新年のごあいさつ/神田沙也加さんの死/道/
新年のごあいさつ/神田沙也加さんの死/道/
2022年01月14日
テーマ:「道徳の復活」
左上からあきる野市、羽村市役所(選管)、牛浜駅(福生市)、日の出町役場
新年あけましておめでとうございます。
こちらのサイトはまだマイナーですが、アメブロのブログ読者は、日本のネット・SNSでは数少ない良心的なコミュニティであり、昨年も非常に多くの「いいね」と、心あるコメントをいただき、深く感謝しています。
今年は寅年ですが、1月5日に栃木の那須サファリパークで、飼育員の鍵のかけ忘れによって、虎が飼育員通路にまで出てしまって、痛ましい事故が発生し、さらには新型コロナが再拡大するなど、厄災(やくさい)の年になっていきそうです。
また、どうしても、昨年末にアメブロの方で書いたミュージカルスター、神田沙也加さんのご不幸について、事件直後ということで情報もなく、書き足りませんでしたので、一番最初に補足と訂正をしていきたいと思います。
それでは本年もどうぞよろしくお願いします。
【1月20日 追記
オミクロン株による感染者数の激増で、まさに災厄(さいやく)の年初となっていますが、重症者・死者数とも極めて少なく(「それゆえに感染が拡大している」というのももちろんありますが)、今年もまだまだ始まったばかり。
私自身がより日本のために貢献できるよう、力を尽くして参りたい所存です。】
■前回の神田沙也加さんの記事に関する補足と訂正
(2020年12月31日 日本テレビ 絶対に笑ってはいけない大貧民GoToラスベガス24時!)
前回のブログは悲報からすぐの投稿だったため、神田沙也加さんが亡くなられる直前の具体的な情報が全くなかったが、「週刊文春」の報道などから、自殺に直結する様々な事実が浮かび上がった。
私は当初、「ミュージカル公演の心理的負担と重責による自殺」と考えていたが、後になっていろんな情報が出て来て、ミュージカルだけによるものではない可能性が高いため、追記して訂正していきたい。
まず、神田沙也加さんは離婚後、同じ「マイフェアレディ」に共演する前山剛久氏と結婚を前提に交際しているという事実があって、沙也加さんが亡くなる前に、前山剛久氏と口論していた。
そして非常に不可思議だが、「週刊文春」がこの二人の口論を録音した音声を入手しており、ネットでその音声を公開しているという「週刊文春」の電子版のページに行くと、「定期購読は 2,200円/月」という案内の表示が出てしまい、音声を聞くことはおろか、沙也加さんの死に関する文章すら読めなくなってしまう。
つまり、「週刊文春」は、どんなに控えめな言い方をしても、「神田沙也加さんの死で小銭を稼ごうとしている」。
「人の不幸は蜜の味」をここまで露骨にやる出版社がかつてあっただろうか?
しかも日本人の誰一人として、それを疑問に思わない。
「週刊文春」を始めとする非道徳メディアが、すべて裏でつながっていて、神田沙也加さんの自殺で文春を売ったり、他の情報番組の視聴率を上げるために、自殺に至るまでの、二人の口論の音声を盗聴するなどして、計画的に自殺に持って行くようにしておいて、「週刊文春」が長く週刊誌を売るために、神田沙也加さんが死に至る経緯を小出しにしている印象がある。
―でなければ、このような人の死を悪(あ)しざまにして足蹴(あしげ)にするような、人の道にもとるあくどい商法はおよそあり得ない。
「週刊文春」は令和の豊田商事である。
張本人の前山剛久氏は事務所に守られて休養しており(謹慎ではなく!)、神田沙也加さんの死は、元カノとの三角関係など様々な問題を解消せず、「死ね」と言い放った前山剛久氏と、前山氏並びに、自分自身が出演している「マイフェアレディ」との決別のメッセージだったに違いない。
さらには実母である松田聖子さんが突如、自分の親族が経営する芸能事務所を単身飛び出していて、沙也加さんとは何年も絶縁状態であり、その沙也加さんも、村田充氏と離婚して、前山氏との関係もうまくいかず、宙ぶらりんの状態であった。
さすがに沙也加さんが松田聖子さんと絶縁状態だったことは私も知らなかったが、国民的アイドルの家庭が、拝金主義だけの芸能界の中で、大の大人から何ら道徳的な忠告もなく、いとも簡単に、このような事態に立ち至ってしまうほど日本の道徳退廃は深刻なのである。
つまり、沙也加さんには頼みとする人が一人もいなかった(父、神田正輝さんは何もできなかったのだろうか?)のであるが、人間は当たり前だが、自由な存在であり、24時間監視することができないため、自由である以上、他人が自殺を止める術はないが、この国には、超有名人である神田正輝・松田聖子夫婦の長女にすら、このような悩みや不安を克服して、人としての最低限の生き方を教える道徳倫理が欠如していたことが、若い女性の自殺が増えている日本の病巣として挙げられるのである。
