Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

戦後俳句

2024.09.06 11:40

https://kogumaza.jp/2001haikujihyuu.html 【 俳句時評 兜太、完  ――詠まれざる未完の課題】より

                              武 良 竜 彦

昭和・平成の俳句界を熱い志をもって駆け抜けた金子兜太の、最後の句集『百年』が、昨年末に刊行された。本書の企画編集に当たったスタッフの代表として、安西篤氏が 『百年』 の巻末の「後記」で、そして 『百年』 を出した朔出版のブックレット創刊1号で、多数の俳人が、兜太の現代俳句の業績について述べている。そんな正の評価の面は、その各氏の評言に委ねて、私は一評論子の務めとして、逆の負の面について論述する役目を果たしておきたい。

    暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり         鈴木六林男

    暗闇の下山くちびるぶ厚くし         金子 兜太

この二句をめぐって、かつて鈴木六林男の門下にあり、その研究の第一人者、高橋修宏氏は次のように述べている。

     ※

「暗闇」をめぐる二つの俳句の隔たりと、その間に広がるものこそ、戦後俳句と呼ばれる荒涼とした領土のひとつであったと、いま差しあたり考えてみることができるかもしれない。

 わたしたちは、その荒々しい豊饒な領土を、どのように見ればよいのか。語りつづけることができるのか。あるいは、すでに失いつつあるのだろうか。(「六林男をめぐる十二の章」俳誌「57504」鈴木六林男生誕百年記念号の「編集後記」から)

     ※ 

戦後の俳句表現における問題点を、この二句の対比で象徴的に指摘する高橋修宏氏独自の詩学的な視線は深く鋭い。彼にはこの二句の精密な読みを起点とする問題の在処を具体的に詳述することも可能だったはずである。だが、このように総論的に指摘するに留めている。六林男の句については次のような「読み」を、本論で述べている。

     ※

人間存在にひそむ動物的とも呼べる生命の危機を孕んだ揺らぎが描き込まれているのではなか。言いかえれば、安易なヒューマニズムの底板を踏み抜いてしまう

 荒々しい動物的本能にまで接近してしまう情動と呼びうるものが、「暗闇の目玉」というモチーフの可能性として秘められているのではないだろうか。

     ※

高橋修宏氏の「読み」では、「暗闇の目玉」は剝き出しの(安易なヒューマニズムの底板を踏み抜いてしまう)野生性の表現であるとされる。三・一一体験を潜り抜けて、初めて明確に浮上してきた視座、彼独特の震災後詩学の眼差しがある。この「編集後記」で示唆した金子兜太の「暗闇」俳句と、六林男の「暗闇」俳句との、容易に超えることのできない「差」がここに指摘されている。

 高橋修宏氏は兜太の句の「読み」については論述していない。蛇足覚悟で敢えて、兜太の「暗闇俳句」についての私の「読み」を以下に述べることにしよう。

兜太句の「暗闇」は、「下山」する身体的状況だけを覆う、目先の利かなさの意味しかない。ただ闇が濃くなってゆく中での「下山」の表現だけが為されおり、重点が置かれているのは、「くちびるぶ厚くし」という肉体的表現である。実存感は増すが、その分「暗闇」もそこに引き付けられて、時空が限定されてしまう。何故そう「読める」のか。

 この句は「存在感の衝動」の表現が現代俳句だとする、兜太の俳句観に添う表現になっているからだ。「下山」している行為者には明確な目的がある。平地への帰還という暗黙の「目的」が前提とされている表現である。

その表現に向かう動機は「戦中派」のものだ。戦中を生き延びた人間は、戦後の命ある日々の肯定感に拘束されて、剥き出しの現実的な「戦後」の得体の知れない「闇」が視界に入らない。それが「戦後」を表現する障害にもなっている。兜太の身体性に引き付けた造形表現という主張は、主観的な主張に留まっている。身体に張り付き過ぎる表現は深度を失い自己完結してしまう。そこからどこへも出てゆこうともしない広がりのない表現に陥る。

金子兜太の「戦争俳句」を引く。

    椰子の丘朝焼けしるき日日なりき  海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

    水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

兜太は自分の「身体」から出てゆかない。自分の身体の中で沸き起こる「感慨」の表出しかしていない。それが兜太の「戦争俳句」の限界であり、同時にまた「戦後の闇」を詠もうともしなかった限界と通底するものがあるのではないか。その身体性信仰が故郷の秩父の風土から得た日本詩歌の伝統性をも包摂する「天人合一」という詩境にまで拡大していく危うさを抱え込んでしまった。それは自己表出とは逆立する、指示表出的な言語表現に堕してしまう危うさでもあった。合〈目的〉的な、晩年のスローガン的表現(例「沖縄を見殺しにするな春怒濤」など)の、かつての「社会性俳句」が陥った言語表現の劣化や、「アベ政治を許さない」という解りやすいスローガン言語表現の揮毫に、躊躇いも見せない地点へと、まっすぐ繋がるものだ。戦後は兜太の主張する「身体性」を基調とした「存在感の衝動」という「存在」そのものが、疑われてゆく時代だったのではないか。地球規模の生命の危機を含む、人間としての存在論的な危機を見つめ、簡単に答えなど得ることができない永遠の問いかけをするのが戦後文学、いや普遍的でもある文学の存立的契機となっていたのではないか。

