今帰仁城
1. 城のデータ
[所在地] 沖縄県国頭郡今帰仁村
[築城年] 13世紀後半
[築城者] 北山王
[遺 構] 石垣、城門など
[別 称] 北山城
[形 状] 山城
[登城年] 2017年3月21日
(※トップ写真:今帰仁城・大隅(うーしみ)の石垣)
2. 城の歴史
今帰仁城は琉球王国統一前に、覇権を争った3国のうちで北部地域を支配していた北山王(山北王)の居城であった。築城年代については、よくわかっていないが、13世紀末とされている。
1416年に中山王・尚巴志による侵攻を受け、北山は滅亡する。今帰仁城は中山の重臣が看守として居城したが、1609年に薩摩藩による侵攻を受け、実質的に廃城となった。その後、主を失った城はほとんど修築を受けず、地域の信仰を集める御嶽(聖地)としてのみ機能した。
3. 城の見どころ
今帰仁城は、沖縄本島北部・本部半島の北側、標高約100mの丘陵上にある。山頂部に主郭を配置し、約1km北側に海岸線を見渡す立地である。城の東側は志慶真(しげま)川が流れ、急峻な崖を形成しており、天然の要害となっている。
城は山頂部の主郭を中心に、10の郭(石垣で囲まれた空間)で構成されている。今帰仁村歴史文化センター等の施設がある駐車場から城跡に向かうことになる。まずは、城の最北部にあたる外郭と呼ばれる空間が広がる。高さ2m前後の低い石垣が蛇行しながら続く。凹状に繰り返し広がる城壁は、沖縄の城郭(グスク)の特徴だ。発掘調査により、大きな炉跡を持つ掘立柱建物跡などが見つかっている。
外郭の南側に大隅(うーしみ)の高石垣が控える。城内で最も高く、歪曲する城壁は「百(もも)曲がり」と表現され、今帰仁城内で一番の撮影スポットである。また、石垣に利用されている石材は城地が立地する石灰岩が使われている。
今帰仁城の正門が平郎門である。左右に狭間(銃眼)があり、天井は大きな一枚岩を載せた堅牢なつくりである。
(下写真:平郎門)
平郎門をくぐると、七五三の階段と呼ばれる整備された参道が続く。これは戦前に地元民により整備された道で、平郎門の右手には狭く曲がりくねった石敷きの小路がある。これが旧道であり、かつての城の通路であった。
七五三の階段を登ると、儀式が行われたと言われる大庭(うーみゃ)、山頂部の主郭と続く。主郭には礎石が残っており、建物があったと考えられる。南西部にはアザナと呼ばれる物見台もある。
(下写真:アザナ石垣)
主郭・大庭の北側は御内原(うーちばる)と呼ばれる女官たちの屋敷があった。ここから大隅の石垣、東シナ海が一望でき、とても眺めが良い場所だ。
(下写真:御内原から大隅を見る)
主郭の背後(南側)には志慶真門郭(しじまじょうかく)と呼ばれる石垣に囲まれたかなり広い空間がある。今帰仁城の背後にあたり、戦略上重要な場所であった。発掘調査で掘立柱建物や炉跡が明らかにされ、家臣たちの住居跡と推定されている。
(下写真:志慶真門郭)
4. 城のポイント
①大曲がりと謳われた城壁に囲まれた城 ⇒北山王の居城
②大隅の歪曲した城壁 ⇒「百曲がり」と呼ばれる
③狭間(銃眼)を備えた平郎門、各郭の城壁(石垣)