ファティ・アキン監督『消えた声が、その名を呼ぶ』
わたしの眼が
あなたを見るという奇跡
357時限目◎映画
堀間ロクなな
トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督の『消えた声が、その名を呼ぶ』(2014年)は、わたしの胸倉を鷲づかみにして驚くべき発見へと導いてくれた。この地球上にはわれわれの暮らす世間の他に、まるでSFのパラレルワールドみたいに、たがいに断絶して通じあうことのない別の世界が実在している、と――。
ときは1915年、ところはオスマン・トルコのひなびた街。アルメニア人の鍛冶職人でキリスト教徒のナザレットは、憲兵隊の命令で突如、妻ラケルや双子の娘ルシネ、アルシネのもとから連れ去られる。第一次世界大戦のさなか、砂漠地帯の道路敷設に従事させるためだったが、イスラム教への改宗を強要され、それを拒んだ面々はナイフで喉を掻き切られる羽目に。かろうじて一命を取り留めたナザレットは声を失くし、深い絶望に打ちひしがれながら、石鹸工場の労働者として日を送る。やがて、3年後の敗戦によってトルコ人の支配から解き放たれると、難民キャンプへ赴いて家族の消息を尋ね歩き、妻ラケルは「死の行進」で落命したものの、娘のルシネとアルシネは生きのびたらしいことを知った。
こうして双子姉妹の行方を追って長い旅がはじまり、わずかなカネを懐に不自由な身体を駆って、レバノン、キューバ、そしてアメリカ合衆国のミネアポリス、ノースダコタへと足跡を刻んでいく。そんなナザレットはとうにキリスト教の信仰のみならず、世間の人々への拠りどころまでも失っていたから、たとえ行く先々で哀れなアルメニア人の道行きに同情して手を差しのべてくれる老若男女が立ち現れたとしても、かれの両眼にはまったく異質の風景が映っていた。自分の娘たちを見出さないかぎり、どこまでものっぺらぼうな世界でしかない。つまり、オスマン・トルコの砂漠地帯もアメリカの文明社会もなんら変わるものではなかったのだ。
ナザレットが踏み込んだ世界は、われわれが暮らす世間との交わりを欠いた一種のパラレルワールドだったろう。だから、かれの喜怒哀楽が人々に伝わることはないし、人々の喜怒哀楽がかれに伝わることもない。孤独地獄。そのありさまは、わたしに旧約聖書が記録したヨブの物語を思い起こさせる。
敬虔な信仰のもとで生きていたヨブに対して、神はサタンにけしかけられ厳しい試練を与える。所有していたヒツジ7000頭、ラクダ3000頭、ウシ500軛(くびき)……の財産を無にしたうえに、男女10人の子どもたちの生命も奪い去り、なおも神の名を讃えようとするその身の頭のてっぺんから足の裏までを悪性の腫物で覆ってしまう。かくして、開き直ったヨブは呪詛の言葉を吐き散らし、親しい仲間が諌めて信仰に立ち返らせようと努めても断固として拒み、あくまで反駁を重ねるうち、ついには天上から神が説得に当たるのさえ耳を貸そうとしなかった。
いわば、このときのヨブもパラレルワールドにはまり込んで、ひたすら憤怒をたぎらせていたのだろう。しかし、まことに思いがけない回心の瞬間が訪れる。なんと眼前に神が姿を現出させるにおよんで、かれが発した言葉を『ヨブ記』はこう伝えている。
わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが
今やわたしの眼があなたを見たのです。
それ故わたしは自分を否定し
塵灰の中で悔改めます。
(関根正雄訳)
孤独地獄のどん底にあって、ヨブの肉眼が奇跡を起こしたのだ。しかし、世間に安住してパラレルワールドと無縁なわれわれは、その奇跡を決して知ることはできないだろう。ナザレットもまた、長大な旅路の果てに、ひとりだけ生き残っていた娘の姿を目にしたとき、その声を失った喉が思わず「ルシネ!」と叫び、相手も振り返って「とうとう私を見つけたのね」と応えてしっかり抱きあう。再会した娘は神であり、奇跡が成就したのである。実のところ、21世紀の今日においても、地球上のあちらこちらでこうした旧約聖書の時代以来のドラマが繰り広げられているのだろう。ことによったら、いまこのときもすぐ目と鼻の先で新たな奇跡が起きているのかもしれない。われわれにはその気配さえ感じ取れないとしても。