まして「ミュージカル」という、作り物の世界、つまりアルトーの言う「書かれた台本=アドリブ、ライブではないので死んだもの」でしかない、仮想の世界のおとぎ話に精神を乗っ取られたような、絵空事のドラマの、「1億分の1」の作者個人のヒューマニズムでしかない、社会性のない世界観に没入させられ、感化させられていて、まして宝塚のように女性だけではなく、前山剛久氏のような道徳のない色男まで紛(まぎ)れ込んでしまっているのだから、二重にタチが悪い。
沙也加さんに必要な普遍的な道徳としては、前山剛久氏という「個」や「マイフェアレディ」という「一興行」などといった取るに足らない他者への「依存」を解消することが挙げられる。
沙也加さん本人や沙也加さんの人生にとって、道徳がなくて、女グセの悪い前山剛久氏や、「マイフェアレディ」という作り物の舞台は、全く大したものではなく、かつ、それらの外には、沙也加さんが生きていくべき真の、別の世界がいくらでも存在するのである。
―というか世界は、前山剛久氏や「マイフェアレディ」がなくても全く何も変わらないのである。
これ以上、日本が若い女性の自殺をなくそうと本気で考えているなら、美輪明宏さんが言われるように、そのように感情的に依存もしくは没入してしまっている個や物事と距離を置いて、理性的に物を考える思慮分別を社会は教えるべきなのである。
ところが、沙也加さんは、言ってみればミュージカルという非常に狭い世界、オウムみたいなカルト宗教に取り込まれているような状態であり、さらにはそれが「すべて」とすら考えるような状態だったので、冷静な判断ができなかった。
これがいじめで自殺した女児であれば、学校であったり、同級生、今で言えばネットの世界が「すべて」ということになってしまうが、すべてから飛び出してみることが、人が主体的に生きるためには重要なことであり、逆に言えば、何もない所にこそ、自分が歩むべき他の人には見えない「道」があるのである。
神田沙也加さんは、可愛かずみさん、飯島愛さん、上原美優さんに近く、好きな人に殉じるかたちでの死を遂げられた。
坂口杏里さんは沙也加さんと同じく恋多き女性であり、二世タレントとしては近い立場である。
多くの女性にとって、人を好きになることや恋愛はすべてなのかもしれない。
また、子どもが生まれておれば、自殺されなかったかもしれない。
だが、どんなかたちであれ、生き続けることがすべてである。
生き続けることで、個別的で、ヘーゲルの言う「排他的な愛」ではなく、美輪明宏の言う、花のような「無償の愛」、博愛を身に付けられればと切に願う―。
■アントニオ猪木の「道」
私と同じ哲学者、清沢哲夫の詩。
「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる
迷わず行けよ 行けばわかるさ (1、2、3、ダーッ!)」
(清沢哲夫『無常断章』/『猪木寛至 自伝』)
アントニオ猪木によるプロレスの試合後のマイクパフォーマンスでも有名な詩だが、船木誠勝が前田日明に誘われて、猪木が運営する新日本プロレスを脱退してUWFに移籍する時に、猪木が船木に贈った詩としても有名である。
清沢哲夫は老子やヘーゲルを知らず、たまたま読んだゲーテの「ファウスト」から着想を得たらしいが、より幅広い哲学に精通する哲学者の私から見ても、この詩は至極、老子「道徳経」の道やスピノザの神、ヘーゲルの必然に通じるものがある。
すなわち人には一人一人目に見えない「道」がある。
それは一見して偶然、偶有性に見えるが、それは果たして全くそうではない。
ことに若くて、全く何も知らず、全く何も経験していなければ、理解できない領域である。
若い頃の私は完全にそうだった。懐疑的だった。
学校、会社、役所、テレビ、ネットなどの世界や、肩書、資格など、そうしたものは道とは全く関係ない場合が多い。
道は他人から与えられるものでも、社会から与えられるものでもおよそない。
逆に言えば、最初から生きるレールが決まっている世襲政治家や世襲タレントは道が見出せない。
まして無宗教で、哲学に懐疑的な日本人ならなおさらだ。
己の道を進んでいれば、他人をいじめることもないし、自殺もしない。
やるべきことで頭がいっぱいだからだ。
また、中学生くらいであれば、当然全く道が見出せていない年齢なので、悪いことばかりをしてしまう。