兜太俳句にはその視座がないが、六林男の「暗闇俳句」と句業にはその視座があるといえるのではないか。

 兜太のように「戦後の闇」を詠まなかった(詠めなかっ)たのは、兜太一人ではない。それが「戦後俳句と呼ばれる荒涼とした領土」に遍在した傾向でもあり、同様に真の震災詠が少なかった理由もそこにあるのではないか。甚だ僭越で顰蹙を買う批判に聞こえるだろうが、敢えて提言しておきたい。私は「戦後の闇」そのものである水俣という「公害」の原点の現場で育った。その戦後の「闇」に向き合うことこそが、震災後、喫緊の課題となってきているのではないか、そしてその欠落を埋めることが、これからの俳文学の喫緊の課題ではないかと思われるのである。


https://kaigen.art/kaigen_terrace/%e3%80%8e%e9%87%91%e5%ad%90%e5%85%9c%e5%a4%aa%e6%88%a6%e5%be%8c%e4%bf%b3%e5%8f%a5%e6%97%a5%e8%a8%98%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%b7%bb%e3%80%8f%e3%82%92%e8%aa%ad%e3%82%80%e3%81%9d%e3%81%ae1/ 【『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿】より

《3回連載・その1》

はじめに

 金子兜太生誕百年を記念して、二〇一九年九月、第十五句集『百年』が刊行された。帯文の、兜太のことば

 「俺は死なない。この世を去っても、俳句となって生き続ける」

が、なんとも嬉しい。燻し銀のような声で、じんわりと心へ伝わってくる。

 同じ頃、待望の『金子兜太戦後俳句日記』第二巻(一九七七〜九三年)も出版され、いよいよ兜太という俳人の全人間が、全作品・書籍とともに奥行をもって考察され、理解され親しまれる状況となってきた。兜太研究に関する基本文献が、ほぼ出揃ったといえる。

 そんななか、創刊されたブックレット『朔』一号の「特集金子兜太句集『百年』を読む」に載った、俳人、作家たちの数々のことばの中で、私は他界した兜太のこれから、に期待するといった少し奇妙な発言に、目を止めた。

 私は時折、令和時代の金子兜太、ということを考えます。……大きな足跡を残した金子兜太という存在は、令和の時代をさらに力強く生き抜いていくことができるでしょうか。金子兜太の俳句とその功績はこれからの俳人にどういった影響を与え、継承されていくのでしょうか。(宮崎斗士)

 そう、生身の人間だからこそ言葉が朽ちない。……死後、成長する俳人だろうと思います。優れた作家は死後も成長するんですね、存在していた時以上に。金子さんはそういう一人になるだろうと、そういう予感がいたします。(宇多喜代子)

 この「令和の時代に生きる兜太」「死んでも成長する兜太」といった、未来志向のことばが、光って見える。そうあってほしい。小論は、その未来志向で、『金子兜太戦後俳句日記』の解析を中心に、俳人兜太という人間そのもの、俳句と生き方そのものに肉迫したいと思う。

 六十一年間、全三巻に及ぶ同『俳句日記』は、そのための好個の基本データである。その第一巻、二巻を流れる特徴の第一は、小説「トラック島戦記」を書き上げたい、異常とも言える兜太の執念である。先の小論「俳人兜太のトラック島戦場体験の真実」(「海原」10・11・12号)で書いたように、その格闘は、第一巻(一九五七〜七六年)で十八年かけても終わっていない。では、第二巻ではどうなのか。

 特徴の第二は、人間の極限状態といえる「死の戦場」体験と、その深刻な自己検討に発した、戦後の俳人兜太の生き方である。それは、〈心奥〉の自由を求め、人間のもつ本能、欲望、エゴイズムを率直に見つめつつ、「なすべきは我にあり」と、透徹した自己省察と自己進化、成長を重ね、ダイナミックに時代を生き抜いた、俳人兜太の知られざる内面史である。

 俳人兜太とは何者か。興味津津、考察を深めてゆきたい。

㈠ 兜太の「トラック島戦記」追考

 『俳句日記』第二巻でも、俳人兜太の小説「トラック島戦記」を書く熱意は、依然続いている。その主な部分だけ、紹介することにしよう。それ自体、みごとな日記文学だと思う。

 二月二十八日(一九七七年)

 どうしても戦記を、の執念もえるばかり。怨念にちかい。……当面戦記に徹すべし。

 七月八日

 皆子曰く「戦記を書いているときがいちばん楽しそう」と。気分楽しく、文章苦渋。

 七月十四日

 戦記。……とにかくこれをやらなければ話にならない。朝から蒸し暑いが、気力をこめる。

 七月十六日

 俳諧と戦記。戦記完成まではこの二本に絞る。

 七月二十日

 戦記。どうも稚拙におもえて、途中直したりして、すすまない。かたくなっているせいだ。それと、新興俳句事件

など、新に加えたせいもある。

 八月十五日

 敗戦の日。わが戦記いつ成るや。焦らず、しかし持続的に書きつづけよ。願わくば、せめて成るまででも環境に変化なきことを、父母妻子孫、すべて健康であれかし。

 九月三十日(父死す)

 十二月三十一日

 しかし散漫。……以後「戦記」を主題として、集中方式をとらないと、まとまったことはできないとおもう。

 五月八日(一九七八年)

 はやく戦記に着手したい。なによりも私自身の〈人間のために〉、一刻も早く書きたい。

 八月三日

 朝焼。しきりに「椰子の丘朝焼しるき日日なりき」をおもいだしている。のってきた。この大朝焼は合図のごとし。戦記再開。

 九月十六日

 戦記。……かるい不安もわいたりするが、なんのなんの。戦記のあと、読売の選と一茶季語集の下書き。このほうはあまり気がのらない。

 十一月三十日

 戦記に戻る。まだ雑事はあるが、戦記に集中すれば余暇でやれるていどのこと。戦記と俳論(時評)、一茶(一茶季語集)だけをやること。

 四月四日(一九七九年)

 一茶、戦記、中山道、秩父事件、秩父路の線をやりぬけば、〈死者に酬いる〉自分なりの生きざまが見えてくる。

 九月六日(一九八〇年)

 さて、おれはなにをやるかと考えてしまう。中山道が終ったら、歳時記をやりながら、秩父の日常記録をやる。そして戦記をやり、秩父事件におよぶ。――そんな展望をおっかなびっくり固めながら、「国民文学」とは何かとおもっている。

