水口城
1. 城のデータ
[所在地] 滋賀県甲賀市水口町本丸水口城内
[築城年] 1634年
[築城者] 徳川家光
[遺 構] 石垣、堀など
[別 称] 碧水城
[形 状] 平城
[登城年] 2016年9月21日
(※トップ写真:水口城・高麗門と木橋)
2. 城の歴史
1585年、豊臣秀吉は中村一氏に命じて近江国甲賀地方の支配の拠点として水口岡山城を築城させた。1590年に増田長盛が、さらに1595年に長束正家が入城している。1600年の関ヶ原の戦い後、正家は徳川方の前に降伏開城した。
1634年、3代将軍徳川家光の上洛に備えて新たに宿館を築くこととなり、幕府直轄で工事が行われる。実際に将軍が使用したのは1度きりで、その後は城番が管理した。1682年に加藤明友が2万石で水口城に入り、水口藩を立藩。1695年に鳥居氏が入るが、その後再び加藤氏が入り、幕末に至る。
3. 城の見どころ
水口城は、徳川家光が上洛に際して1度だけ使用したとされる宿泊御殿であった。城の規模は東西約136m、南北約143mの方形の規模で、幅約18mの水堀に囲まれ、四周は高さ約10mの石垣で囲まれていた。四隅に単層の櫓を配置し、本丸の中心に豪華な本丸御殿があった。出入口は北と東側に設けられ、巨大な櫓門で厳重に固められていた。宿館とはいえ、幕府の威厳をかけた格式の高い城であった。
(下写真:高麗門)
加藤氏時代、本丸御殿は使用されず、本丸北側の二の丸に屋敷を構えて政務をとっていたという。あくまでも「将軍から借り受けている城」という認識があったらしい。明治維新後、城は廃城となり、城の建材については、石垣が近江鉄道の線路敷設に使用されるなど、大半を失ってしまった。ただし、城の中枢である本丸についてはそのままの規模で残され、四周を取り囲む水堀などの遺構は現存している。現在本丸跡については、水口高校のグラウンドとして使用されている。
(下写真:巽櫓台跡と水堀)
1972年に県指定史跡に指定されたのを契機に東枡形部分一体が整備され、あわせて櫓を模した「水口城資料館」が開館した。この櫓はあくまでも模擬櫓であり、実際にあった位置でもないので、注意を要する。櫓内は資料館となっており、水口城の歴史解説と、貴重な地元資料が展示されている。特に水口城の復元模型は、全盛期の城の様子がわかるので、必見である。この東枡形部分の石垣は当時のもので、加工された石材が整然と積み上がっており、石垣技術の完成域に達している。
(下写真:模擬櫓)
明治維新以後の破却により多くの石垣が失われたが、前述の東枡形以外では、本丸北西隅にあたる乾櫓台の石垣がかろうじて残っている。ここは、石材を斜めに積み上げた谷積になっており、非常に珍しい。これは1854年の大地震による被害の後、積み替えされたものといわれる。
(下写真:乾櫓台の石垣)
また、水口城の前身であり、中村一氏が築いた水口岡山城も近くにあるが、今回は時間の関係で訪れなかった。標高282m、織豊期の山城であり、野面積の石垣がよく残っているという。機会があればぜひ足を伸ばしてみたいと思う。
4. 城のポイント
①徳川将軍の宿館となった城 ⇒3代将軍・家光の上洛の際に使用された
②本丸の四周を取り囲む水堀
③東枡形の石垣、乾櫓台の石垣(谷積)