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年間第3主日(C)

2022.01.21 22:00

2022年1月23日  C年 年間第3主日 神のことばの主日

福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節

 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
 〔さて、〕イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

 年間第三主日は、「神のことばの主日」に当たります。「神のことばの主日」は比較的新しく定められたもので、2019年9月30日、教皇フランシスコの自発教令「アペルイット・イリス」によって決められ、翌年の年間第3主日から典礼に取り入れられました。2019年は聖ヒエロニモ司祭教会博士の帰天1600年に当たり、この聖人の記念日に「アペルイット・イリス」が公布されました。

 聖ヒエロニモは、ラテン語のブルガタ訳聖書の翻訳者で、「聖書を知らないことは、キリストについて知らないこと」という言葉を残したことで有名です。また、「アペルイット・イリス」の意味は「彼らに開いた」で、ルカ福音書24章25節の「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開い〔た〕」の引用です。それは、復活したイエスがエマオでの道行きで、二人の弟子たちの前に現した出来事であり、弟子たちに行なった最後のみわざの一つです。

 さて私達は通常、言葉と聞くと、音声や文字によって、何らかの考えや思いを伝える手段の一つとして、思い浮かべるのではないかと思います。だからこそこの言葉について、しばしば“思いのこもっていない空しい言葉”、とか“行動の伴わない空疎な言葉”、などといったネガティブな意味に取られることもあります。

 ところが古代の人々にとって、「言葉」というのは、現代人が考える以上に重みがあり、多くの意味が含まれていたことはよく指摘されることです。日本においては、「言霊」(ことだま)という言葉がありますが、それには、言葉には霊的な力が宿り、その力によって言葉通りの事柄がもたらされるという古代人の考えが表れています。【言霊の幸ふ国(ことだまのさきはうくに)】と言えば、それは「言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国、すなわち我が国こと」(広辞苑 第6版、岩波書店)を意味します。幸いの満ちる言葉の集まるところには、その通りの出来事が実現されるということなのだと思います。

 何でも実証的に捉えようとする現代人にとっては、にわかに信じがたいことですが、しかし、言葉が人間の人格形成や、人生の歩みに大きな影響を及ぼすということは、よく言われることです。例えば両親や周りの大人から無条件の愛のメッセージを受けてきた子どもは、その後の人生の旅路の中で、苦難の状況に陥ったときにも、愛されているという言葉を頼りに自らを保ち続けられるといいます。しかし、ネガティブなメッセージばかりを受け続けて来た場合には、少しの逆風でも、自分自身を否定してしまい、たちまち存在基盤を失ってしまうのです。

 しかしそのような窮地の人間を癒し、立ち直らせていく力を発揮するのも、また言葉の力です。どうにもならなくなった絶望の人を、無条件の愛で包み、ありのままの心で語り、その暗闇から解き放っていく力も、やはり言葉の働きによるところが大きいのです。そのことを考えると、私達一人一人を形成し、人生を動かしていく根本的なものとして、言葉の働きが、単に文字や音声による伝達手段以上のものであることは、確かに納得できることだと思います。

 聖書の世界においても、この言葉に大きな意味が含まれていることは周知のとおりです。旧約聖書で「み言葉」と言えば、それは神の言葉そのものであり、私達の中で必ず実現する、働き、力そのものです。新約聖書では神そのものであるキリストを、「み言葉」として表し、福音であり、真理であり、私達のただ中に来られ、救いを現して下さったイエスそのものを指し示します。

 だから今日の福音箇所、ルカ福音書の冒頭で言われている、この書物の著された動機には、単に伝達された言葉を書き記そうということ以上に、キリストについての事柄を余すところなく伝えようという意気込みが表れているのです。つまり、「わたしたちの間で実現した事柄」、「最初から目撃してみ言葉のために働いた人々が私達に伝えた(こと)」というのは、まさにイエスの間近にいた人々のうちに、現に働き、実現し、それぞれの人生を作り変えてきた事実そのものなのです。その事柄の全てを詳しく、確実なものとして言葉にすることで、それを受け取る私達の希望や人生の歩みが根本的に変えられることを意図しているものだと言えます。

 今日の福音箇所は、ルカ福音書冒頭の序文の後、イエスの幼年物語、宣教準備の場面を飛ばし、ガリラヤにおける宣教活動のはじめの出来事を置いています。それはイエスがユダヤ教の会堂に入り、聖書のみ言葉を朗読し、その後「この聖書の言葉は、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と高らかに宣言される場面です。まさに神の子イエスを通して、み言葉が現実のものとして実現したということが表されています。

 イエスが朗読した旧約聖書の箇所は、イザヤ書61章1~2節の第三イザヤと呼ばれる部分に含まれる箇所ですが、これは預言者自身の神からの召命を語る部分だと言われています。イエスもまた神からの特別の使命を受けて、世に派遣された救い主です。「主の霊がわたしの上におられる。」(18節)とありますが、それは神そのものである聖霊がイエスの上にあり、今聖書にある言葉を実現させるのだということでしょう。ルカ福音書では霊は力と結びつけられて語られ、神の力そのものを指し示すものです。イエスは霊の力に満たされてガリラヤにやってきたのです。

 さらにイエスの語られた聖書の言葉は、このもたらされた神の力が、どのような所に働かれるのか特徴的なことを語っています。それは「貧しい人」、「捕らわれている人」、「目の見えない人」、「圧迫されている人」、どれも人の目には弱く、不自由で、苦しみに満ちた人々のところに現れ、全く真逆の恵みと力をもたらすのだ、ということが言われています。これこそがイエスの宣教活動全体に一貫している、救いの到来の仕方なのです。イエスはこの世の通例とは逆さまに、弱いところに力を与え、圧迫されているところに解放をもたらし、逆説的な救いをもたらしていきます。そのことによって私達は闇の深みにまで救いが与えられ、この神を頼りとすることへと作り変えられていくのです。またそのことによって、この世の弱肉強食の法則は見事に打ち壊され、神の力の計り知れない恵みを思い知らされることになるのです。

 イエスは、これらの言葉が今まさに実現したのだと語ります。そして、イエスを通して実現されたことこそが、私達にもたらされた救いであり、私達が受け止め、伝えていこうとするみ言葉なのだと思います。つまり、最初に申し上げたように、み言葉は単に、私達の口を通して、書き記したものを通して、伝達することに留まるものではありません。それは私達の思い、言葉、行い全てを通して実現していくもので、それは現に、目の前にある現実を福音によって作り変え、人々の希望を刷新していく働きなのです。

 救い主イエス・キリストが世に来られ、私達のただ中に救いをあらわして下さったこと、それは私達がこの地上において逃れ得ない苦しみや悩み、弱さの全てを担い、それだけでは終わらない希望をあらわして下さったことに他なりません。それは私たちに託された働きであり、単に口先だけではない、み言葉を世にあらわしていくことによって実りがもたらされるものなのです。

 神のことばの主日に際して、私達に与えられた惜しげもない恵みの言葉の一つ一つを思い返していくことができますように。そのことを通して、私達に託された福音宣教の働きに気づかされ、喜んで協力していくことができますように、願い求めていきたいと思います。

(by, F.T.O)