 見るとおり、一九七九年、八〇年の『日記』では、「トラック島戦記」はいくつもの並立する当面の課題の一つとなっている。そして、事実上の終わりとなったのは、一九八〇年十月二十九日、筑摩書房の編集者から「戦記」の草稿を読んで、「先生らしくない文章」(ゆるい文章)と評されたことだったようだ。その後の『日記』で、兜太はこう書いている。

 十一月四日(一九八〇年)

 筑摩井崎氏より手紙。小生電話して、秩父事件を先にやることを伝える。戦記は〈方法〉をかためなければ繰りかえしになる。そのあと、軽い落胆、不安。戦記をやはりやるべきだったかなどと軽い惑い。

 こうして、一九五八年十一月以来、兜太三十九歳から六十一歳までの、丸二十二年間に及ぶ小説「トラック島戦記」(筆者注・『日記』では途中から「環礁戦記」と変わったが、小論では統一してそのままのタイトルを用いる)の執筆、取り組みは、強烈な書きたい意欲と予想外の難行との鬩ぎ合いの中で、ここで実際上の終末となっている。

 年譜を見ても、この当時、兜太は朝日カルチャーの講義開始(一九七八年)、「海程」秩父道場開始(一九七九年)、第一回俳人訪中団参加(一九八〇年)、現代俳句協会会長就任(一九八三年)、「わが戦後俳句史」海程連載開始(一九八四年)など、ますます多忙を極めている。それでも兜太の中では、トラック島は終わっていなかった。

 十月二十三日(一九八三年)

 そこで話した「戦後の試行錯誤は〈死者に酬いる〉ことを生き方の根柢にしたところからはじまる」という線にやはり執してゆかねば、とおもい、「わが戦後俳句史」とともに「環礁戦記」をと決める。自分で納得できる生き方を、と改めておもう。

 十二月二十五日(一九八五年)

 来年の計画を練る。……小生自身「環礁戦記」に未練もある。しかし、いまの時期、昭和三十六年以降十五年間の俳句と自分に取組むべきかもしれぬ。迷う。

 兜太にとって、「トラック島戦記」とは、なにより自分自身の〈人間のために〉、自らの〈生きざま〉として、精魂をこめた人生的なものだったのである。そのために、二十二年という膨大な時間とエネルギーが投入されている。

 したがってその草稿が未完成、未発表に終わっても、その過程での、生死の戦場体験にもとづく赤裸々な人間考察の反芻、深化は、それからの兜太独自の人間観、俳句観、世界観の展開に、色濃く反映されていることは間違いない。そのことは四章で述べる。

㈡ 人間の極限体験をした表現者

 ここで私は、「トラック島戦記」に執念を燃やし続けた兜太の生きざまを、さらに深く真っ当に理解するため、同じく、第二次世界大戦中、アウシュヴィッツで人間の極限状態を体験した、ユダヤ系イタリア人作家プリーモ・レーヴィの古典的名著『これが人間か』を、改めて読み返した。そして兜太との意外な共通項を発見して、驚いた。

 レーヴィの生まれは、兜太と同じ一九一九年。ナチス・ドイツの強制収容所に送られたのも、兜太のトラック島赴任と同じ一九四四年。そのトラック島戦場は、米軍の包囲作戦で補給路を断たれ、極端な飢餓状態に追い込まれ、軍人軍属四万人のうち八千人が、ほとんど餓死している。うち兜太率いる土建の民間部隊が、もっともひどかった。アウシュヴィッツではユダヤ人をはじめ百六十万人が、ガス室で、無惨に死んだ。

 レーヴィは化学技術者ということもあって、僥倖にも生還した一人である。『これが人間か』は、次の詩から始まっている。

 これが人間か、考えてほしい/泥にまみれて働き/平安を知らず/パンのかけらを争い/他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。

 考えてほしい、そうした事実があったことを。/……そして子供たちに話してやってほしい。

 兜太とレーヴィは、二十歳代中頃に、人間が人間でなくなる異常な極限状態を体験し、その生ま生ましい体感、記憶を自らの肉体に刻み込み生還した、数少なくない表現者である。生き残った自分はなにをなすべきか。生涯かけて自問自答し、それを自らの人生の課題としている。そこに共通する三つの特徴を挙げると――。

 一つは、戦争とファシズムによる、こうした超非人間性への体ごとの告発、警告である。

 兜太 戦争体験というものはフィクションじゃない。我々生き延びてきているものには、語り伝える義務がある。(『語る兜太』)

 レーヴィ 「他人」に語りたい、「他人」に知らせたいというこの欲求は、解放の前も、解放の後も、生きるための必要事項をないがしろにさせんばかりに激しく、私たちの心の中で燃えていた。(同著・序)

 二つは、生き残り生還した自己への、微妙なこだわりである。

 兜太 こちらは主計(筆者注・食糧調達の担当官)として、あと何人死んでくれたら、この芋で何人生きられるかとさいないう計算をしてしまう。自己嫌悪に苛まれました。(『のこす言葉 金子兜太』)

 レーヴィ この生き残りの問題は、アウシュヴィッツ強制収容所から解放された後も、レーヴィの心の中でわだかまりとして残った。……死ぬまでそうするのである。(訳者解説)

 三つは、戦後二人とも、表現者としての仕事と並行して、戦場及び強制収容所体験の語り部となって、広く訴え続けたことである。

 「戦争法案」反対で高揚した二〇一五年を頂点とする、兜太の語り部活動は周知のこと。『金子兜太戦後俳句日記』第二巻では、早くも一九八九年四月、国学院大学で自治会主催の講演「危機の時代に生きる学生に望むこと――私の戦争体験と俳句」について、話をしている。

 レーヴィも、「強制収容所について語るのを義務と考え、中学校、高校からの講演の依頼を受けると断らずに出かけ」たそうである。

 『これが人間か』の初版は一九四七年十月だが、強制収容所に関する考察の集大成ともいうべき評論集『溺れるものと救われるもの』の出版は、一九八六年四月。つまり、彼が自死する一年前まで書き綴っている。「若い読者に答える」で語る次のことばは、彼の信念でもあったろう。

