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フェスボルタ文藝部

毛、その愛 (大谷健児)

2017.11.04 02:11

以前、こんなキャッチコピーを見た。

《毛先15センチでカワイイは作れる》。

女性向けシャンプーに付けられたものだ。

私は、そのキャッチコピーが、気に入った。

そしてふと、我がマラに、視線を投げた。

そこには、心許なくも雄々しく繁るジャングルが、あった。


そう、陰毛である。

換言すると、チン毛である。


時が刻まれるごとに、そこへなすすべもなく迷い込む数多の毛ジラミたち。

彼らはそこを、終の棲家と定め、最期の瞬間まで魂の安住を希求した。


そんな我がチン毛にも、《毛先15センチでカワイイは作れる》は可能なのか━そんな疑問が、私の全身を衝き動かした。


どれだけ豊かな毛量になろうとも、決して誰からの称賛も受けはしない、チン毛。


希望と名付け得る拠り所も無いままに、ただひっそりと佇むばかりのチン毛。


得も言われぬ哀切をその身に纏い、あたかも時流とは無関係の如くに揺曳するチン毛。


豊饒な自然の壮大さには心撃たれる私たちも、なぜだかチン毛だけは軽視しがちだ。

時として私たちは、チン毛を軽んじてしまう。蔑みの色を帯びたまなざしを投げてしまうことさえ、確かにあった。


思えばかつて、チン毛が生え始めた時期を、否、チン毛が生えていることそれ自体を、私たちは絶対的な勲章と位置付けていた。

チン毛が生えてこそ、男。

股間が未だ不毛地帯である者は、瞬時に疎外された。


そう、思春期と言う名の橋を怯えながら渡るとき、チン毛こそが何にも勝るアイデンティティだった。

100メートル走が如何に速かろうと、複雑な計算式をどれだけの明晰さで解いたとしても、

そこにチン毛以上の価値はない。

チン毛こそが、すべてだった。チン毛こそが、青春の爪痕だった。

そう、誰にでもあった。一途な思いを寄せる女子生徒の教科書に、自らのチン毛を挟んだ日々が。

そんな穢れなき魂を宿し続けた時代。それを私たちは、忘れてやしないか。


《毛先15センチでカワイイは作れる》

このチン毛が15センチに到達した頃、私の眼前に広がる景色は、一体どれほど輝いているのだろう。そしてその15センチのチン毛は、私の暮らしをどれだけ色づかせてくれるのだろう。

チン毛、ありがとう。

↑文章の下劣さを霧消させるには、力ずくでもファンシーに依拠するのが最善策。