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『ブレードランナー2049』感想 〜「本物」を信じる小さな願い【ネタバレ】

2017.10.31 08:39

映画『ブレードランナー2049』は、1982年に公開された『ブレードランナー』の続編です。前作は斬新なSFの未来世界の中で哲学的なテーマを描く重厚な作品でした。歴史的な名作であるとされる作品の数十年越しの続編として、本作はどうだったか。結論から言えば、前作の世界観とテーマを更にアップデートさせ、非常に必然性ある物語を紡いでいたと思います。

監督も変わり、確かに映像の見せ方が過剰ぎみだったり、語り方がかったるい部分もあったのですが、しかし見事に前作の精神性を受け継いでいたと思います。本記事では、そんな『ブレードランナー2049』が『ブレードランナー』から引き継いだ「『本物』をめぐる物語」をどのようにアップデートし、結論付けたかについて書きたいと思います。



〈あらすじ〉

2049年、貧困と病気が蔓延するカリフォルニア。 人間と見分けのつかない《レプリカント》が労働力として製造され、 人間社会と危うい共存関係を保っていた。 危険な《レプリカント》を取り締まる捜査官は《ブレードランナー》と 呼ばれ、2つの社会の均衡と秩序を守っていた―。 LA市警のブレードランナー“K”(R・ゴズリング)は、ある事件の捜査中に、 《レプリカント》開発に力を注ぐウォレス社の【巨大な陰謀】を知ると共に、 その闇を暴く鍵となる男にたどり着く。 彼は、かつて優秀なブレードランナーとして活躍していたが、 ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し、 30年間行方不明になっていた男、デッカード(H・フォード)だった。 いったい彼は何を知ってしまったのか?デッカードが命をかけて守り続けてきた〈秘密〉― 人間と《レプリカント》、2つの世界の秩序を崩壊させ、 人類存亡に関わる〈真実〉が今、明かされようとしている。

(公式サイトより引用)



〈感想〉

※以下、ネタバレ注意



■哲学的思考実験の物語

ブレードランナーという作品において一貫しているテーマは、「本物とは何か」ということです。これは哲学的に言えば実存をめぐる物語といえます。すなわち、あるものが本当に存在しているのかどうか、ということを考える物語なのです。例えば、「人間とレプリカントの違いは何か」という問題も、突き詰めれば「本物の魂とは何か」「本物の私とは何か」「本物の人間とは何か」という問題として考えられます。そしてそれは、多くの場合厳密な答えが得られるものではないのです。

ではなぜこのような問題を考えるのでしょうか。結論から言えば、問題を考えるために問題を考えるのであるといえます。つまり、何か答えを出すことではなく、そのことについて考えること自体を目的としているのです。そうすることによって、例えば「魂とは」「私とは」「人間とは」という、普段我々が当たり前のものとして認識していることについて考えを深めることができます。言い換えれば、当たり前のものとして認識している概念について、我々が実際はいかに何も知り得ていないかを知ることができるのです。これは哲学のあらゆる問題について言えることです。

「問題を考えるために問題を考える」という性質が顕著に現れるのが思考実験の問題です。例えば「水槽の脳」の問題などは有名です。これは、「自分が見ているこの世界は実は仮想現実で、本当は水槽に浮かんだ自分の脳に電気信号が送られているだけなのではないか」という状況を考える問題です。言うまでもなく、これは「本物の意識とは何か」「本物の存在とは何か」などについて考えるための問題です。このように、哲学的思考実験の問題は、それが科学的に本当に実行可能かどうかではなく、原理的に想定できるかどうかのみに基づいて状況を設定します。そして、我々がその概念についてより考え、より悩むように仕向けるのです。

ブレードランナーは、まさに哲学的思考実験の物語であるといえるでしょう。前作『ブレードランナー』は、人間そっくりのレプリカントや作り物の記憶を想定することで、「本当の人間」「本物の私」についての問題を提起しました。そして、本作『ブレードランナー2049』は、その思考実験的要素を更に強力にした作品であるといえます。


■本物と偽物の境界

前述したように、思考実験の問題は考える者をより悩ませる方向に状況を設定しますが、ブレードランナーの場合、それは「境を曖昧にする」という方法によってなされています。

人間と人造人間なら、躊躇いなく人間の方が本物であると言えるでしょう。しかし、それは単なる言葉の情報です。『ブレードランナー』という作品は、その言葉に「物語」を付与することにより、人間と人造人間の境を曖昧にしました。レプリカントも涙を流し、アイデンティティを求め、自由な生を望む。となれば、いったい本物と偽物の境界はどこなのか。そんな思考実験の問題を提供したのです。