 ファシズムは死んだどころではなかった。ただ身を隠し、ひそんでいただけだ。

 兜太とレーヴィの生涯と、その表現を見ると、普通では想像を絶する、人間破壊の悲劇を体験した人間でないと、本当には分からない、人間の尊厳をかけたあるものが確かに存在する。そこから湧き立つ表現意欲は、尋常ではない。兜太が二十二年間にわたり執念を燃やした、「トラック島戦記」が、その顕著な一例であろう。

 最終章の句集『百年』には、そうした惨い戦場体験を抱き、終生語り尽くしたい兜太の内面が、俳句作品として重く立ち並んでいる。

 昭和通りの梅雨を戦中派が歩く

 雨期の戦場雑踏の街旦暮かな

 戦さあるなと逃げ水を追い野を辿る

 南溟の非業の死者と寒九郎

 今日、金子兜太という表現者の人間と俳句、評論、エッセイを論じ、鑑賞する場合、この新しいデータにもとづく視点が、新鮮に求められていると、私は思う。

(次号へつづく)

https://kaigen.art/kaigen_terrace/%e3%80%8e%e9%87%91%e5%ad%90%e5%85%9c%e5%a4%aa%e6%88%a6%e5%be%8c%e4%bf%b3%e5%8f%a5%e6%97%a5%e8%a8%98%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%b7%bb%e3%80%8f%e3%82%92%e8%aa%ad%e3%82%80%ef%bc%9a%e5%85%9c%e5%a4%aa%e3%81%a8/ 【『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む 兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿】より

《3回連載・その2》

 ㈢ 兜太の「戦争とトラック島」俳句の展開

 兜太は二十六歳のとき、トラック島で敗戦を迎えた。『わが戦後俳句史』(岩波新書・一九八五年刊)は、「八月十五日の朝焼け」から始まっている。

  椰子の丘朝焼しるき日日なりき

  海に青雲あおぐも生き死に言わず生きんとのみ

 敗戦の日から翌日にかけて、どうしようもない喪失感と、変な安堵感の入り交じった胸中を詠んだ、三句中の二句である。俳人兜太の「わが戦後」は、ここから始まっている。

  兜太のもつ抒情原質の生きた作品だが、私はとくに二句目に注目する。それまでの自然体のまま詠んできた「トラック島」俳句が、「少し変わって」(兜太)、「生きんとのみ」と、早くも戦後への出直しの意志を強烈に感じさせるからである。

 こうした生を見つめ何があろうと生きる、という自らの意志に裏打された俳句が、兜太の戦後俳句のスタートから、その形成、発展過程のポイントポイントで、肉体ごと雄々しく表現されているのである。兜太の生命力、俳句力というものか。

  水脈みおの果て炎天の墓碑を置きて去る(『少年』)

  死にし骨は海に捨つべし沢庵たくあん噛む(同)

  朝はじまる海へ突込む鷗の死(『金子兜太句集』)

  わが湖うみあり日蔭真暗な虎があり(同)

 ここに一本の流れが見られる。トラック島で餓死した非業の死者たちに酬いたいという一念が、兜太の戦後の基本的な生き方となり、表現欲求となって、時どきの感動のモチーフで映像化されたものだ。一句一句に兜太がいる。

 一句目は、一九四六年十一月、帰国する引揚船上で作られた名句である。兜太の想いは篤い。「置きて去る」の語調に、並ならぬ意志がこめられている。

 二句目は、翌一九四七年五月の作。すでに日銀に復職し結婚していた。「死にし骨」とは自らの骨である。「なすべきことのためには、自分を捨てなければならない」という、切り立つ心情を詠んでいる。「日銀の近代化」を求める組合運動への志向も見え始める。

 三句目は、一九五六年七月に発表した神戸港での作。腹を決めて「俳句専念」を決意した、転機の名句である。その時期、兜太は献身した組合運動が、一九五〇年のレッドパージのあおりを受けて頓挫し、以後十年におよぶ地方支店生活(福島、神戸、長崎)を余儀なくされていた。「海へ突込む鷗の死」には、トラック島で海軍戦闘機・零戦ぜろせんが、米軍機に撃墜されて海へ突っ込む景のイメージと重なる。

 そして四句目は、兜太が社会性俳句の方法論として「造型俳句六章」を発表した一九六一年、山中湖畔での作。「わが湖うみ」は兜太の内面風景で、そこに黒々と伏せ待機している虎がいるのだ。六〇年安保後の文化反動の嵐の中、「やってやるぞ」という、御しがたい意欲が暗示されている。自画像でもあろう。

 さて、第十五句集『百年』の刊行によって、そうした兜太俳句の流れは、より総体的、俯瞰的に鑑賞し、考察することが可能となった。その中で、「戦争とトラック島」関連の俳句は、戦時のトラック島体験に発した、一条の水脈のように、反戦と平和、人間の自由への強烈な信条を胸に、えんえんと絶えることなく、むしろ最終章『百年』で開花、結実している感が強い。

 青年兜太が、戦地から石鹸に詰めて大事に持ち帰り、公表した俳句は、句集『少年』と未刊句集「生長」に載せた百二十四句だが、帰国後は、「戦争とトラック島」の視野を広げて、沖縄戦、ベトナム戦争、そしてヒロシマ・ナガサキの原爆と、忍び寄る戦争への危機感を詠んだ作品をふくめ、その数は百六十句。合わせて二百八十四句に及ぶ。

 帰国後のそうした俳句を句集別にみると、『少年』八句、『金子兜太句集』二十七句、『蜿蜿』一句、『暗緑地誌』二十四句、『狡童』一句、『旅次抄録』一句、『遊牧集』一句、『詩經國風』一句、『皆之』八句、『両神』三句、『東国抄』九句、『日常』十七句、そして『百年』三十六句と続く。

