琉球八社巡礼.1 ~そもそも...
ご縁があって、ここ数年、毎年沖縄に訪問させて頂いております。
そして、何年か前にそもそもご縁のあった「沖縄県護国神社」以外にもここ沖縄に神社があることが分かりました。
そしてそれは、わたくしに取ってはとても不思議なことでした。
護国神社は国家のために殉難された英霊をお祀りしているお社です。
そしてそれは日本の各都道府県に建立されておりますが、沖縄県は、特に太平洋戦争においての悲惨な戦禍を体験しており、沖縄県関係の戦死者だけでなく、第二次世界大戦の沖縄戦に殉じた本土出身者や犠牲となった一般市民も祭神として祀っています。
でも、一方で、沖縄が日本に属すようになったのは、慶長14(1609)年の薩摩藩による琉球侵攻以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられました。
もっと昔には、「続日本紀」に記載があり、文武天皇の時代(698年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士が南島(なんとう-南西諸島)に派遣されたとあり、その後、和銅8(715)年には南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上したという記載があり、蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けたとあります。
しかし、沖縄はその後、グスク時代と言われる12世紀までは明確な歴史が残っておらずに、その時代は独自の歴史、文化、民俗が栄えていった訳で、また、基本的には稲作が普及していないということがポイントで、無論それは気候が理由でありますが、稲作が重要でないということは稲作に関連する神さまは必要とされないと考えるのはごくごく(日本的には)自然な流れです。
筆者の基本はいつも申し上げるように「稲作」です。
この国の歴史も民俗も軸は「稲作」です。
なので、逆にいえば、神社があるということ自体が疑問でしたが、興味も深く、では、どんなかたをお祀りしていらっしゃるのかというのが気になって仕方なくなりました。
筆者はご縁を頂いて毎年秋に沖縄本島に訪問できる機会があります。
この時季は沖縄の観光としてはちょっと微妙な頃のようで、学生さんはもう夏期休暇は終わっていますし、気候的にはまだオンシーズンを体験できる、また、一方でここ数年は中国からの客船で乗り付けた大観光団が多く(中国、韓国の観光客は台風が苦手なので7~9月はグッと減少するそうですー那覇のタクシー会社役員談)、この時季、有名な観光スポットでは略彼らと遭遇できます…笑
さて、その沖縄の神社ですが、やはり、思い立ってすぐに明日行かれる!
って距離ではありませんのと、また、神社系統的なもの、更にいえば、神宮参拝や、このブログもその一つかもしれませんが、色々なその道のプロフェッショナルな方々にご縁を頂き、その方々からの情報やアドバイスを頂戴していると、そういう場所への交流は必ず時期が来るという必然、その時が来たら行くのだということなど、色々な思惑や心が錯綜し、中々踏みきれずにいたのも事実です。
そんな中、昨年(平成28年)に大きな体験がありました。
沖縄に同行した友人が「久高島」に行くという計画を立てておりました。
久高島と斎場御嶽(せいふぁーうたき/サイハノうたき)を訪ねるという計画があり、実は、沖縄には返還直後の昭和48年頃からご縁があったのですが、なんともう申しますか、歴男の悲劇というか、沖縄の歴史は琉球王朝の歴史としてしか認知がなく、古代史のそれとは余り関係性を感じなかったのでそもそも興味はなかったのですが、このときは、それがとても自然な行程だったのでなんというか、あまり主体性がなく参加させていただいたのですが...
これが、そもそもの始まりだったのでした。
このブログの制作意図とは少し外れてしまうので、今回あまり詳しく久高島の訪問記は書きません。
しかし、いずれ書かなくてはならないときが来ます。というか、その接点は見つけました。いま、この段階では書く要素が揃っていない、またブログ的に時期が来ていないということです。
序でながら申し上げますが、時期は大事です。
時期は必要なら必ずきます。
それが筆者のよくいう必然です。
ただ、ここでの体験は、本年の琉球八社巡礼には大きく役立ちました。
恐らく、昨年、久高島の体験がなかったら、わたくしは大きなことを琉球八社巡礼で見落としてしまったでしょう。
そして、肝心なこと、中でも、なぜ、わたくしが今年ここに来なければならなかったかを気づかなかったでしょう。
ということで、今年の琉球八社巡礼は昨年久高島(それと斎場御嶽)を観光したことが出発点だったことに、今回、気づいたということをまずはご紹介させていただきました。