『ブレードランナー2049』では、この「境を曖昧にする」という考え方をより突き詰めています。

例えば、前作では主人公のデッカードが人間なのかレプリカントなのかという論争が巻き起こりましたが、本作の主人公Kがレプリカントであることは前提とされています。他のキャラクターに関しても、「彼/彼女が実はレプリカントだった」と判明するようなプロットポイントはありません(「奇跡」だったと判明するポイントはありますが、これについては後述します)。つまり、もはや「人間なのかレプリカントなのか」という情報自体はなんら意味を持たず、逆に言えば人間なのかレプリカントなのかを規定するものはそんな「肩書き」ではないという段階にあるということです。その証拠に、前作では人間とレプリカントの恋が描かれましたが、本作ではKとジョイ、すなわちレプリカントとAIの恋が描かれています。レプリカントだって人間のように他者を求める、などということはもはや大前提なのです。そう考えると、本作で新たに追加された「子を産めるレプリカント」という設定は、「境を曖昧にする」ための究極的な要素であるといえるでしょう。

「アイデンティティ=本物の私」という概念もより不安定化しています。例えば、本作では「記憶」や「感情」が重要な要素として取り上げられます。作り物の記憶という要素は前作でも登場しましたが、本作はこの要素を更に掘り下げ、「記憶がその人のアイデンティティにいかに作用するか」というところまで描いています。作中で「記憶を移植されたレプリカントは精神の安定を得られる」ということが語られていましたが、これはそのまま人間の特性を示しています。人間だって、記憶によって自身が何者であるか知ることができるからこそ、同一性が保たれ精神的に安定するのです。つまり、人間であれレプリカントであれ、「本物の私」を記憶に求めるのは自然なことであり、これは「人間とレプリカントの境を曖昧にする」ということにも繋がってきます。しかし、本作で登場する移植用記憶の技術は、この「本物の私」を揺るがすものです。極めつけは、ウォレスによって示唆されるタイレル社の陰謀です。前作であれだけロマンチックに描かれたデッカードとレイチェルのロマンスすら人為的にプログラムされたものだとすれば、自身の感情すらも確かなものではないということになります。本物そっくりの記憶を移植し感情をプログラムできる世界で、自分の記憶や感情が本物なのか、すなわち「私は本物なのか」を判断することなどできるのでしょうか。この問題は、もはや人間にもレプリカントにも共通の問題として語られます。


■世界から個人へ

このように、『ブレードランナー』から『ブレードランナー2049』への流れを考えると、「本物」をめぐる議論にも一つの流れが見えてきそうです。それは、人間かレプリカントかという「肩書き」に意味は無いということ。問題の本質は境それ自体ではなく、結局は自分にとって自分の確からしさとは何かという点にあるということです。

これが思考実験の物語であることを思い出せば、この流れは必然的なものです。というのも、思考実験の問題はいくらでも状況を悩ませる方向に設定できます。人間とレプリカントの境など、いくらでも曖昧にすることができるのです。ならば、本質的なのは個人にとって何が「本物」なのかを考えることであるということになります。

そう考えると、『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』における物語構造の違いにも頷けます。前作の主人公デッカードは言ってしまえば狂言回しの役割であり、物語は彼自身の生にフォーカスするというよりは、彼が捜査官として活動するにつれ、タイレル社の内実やレプリカント達の反乱といった政治的・社会的問題が明らかになり、その末に「人間とレプリカントの違いは何か」というテーマが浮き彫りになっていく……という構造をとっていました。いわば、「世界の中に見出される問題」を描いていたのです。一方、本作は終始「主人公Kの一生」にフォーカスしています。デッカードと異なり、彼が捜査官らしい活躍をするのは序盤のみで、物語は次第にKのアイデンティティをめぐる旅の様相を呈してきます。もちろん、人間vsレプリカントの戦争、飢餓問題、ウォレス社の思惑など、世界スケ―ルの問題は匂わされますが、それはあくまでも個人的な生に対置されるものとして描かれるのです。いわば「個人の中に見出される問題」を描いているのであり、このスケールの変動は前述したような「本物」をめぐる議論の発展と関連しているように思えます。


■カテゴライズの無意味化

この「世界から個人へ」の物語的な動きが「本物」をめぐる議論の発展を示しているのだとすれば、その議論の終着点はKの一生の終着点にあると考えられます。では、Kのアイデンティティをめぐる旅はどのような結末を迎えたのでしょうか。

物語中盤でKは自分こそが「奇跡」の存在であると思い込みます。しかし、実際はそれはミスリードであることが判明し、自身が特別な存在かもしれないという希望は完全に消滅してしまいました。ここで注意すべきは、だからといってKが「何者でもない存在」に終わってしまったわけではないということです。

Kの希望が打ち砕かれるまさにそのシーンで、彼にこんな言葉がかけられます。「誰しも信じたいものを信じるものなのだ」と。これは、Kの抱いていた希望が幻想であることを示すセリフですが、同時に「Kの一生=『本物』をめぐる議論」の終着点でもあります。

「子を産むレプリカント」が思考実験を強化するための設定であったことを思い出しましょう。つまり、「奇跡」の存在を文字通りの意味に捉えるのもミスリードなのです。もちろん、レプリカントにとって自分が誰かから生まれてきた存在であること、すなわち自分が特別な存在であることは究極的な願いでした。しかし考えてみれば、それはあくまでも「その方がより人間らしいから」ということでしかありません。「奇跡」というのは、もはや人間かレプリカントかというカテゴライズが本質的なものではないことを体現する存在という意味で「奇跡」なのであり、それを「レプリカントではなく人間になりたい」という願いに利用するのは真逆の発想なのです。