 途中、一句ずつ、あるいはゼロの句集が続いているが、その間、先に述べた散文表現の「トラック島戦記」に打ち込んでいた時期と重なる。興味のある数値だと思う。うち私の感銘する『日常』までの五句と、『百年』から五句を挙げる。

  わが戦後終らず朝日影長しよ(『狡童』)

  麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな(『詩經國風』)

    紀州勝浦に、トラック島最終引揚げの戦友たち集る

  みな生きてた湾口に冬濤の白さ(『皆之』)

    悼 千葉玄白

  銃弾浴び薯をつくりて青春なりき(『東国抄』)

  飢えの語に身震いするよ春鴉(『日常』)

  戦争や蝙蝠こうもり食らい飢うえとありき(以下『百年』)

  青春の「十五年戦争」の狐火

  狂いもせず笑いもせずよ餓死の人よ

    朝日賞を受く

  炎天の墓碑まざとあり生きてきし

  戦さあるな人喰い鮫の宴うたげあるな

 最後の句の宴をする人喰い鮫は、兜太が好きな青鮫である。青鮫にちなんで、イメージによる兜太五十代の名句がある。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』)

 白梅の咲く早春の朝。庭中が海底のような、まるで命を運んでくる感じの蒼い空気につつまれる中を、何匹もの精悍な青鮫が悠々と泳いでいるではないか。春が来た。いのち満つ、と兜太は咄嗟に感受し、この一句が生まれたそうだ。なぜ青鮫か、聞かれても自分でもよく分からなかったという。

 ところが後日、ニューヨークでのある賞の選考会で、アメリカ人の選考委員が、それは「トラック島で見た青鮫ではないか」と評した。それを聞いて兜太は、「あっ、そうか」と思わず納得したことを、自著『他界』(二〇一四年刊)で述べている。トラック島大環礁の外には青鮫がわんさといて、撃沈され海へ投げ出された日本兵の死体を、宴のように喰らいまくっていたと聞く。

 兜太の「トラック島戦場体験」は、無意識の深層心理のひだにまで、しっかり記録されていたのである。

 ㈣ 「なすべきは我にあり」の内面史

 これから特徴の第二に入る。その兜太の『戦後俳句日記』は、日記といいながら、人間にとって最も肝要な、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった基本テーマと体当りした、すさまじいばかりの自己(人間)探求の記録である。

 それが、まだ俳句人生の展望が見えにくい三十歳代にはじまる第一巻から、現代俳句協会会長、朝日俳壇選者となり俳句界の頂点に立った七十歳代前半までの第二巻を通じて、その「なすべきは我にあり」の自省と自己進化の姿勢は、変わっていない。兜太という人間の太さと人間臭さに感心しながら、簡潔にその特徴的な個所の紹介と解明を進めよう。

三月十八日(一九六七年・47歳)

 小生の目的は何か。〈人間〉を知ること。椎名麟三のいうような〈人間の自由〉探求はまだ空々しい。そのためにいまの虚偽と虚栄のベエルを、ひんめくること。

十一月二十五日

 車中、子規のことを読みながら、また何を目的に生きるか――と考えはじめ、やはり〈自由〉だ、自由に生きるということだ、と思い定める。これを妨げるもの〈非人間者〉と闘い、これによって人に迷惑をかけない、また物質だけでなく〈精神〉〈心奥〉の自由を第一としたい。

一月一日(一九六八年・48歳)

 考えていたことは〈自由〉ということ。この言葉がまだうとうとしている早朝に突然訪れ、そして離れない。人間を考えることは、それのエゴ(広く肉体的欲求まで含めて)の自由を考えることに等しい。人間はエゴイスティックで、従って、人間関係は〈不確実〉なものだ。その〈自由〉。

十二月二十三日

 現状をみると、雑文書き、小名誉欲、小権力、小思考――それにとりつかれていた自分が浅間しく思える。組合に踏みきったときのように、第二の踏みきりをやる時機にきているし、……必ず、やりとげる。

一月四日(一九七〇年・50歳)

  〈人間〉そのままのすがたか、エゴイズムとは別の面を示すことを知るべきである。迂闊に人間不信を語ることに恥しさをかんじる。

四月二十九日(一九七二年・52歳)

 何をやっているのか、何をやるか、――を問いなおす。〈寛厳〉を考え、いまの現象的な風潮を〈人間的に問いかえす〉こと(特に〈自由〉とは〈他を侵さざるものなること〉)を確認する。

五月五日

 自由のために、というが、自分だけの自由(個の道)と、他のための自由(革新への道)がある、と思い、その双方に足をかけているあいまいさが自分を辛くしていることを、あらためて知る。

一月一日(一九七六年・56歳)

 ここにあらためて決意す。こんどは〈大ぼらふき〉で終りたくない。それにしても、助平根性をおこすな。〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉。

四月十七日

 この頃思うことは、一切の経歴や過去の生き方を抜きにして、裸かの、今の一人の男として、はたして自分は〈立派〉といえるか、ということ。これをおもうとき、いちじるしく不安になり、妙に人の目が気になる。修業修業。自然自然。

十二月二十六日

 ①なぜ他人に拘泥するか。結局おのれの覇権意識とそれに伴う末梢的強気にすぎない。

 ②自分のやること、理論を一と筋にかためて、自らを恃すべし。

 ③自分に太く徹して、右顧左眄するな。

 ここで第一巻は終わっている。『俳句日記』ながら、ここまでで、兜太の「自由論」は、ほぼ定まってきたといえそうだ。一九七六年元旦の日記、「〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉」ということばで、その基本線が要約されていると思う。それは兜太の、波瀾万丈の時代を生き抜く生き方、人生哲学でもあるといえよう。

 この間の兜太の句集の中から、私なりに「人間の自由」のモチーフを感じさせる作品を、三つ挙げる。

  無神の旅あかつき岬をマッチで燃し(『蜿蜿』)

