代 神武天皇 11.陰謀
突然ですが、四大節(しだいせつ)はご存じだと思います。
ただ、最近は存じえないかたも多いので、簡単にご説明させていただきます。
四大節とは、
・四方拝(四方節)
・紀元節
・天長節
・明治節
のことをいいます。
現在の言い方に改めると、それぞれ
・元旦
・建国記念の日
・天皇誕生日
・文化の日
に、それぞれ置き換えられます。
戦前の方々はご存知でしょうが、皇紀2600年というお祝いがありました。
まさしく、これは、神武天皇が即位されて、2600年というお祝いでした。
1940年(昭和15年)のことです。
つまり、この神武天皇が大和を治めることが決まって初代天皇として即位された日が「紀元節」であり、現在の「建国記念の日」になっています。
ところで、世界に建国を祝う国は多数ありますが、その殆どが「独立記念日」です。
「支配からの卒業」の日なんです。
また、建国神話に基づいて「建国記念日」としているのは日本と韓国の「開天節」(紀元前2333年ー朝鮮民族の建国神話で檀君が古朝鮮王国《檀君朝鮮》を建国したとされる日)だけです。(※但し大韓民国には「光復節」と言って、1945年大日本帝国政府によるポツダム宣言受諾により日本の統治から朝鮮が解放(光復)された独立記念日もあります)
しかし、大韓民国が紀元前2333年、日本が紀元前660年。
かなり興味のある部分ですね....
さて、その神武天皇もいよいよ最終話にはいりました。
(現代語訳)
その後、そのイスケヨリヒメが宮中に参内したとき、天皇がお歌いになるには、
葦原の しけしき小屋に 菅畳 いやさや敷きて 我が二人寝し
(葦原の中の荒れた汚い小屋に、菅のむしろを清らかにすがすがしく敷き詰めて、私た ちは二人で寝たことだ。)
そしてお生まれになった御子の名は、日子八井命(ヒコヤヰ)、次に神八井耳命(カムヤヰミミ)、次に神沼河耳命(カムヌナカワミミ)の三柱である。
※この辺りも歌が続いております。
ところで神武天皇には、既に日向にいらした時代から、お妃さまと御子さまがいらっしゃいました。
お妃は吾平津姫(あひらつひめ)さま、そのおこさまに、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)さま、岐須美美命(きすみみのみこと)さまです。
ですので、記紀研究者の中には、この婚姻をもって、神武天皇の即位と考える説もあります。
古事記は、この後、急展開していきます。
(現代語訳)
さて、神武天皇が亡くなられて後、天皇の異母兄のタギシミミノ命が、皇后のイスケヨリヒメを妻とされたとき、その三人の弟たちを殺そうと計画したので、その母君のイスケヨリヒメが憂い、また苦しんで、歌によって御子たちにこのことをお知らせになった。歌われた歌は、
狭井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
(狭井河の方から雲が立ち広がってきて、畝傍山では木の葉がなりさわいでいる。大風が
吹き出そうとしている。)
またお歌いになった歌は、
畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かぬとそ 木の葉さやげる
(畝傍山では、昼間は雲が揺れ動き、夕方になると大風の吹く前ぶれとして、木の葉がざ わめいている。)
この歌を聞いた御子は、陰謀を知って驚き、ただちにタギシミミを殺そうとされた。カムヌナカハミミノ命はその兄のカムヤヰミミノ命に、「兄上よ、あなたは武器を持って入って、タギシミミをお殺しなさい」と申した。
それで、カムヤヰミミノ命は武器を持って入って、殺そうとしたが、手足がふるえて、殺すことができなかった。そこでその弟のカムヌナカハミミノ命は、その兄の持っている武器をもらい受けて、入っていってタギシミミを殺してしまった。それでその御名を称えて、建沼河耳命(タケヌナカハミミ)というのである。
こうしてカムヤヰミミノ命は、弟のタケヌナカハミミノ命に皇位を譲って、「私は敵を殺すことができなかった。あなたは完全に敵を殺すことがおできになった。それで、私は兄ではあるが、天皇になるべきではない。だから、あなたが天皇となって天下をお治めなさい。私はあなたを助けて、祭祀者となってお仕え申しましょう」と申した。
さてそのヒコヤヰノ命は、茨田連、手島連の祖先である。カムヤヰミミノ命は、意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、ツケ直、伊余国造、科野国造、道奥の石白国造、常道の仲国造、長狭国造、伊勢の舟木直、尾張の丹波臣、島田臣等の祖先である。カムヌナカハミミノ命は、天下をお治めになった。
およそこのカムヤマトイハレビコノ天皇のお年は百三十七歳。御陵は畝傍山の北の方の、白檮尾のあたりにある。
※神武天皇が初代天皇としてどういう功績を残されたかということは、古事記には一切記載がありません。
古事記は確かにフィクションなのですが、一方で日本書紀という正式な歴史文書にかなり忠実だと思います。
また、この時代にはそれ以外にも色々な文書がありましたが、それらは偽書扱いにされたり、また風土記は地方史の域を出ないという評価です。私見ですが、不都合に破棄された文書もあったと思います。
ですが、それが歴史というものなのだということです。
残念ながら古事記が一連の神話として語られず、現代でもまだ断片的に語られる原因はそこにあると思います。
しかし、一方でこうも言えます。
それは、神武以降の「中つ巻」に表現されていることをきちんと解読していくことによって、それが神代編との整合性を紐解くヒントに繋がるということです。
それが面白いのですし、そして、そのためには古事記というフィクションを軸として正史である日本書紀、そしてその他の古文書をどこまで取り込めるかが、新しい神話づくりだと思っています。
この「神武天皇(神武東征)」は、まさにその入口なんだと思っています。