これが本物で、これが偽物で…とカテゴライズすることが無意味であることは、作中の色々なシーンで示唆されます。例えば、本物の記憶を見分ける方法が「感覚」だと語られるシーンがありますが、これはなんとも不確実な話です。言い換えれば、自分の感覚を信じるしかないということでもあります。同じように、デッカードは自分は「本物」を見分けられると言い、ウォレスの作ったレイチェルそっくりのレプリカントを「彼女の瞳は緑色だった」と言って一蹴しますが、実際はレイチェルの目は緑色ではありません。すなわち、デッカードが思い描いたのは「彼にとっての記憶」の中のレイチェルであるということで、これも自分の感覚を信じるしかないことを示すシーンです。

そう考えると、「誰しも信じたいものを信じるものなのだ」というセリフは、同時に「人間だろうがレプリカントだろうが、信じたいものを信じるしかない」という意味を内包していると考えられます。それはある種の限界を示すものであり、同時にその限界を肯定するものでもあるのです。ここに絶望と希望が共存し、「本物」をめぐる議論は個人にとっての確かさの問題に還元されます。


■降りしきる雪

本物と偽物の境界を徹底的にぼやけさせる本作を観ていると、むしろこんなことを思うようになります。結局、人間の実存など思考実験的にいくらでも不確実でありうるのだからこそ、我々には信じることが必要なのではないか、と。  

Kが最後に取った行動はまさにこのことを示しています。彼は終盤、レプリカント解放運動に加わりデッカードを殺害するよう言われます。「大義のために死ぬのがもっとも人間らしい」のだからと。確かに、人間vsレプリカントの戦争とその先の革命は、事態を進展させ何かを自由にするかもしれません。しかし前述の通り、それは本質的な解決にはならないでしょう。実際、Kもその道を望みませんでした。彼にとって、自分こそ魂のあるレプリカントであると思っていたのに、それを否定された絶望は相当なものであったに違いありません。しかし、だからといって押し付けられた大義で人間に近付こうとすると、逆に自身の自由意志を否定することになります。更に言えば、自分を「人間と戦うべきレプリカント側」にカテゴライズしてしまうと、その時点でますます人間から離れていくのです。

だからこそ、彼は「大義=世界」でなく、むしろ彼が彼という「個人」として信じたいものを信じました。それは、人間vsレプリカントの戦争やら、世界の秩序やら、自由と革命やらではなく、非常に小さな一つの家族の物語でした。戦争や革命を目指すよりは、一人の父親をその娘に会わせることの方が遥かに尊いことだと思えたのでしょう。それはもはや「大義」を超越したところにある、目の前にある愛の感情をただ尊いと感じる精神です。

Kが最後の選択をし、決意を固めるシーンは印象的です。それは、ジョイが自分につけてくれた「ジョー」という名前が、彼女のプログラムによるものであったことが判明するシーンでもありました。もともと「ジョー」というのは、彼が「特別な存在」であるという証にジョイが彼につけた名前でした。だからこそ、あのシーンでKは「ジョー」という名前がプログラムであったことと、自分が実は特別な存在ではなかったこととを重ね合わせたに違いありません。

しかし、その後のKが取った行動は、人間と戦争をして「特別な存在」になろうとするものではなく、むしろそうした人間に対する複雑な感情を全て捨てて、ただ「K」として自分の信じるものを信じる、というものでした。

個人にとって確かであると思うものを選ぶ。つまり、「カテゴライズによる特別性」という考え方を捨て、「個人の特別性」を信じたのです。Kの選択はこれに尽きます。逆に言えば、ブレードランナーという作品において、「何が本物で何が偽物か」という明確な答えは得られません。それをただひたすら自身で考え続け、悩み続けるしかないという結論なのです。しかし、そうすることによって、自分の行動とそれを選んだ自分自身の存在を「本物」だと肯定できるはずです。そして、もしかしたら他の誰かによって自分という存在が「本物」と見なされるかもしれません。

その望みが、ラストシーンで娘に会いに行くデッカードに渡す木彫りの馬に託されます。Kがデッカードに名乗った「ジョー」という名前は決して特別なものではないし、木彫りの馬に刻まれた誕生日はKのものではありません。しかし、「ジョー」と名乗った自分の存在は、木彫りの馬を渡した自分の存在はデッカードの中に残り続けるかもしれない。そんな「願い」を彼は託したのです。

その願いは届くのでしょうか。確かなことはわかりません。しかし、デッカードはKに対し「お前にとって俺はどういう存在なんだ」と質問しています。少なくとも、彼は「K」という個人に興味を抱いていることがわかります。外ではKが、雪が降る中で横たわっています。デッカードが娘に会いに行くと、彼女はバーチャルの雪を眺めています。綺麗だと言いながら、笑顔で雪を眺めているのです。ここに、もはや本物vs偽物の権力関係は存在しません。特別かどうかという問題も消えてなくなります。ただ、ふたりは同じように雪を眺めていたのです。