  林間を人ごうごうと過ぎゆけり(『暗緑地誌』)

  髭のびててっぺん薄き自然かな(『狡童』)

 この『狡童』という第六句集名は、「ずるい、美貌、剛情」という三意から、「煩悩具足の、まだまだ青くさい自分のことを言いたかった」と、「あとがき」で述べている。

 同じく第三句集『蜿蜿』の「後記兜太教訓集」では、自らの目標としている「人間の自由」について、その時点でのまとめとして、こう書き記している。

 私は、今までも、これからも、〈自由〉を求める。肉体の自由か精神の自由かと言った、小賢しい区別はしない。それらすべての自由を願う。そして、自分の自由が他から侵されるときは自由を守るために闘うことも辞さない。その代わり、他の自由を侵すことは絶対にない。本当の自由とは、自分が絶対に自由であるとともに、他の自由も絶対に侵してはならないものと思う。

 そしてトラック島戦場で見た、人間の赤裸々な「エゴの本能」についても、「自由論」との関係で、続けてこう考察を深めている。

 それだけに、自由の実現は、エゴを馴致することのできる精神の成熟を待つしかないと思う(中略)私は、エゴの赤裸々な振舞いを、人間臭くて美しいとさえ思いつづけてきた。

 こうして、第七句集『旅次抄録』(一九七七年刊)の「後記」では、「いつの日か、自信をこめて、〈自由人宣言〉をやってやろうとおもっている」と、あえて言明しているのである。まことに兜太である。

 さらに、『俳句日記』第二巻ではどうか。私は、兜太という俳人の、人間として、俳人としての一段の成熟過程を見るようで、感激しながらむさぼり読んだ。その到達点は、一九八九年七月十八日の『俳句日記』の、次のくだりである、と思う。

 芭蕉を語る昨今、小生のうちに固まってきた世界は、天然(人間も含む)との共存(ともに流れる、ともに交響する)ということ。……存在ということも体感できてきた。句作り専念ということ。この哲学を噛みつつ句を作れ。

 先に述べた、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった兜太の厳しい自己(人間)探求は、当然の流れとして、④自分の俳句、自分の存在、そしてそれを〈天然と一体化〉する、自らの思想・哲学をしかと確認するところまで発展している。自省と自己進化といった生き方の基本姿勢は、もちろん変わっていない。第二巻では、その心境を軽妙に記録している。

二月十六日(一九八二年・62歳)

 小倉八十の手紙で、ふと、〈ふたりごころ〉の第一は、自分を見るこころ〈自己客観化〉と気付く。この余裕のない現代人。

七月十二日

 寄居夏期大学での講演チラシに、「野太く素朴な庶民の精神を大事と見る」ということばを小生の紹介に付したという。それをおもいだす。ズケズケした存在感。ズバズバ吐きだす俳句。

三月二十二日(一九八四年・64歳)

 わが戦後俳句史に関連して、〈立身出世主義〉、〈利己と権力意識〉のことを話し合う。

七月三日(一九八九年・69歳)

 『雁』の一日一句に集中してゆく。これを軸に、自分の思想ということを詰めてゆきたい。承知しているつもりで、あ﹅い﹅ま﹅い﹅なこと多し。利己と権力、本能と自然じねん、土と存在、などなど。

七月六日

 冨士田元彦からいわれた一日一句を励行している。自己の哲学を確認し、そして句。すると充実して物が見えてくる。

七月十八日

 哲学を繰りかえし噛み確かめる。(以下は67頁に引用)

七月十九日

 小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

一月二日(一九九〇年・70歳)

 俳壇覇権主義をおろかしく思いつつ、どこかでこだわっている我が身のばかばかしさ。よい仕事をせよ。

一月三日

 こころの持ち方がすこし崩れている。歳末多忙なせいか。現象的になっている。じっくりと取り戻せ。〈自由〉。〈こだわらない〉。〈旅の恥はかき捨て〉。〈霊力〉などと自分に言う。

三月二日

 何故俳句を、と問われて、〈笑いながらこころのことが話せるから。人間万事、色と欲のことも承知の上で〉と。

七月十七日

 朝、皆子と話しながらまとめる。人間の自由と純正を志向する姿勢こそ一流。それを達成し、あるいは達成せんとして姿勢を崩さぬ者は一流の人物。達成をもとめつつ迷いふかき者は二流。達成をもとめない者は三流。

七月十八日

 自由とは、本性のままにあり得ることで、善悪不問、価値多様でよいわけだが、しかし、性善に傾けて(志向して)、自分を置き他を見ることのほうが本当の自由と見る。純正であることが自由の第一義と見る。むろん、善悪両面を承知した「さめた目」に立ってのこと。

十二月二十七日

 「なすべきは我にあり」。この語、あれこれと俳壇思惑のあと、突如湧く。これなる哉。へたへたぐずぐずの対他意識を捨てよ。

十二月二十二日(一九九三年・73歳)

 そのとき、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」が出てくる。それも無人の秋暮の野の寂蓼として出てくる。〈わが俳道〉などという想念なしに景として。そして〈気力〉と〈目的〉を呼びおこして〈空しさ〉を抑え込む。〈気〉を呼び込むことは僅かながら出来てきた。〈目的〉は不熟。長く〈目的〉を見失っていた自分に気付く。

十二月二十九日

 朝、虚しい気分が湧いては消え、湧いては消えしていたが、朝食のあとにわかにシャンとして、〈超越〉の語が出てくる。俳壇風景など小さい、と思う。それより自分の目的を見定めよ、と。

 この『俳句日記』第二巻の時期の俳句も収めた、第十二句集『両神』の後記で、兜太は自らの俳句観について、こう述べている。

 俳句は、どどのつまりは自分そのもの、自分の有り態ていをそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。……同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鰯や、むろん人間やと、周囲の生きものとこ﹅こ﹅ろ﹅を通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。……これからの自分の課題はこの「天人合一」にあり、と以来おもいつづけている。

