氣を前に出す
お能の講座、3回目になりました。
「人間五十年」という仕舞を学んでおりますが、とても面白いです。
動きがゆっくりでシンプルな分、常に瞬間瞬間に全身に注意が必要で、どうにもなりません。
でも、こういうときにこそ、アレクサンダー・テクニークを知っていて良かったと
つくづく思います。
できなかったり、うまくいかないことにとらわれず、淡々と楽しんでいます。
先生がおっしゃるには、お能では作品によって、シテが女性であるか男性であるか、年齢、どんな人物であるのか、どんなことを思い、感じているのかを、この極端に制限された舞を通して表現されるので、時間をかけて「氣を前に出す」という訓練をされるそうです。
型の背後にあるものを、訓練してゆくのですね。
お能の大切にされているもの、それが芸として今までに伝わっているもの。
これらは言葉になかなか現すことができませんが、わたしがすごいと思うのは、こういうものを支えてきた観客の存在です。
言葉に現すことのできない世界を共有できる能力を持っている、意識の高さです。
あるいは、老いも若きも、そういうものを大切に育てる教育です。
「高砂」という謡も一緒に習っていますが、これもどうにもなりません。笑。
ほとんど音程がなく、ときどき長い音があったりするくらいで、西洋の複雑なメロディーに比べると、音読しているような感じですが、先生が歌うと言葉が生き生きとして、細胞全部に伝わってくるような氣がします。
音(声)の波動に乗って、いろいろなものが伝わって来る。
先生の存在自体が意識が違うのか、先生の話し声を聞くだけでも、わたしは眠くなってしまいます。
まるで披講を聴いているときのよう。
学校で学んだ知識の理解とはまったく違った理解の仕方です。
そして、これは守り続けなくてはいけないわたしたちの感性ではないか、と思うのです。