 そうした、成熟しても人間臭く自在な兜太の俳句を、私なりに三つ挙げる。

  人間に狐ぶつかる春の谷(『詩經國風』)

  牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ(『皆之』)

  酒止めようかどの本能と遊ぼうか(『両神』)

 一句目は、郷里の秩父での作。あたかも春。人間も狐も一緒。アニミズムの親しみと交感がみられる。二句目は、熊谷の家の近くで鳴き続ける牛蛙ら。兜太も愉快に「ぐわぐわ」。オノマトペが生きている。三句目、痛風四回で酒を止める。しかし、ある程度は本能を自由にしておかないと、長つづきしない。余裕余裕と、にんまり。人間兜太の成熟感が、作品にもたっぷり表現されている、と思う。

(次号へつづく)

https://kaigen.art/kaigen_terrace/%e3%80%8e%e9%87%91%e5%ad%90%e5%85%9c%e5%a4%aa%e6%88%a6%e5%be%8c%e4%bf%b3%e5%8f%a5%e6%97%a5%e8%a8%98%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%b7%bb%e3%80%8f%e3%82%92%e8%aa%ad%e3%82%80%ef%bc%9a%e5%85%9c%e5%a4%aa%e3%81%a8-2/ 【『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察③ 岡崎万寿】

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む

兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿

《3回連載・その3》

㈤ 兜太は「煽られた」のか

  ――長谷川櫂「解説」への疑問

 『金子兜太戦後俳句日記』には、兜太と同じ朝日俳壇選者の長谷川櫂が「解説」を書いている。その労に感謝しながら、第一巻、二巻を通じて指摘されている、兜太の社会性俳句運動にかかわる問題点について、私の疑問を述べておきたい。

 長谷川櫂の俳論は、俳人には珍しいスケールの大きい視座を、特徴としている。かつて東日本大震災(3・11)のさいの発言も、そうだった。私は共感して、次の一文を引用したことがある。

 実際(新聞の俳壇や歌壇の投稿作にみられるように)、多くの一般の人たちが震災を作品にしている。天皇から民草まで、みなが歌を詠む万葉集以来の日本の伝統は今なお生きていると感じる。日本人の心の底で眠っていたものが今、掘り起こされているともいえる(「日経」二〇一一年4月28日付夕刊)。

 今回の『金子兜太戦後俳句日記』第二巻の解説「社会性と前衛」の中でも、そんな卓見を発見した。

 俳句にかぎらず人類の詩歌はすべて社会性、政治性を備えている。社会性がないようにみえるのは自覚しないだけである。

 それは言葉自体が発生したときから社会性と政治性を備えていたからである。対象を把握するにしても意思疎通をはかるにしても、言葉には自己と他者の関係がすでに生じている。これこそ言葉が本然的にもつ無自覚な社会性であり政治性である。人類のすべての詩歌は言葉のDNAである社会性と政治性をそのまま受け継いだ。

 日本語の詩歌も『古事記』『万葉集』以来、社会性と政治性を一貫してもちつづけてきた。

 しかし、同『俳句日記』第一巻の解説「兜太の戦争体験」に書かれている次の一文は、残念ながら、こうした長谷川櫂の視座広く説得力のある論考とは、どうしても読めない。少し長いが、俳人兜太の人間考察の基本にかかわる、重要な問題提起であるので、そのまま引用したい。

 まず「昭和の兜太」は社会性俳句と前衛俳句の旗手であった。……どちらも戦後、解放されたマルキシズム(マルクス主義)に煽られて俳句の世界にたちまち燃え広がった。

 日記のはじまる一九五七年(昭和三十二年)といえば第二次世界大戦の終結から十二年、世界中が自由主義陣営と社会・共産主義陣営の東西冷戦の渦中にあった。日本国内ではそれを反映して、自民党と社会党を左右両極とした対決が思想・政治・経済だけでなくあらゆる分野で展開していた。いわゆる六〇年安保闘争が沸き起こるのはその三年後である。この左右対決の構図はすべての日本人を巻き込んだ。兜太も例外ではなかった。むしろもっとも強烈なあおりを受けた一人とみるべきだろう。

 ここで述べられている戦後世界の政治論、歴史論に立ち入ることは、兜太の人間考察の俳論の範囲を超えるので、あえて触れない。だが、超大国のアメリカとソ連の冷戦時代とはいえ、「世界中」、「すべての日本人を巻き込」み、まして自立、自由であるべき文化(俳句)まで、米・ソの二色で図式的に色分けしてしまう二極分化観は、当時の現実とも違うし、今日の国際政治学や近・現代史学の到達点からみても、かなり強引すぎるのではないか。

 長谷川櫂は現在、俳句界を代表するリーダーの一人である。この文面を読んで、首を傾げる人も少なくないと思う。まして「社会性は作者の態﹅度﹅の問題」と、どんなイデオロギーでも自らの生き方に溶かし込み、肉体化しない限り、頑固に動じない信条をもった、兜太のことである。「解説」で書いているような、「マルキシズム」の「もっとも強烈なあおりを受け」ることが、人間的にも、現実的にもあり得るだろうか。

 長谷川櫂の「煽られ」論のウィーク・ポイントは、こんな人間の尊厳にもかかわる問題を、何の実証も、論証もなしに一方的に断言していることだ。事実を見ても、兜太の社会性の俳句、俳論は、配転先の神戸から始まっている。日銀での労組活動を理由に、当時吹き荒れていたレッド(共産主義者・同調者)・パージの煽りを受け、十年間の地方勤務の冷や飯を食わされている最中だった。煽られたのは「マルキシズム」でなく、米占領下の不当なレッド・パージによるものだった。時代背景が、丸で違っているのである。

 したがってと言おうか、長谷川櫂「解説」は、第一巻の「兜太の戦争体験」では、引用した「煽られ」論をあれほど述べていたのに、第二巻の肝心の「社会性と前衛」では、その強調が消えている。

 そればかりか、先に書いた兜太の主張する「態度の問題」を評価し、「この点で兜太は社会性俳句運動の中では異端の存在だったといわなければならない」と、第一巻「解説」と正反対ともとれる結論となっている。重要なので全文を紹介する。

 ただし兜太自身はイデオロギー俳句、マルクス主義俳句に距離を置いていた。「社会性は作者の態﹅度﹅の問題」と書いていたとおり、兜太はイデオロギーに拠る拠らぬにかかわらず、社会に対する自覚と態度が俳句の社会性を生み出すと考えた。いわばイデオロギー以前の問題としてとらえていたのであり、この点で兜太は社会性俳句運動の中では異端の存在だったといわなければならない。

 見るとおり、社会性俳句運動の「煽られ」論は、兜太に関しては事実上、破綻している。だが、運動の「旗手」だった兜太を、その「異端者」に変えるだけでは、問題は片付かない。そんな「異端者」が、社会性俳句運動の旗手として、人望を集めることはあり得ないことだからである。

 また第二巻「解説」で、「その二つを過去の実績(筆者注・社会性俳句と前衛俳句運動の旗手だったこと)として今や称賛を浴び、公の社会に受け入れられてゆく兜太の姿である」と書いていることとも、矛盾してくる。その矛盾は、画一的な冷戦史観と、「社会性俳句はマルクス主義俳句」といった単純な断定の枠組みに、人間兜太をはめ込もうとする無理から生じたものだが、ここではそのことを指摘するにとどめる。

 その反面、第二巻「解説」が、こうした社会性俳句運動の積極面として、「社会性俳句運動は俳句の対象を広げるとともに、俳句の無自覚な社会性、政治性への自覚を促すことになった」と評価する着眼点を、大いに多としたいと思う。

 二つ目の問題点として、第二巻「解説」の次の文章も看過できない内容である。

 社会性俳句運動は政治的行動に直結していたこと。いいかえれば、兜太には文学と政治、俳句作品と政治的メッセージの明確な境界がなかった。この姿勢が晩年、安保法案反対運動のために肉太の書体で「アベ政治を許さない」と揮毫する、政治的行動へ兜太を駆りたてることになる。

 はたして、そうだろうか。私は、兜太くらい政治(思想)と文学(俳句)との境界線を、明確にし筋を通してきた俳人

(文化人)は少ないと思う。その実証として、三つを挙げる。

 一つは、先ほどまで述べ、長谷川「解説」も認めている「社会性は態度の問題だ」という信念である。これはもう文句の

ないところ。たとえば『証言・昭和の俳句』(上)でも、こう論じている。その俳句姿勢は、終生変わっていない。

 そうならないと文芸論にならないと思ったんですよ。……私の場合はそのままイデオロギーを持ち込むことを全く拒絶していたんです。

 二つは、自らの自由を確保しつづけるため、一定の制約を受ける政治組織には、決して参加しなかったことである。作家の半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』の中でも、自信をこめて、こう語っている。

 コレも私の自慢なんですが、私は党派には属さないで、一人でやった。これが唯一の自慢なんですよ。

 三つは、戦後の反戦平和の主張と行動が、あるイデオロギーに発したものでなく、トラック島での生死の戦場体験に発した、「非業の死者に報いたい」という一念によるものだったことである。

 私は反戦主義者ですから、戦争は悪と思っているわけです。これは体験から発してそう思うようになっているんです。自分が戦争をしてきた、その生な体験から(『人間・金子兜太のざっくばらん』)。

 以上、生の資料をもって、兜太がいかに俳人として、俳句と政治的行動を直結させることを、自ら拒絶し、明確すぎる境界線を示していたかについて述べた。先入観や実証性のない人間批評は、お互い避けたいものと思う。

 最後に残った問題は、先の安保法案反対の市民運動のかつてない広がりの中で、作家の澤地久枝の依頼で揮毫した「アベ政治を許さない」の書が、長谷川「解説」があえて挙げるほど、俳句と政治との境界線のない政治的行動であったか、どうかの評価である。

 その当時の兜太の内面については、近く刊行される『金子兜太戦後俳句日記』(第三巻)に、どう記されているか、興味のあるところだが、専門俳人といえども、自由と民主主義、平和を支える主権者の一人である。市民の権利としての表現の自由にかかわる問題で、そんな「境界線」をつけるべきことか、どうか。私は次に挙げる『俳句日記』(第二巻)「解説」の理解ある文面からみて、それは長谷川櫂のペンの走りすぎに思えてならない。

 なぜ兜太は社会性の自覚が必要と考えたか。俳人にかぎらず人々の社会性の無自覚こそが昭和の戦争を許したと考えていたからだろう。

 また『俳句日記』(第一巻)「解説」でも、肯定的にこう結んでいる。

 兜太は若い世代は戦争について大いに語り、行動すべきだと考えていた。地球上で起こっている戦争を自分のこととして考えることのできる「地球人としての想像力」に希望を託していたのではなかったか。

 全く同感である。その「地球人としての想像力」をもって最晩年にいたるまで兜太は、遺句集『百年』でみるようなスケールと批評性のある俳句を、詠み続けている。

 果てしなく枯草匂う祖国なり

 原爆忌被曝福島よ生きよ

 朝蟬よ若者逝きて何んの国ぞ

 そうした作品にも込められた、その若者はじめ市民への希﹅望﹅が戦争につながる安保法案反対の市民運動の熱気と結んで、あの気迫と人間味あふれる兜太ならではの「アベ政治を許さない」の書となったものと思う。事実、この書(プラカード)は、市民運動の共同のシンボルとなって、全国いたるところで、長期間にわたって掲げられた。まさしく俳人兜太の、時代に記録される貴重な書となったのである。

 それは、「境界」うんぬんの次元のことではなく、もっぱら人間としての俳人兜太の見識の問題である。

(3回連載・了)