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西会津鉄火裁判~ルーツを探す途中で~

2017.11.06 17:57

※グロテスクな表現を含むため、苦手な方は読まないで下さい



自分の先祖はどんな人だったのか。そんな疑問は誰もが一度は抱いたことがあるのではないだろうか。

父方にしろ母方にしろ、祖父や祖母が健在ならば、自分の二世代前までは容易に辿ることができる。

だが、自分の戸籍のみをたよりに自分の出生をたどっていった場合に、人はどこまで自分のルーツを知ることができるだろうか。

自分の戸籍を見れば、父○○、母○○に生まれたこと、そして本籍地の記載がある。

今は戸籍はすべて電子化されていて、画像化された両親の古い戸籍を見ると、読めない字でそのまた父、母の名がある。

この除籍謄本を辿ることにより、自分のルーツを明治の途中までは辿ることができる。

余談だが、私の名字の漢字はもともと常用漢字になく、役所には外字を作って貰っていたが、面倒なので20年ほど前に常用漢字に変更した。


さて、私の母は福島県西会津町の綱沢村の出生であり、祖父のそのまた祖父も、綱沢村の出身であった。

明治の中頃、祖父の父の兄が村の長をしていたことから、江戸より前からずっと、代々その辺りを治める農民の、分家であったのだろう。

白虎隊による飯盛山での自決や、会津藩主・松平容保の預かりである新撰組などとは私は無関係であり、

ご先祖様は稲作と格闘する平和な日常を送っていた、と思っていたが、先日偶然にも「新編会津風土記」という文献を読むことになった。

それには、西暦1619年に実際にあった、鉄火裁判について記載されていた。

書かれている内容をそのまま記載する。


一元和中此村と松尾村と山界を争ひ蒲生氏に訴へしに、兩村ともに入べからずと裁斷ありしを、強て訴へしかば此村の次郎右衛門、松尾村の淸左衛門と云もの二人野澤本町諏訪の社前にて鐵火をとらしめしに、次郎右衛門恙なかりしかば淸左衛門を誅戮し、其骸を三分して埋めー


分かりやすく書けば、

綱沢村と松尾村の間で山の境界争いがあり、死者をだすほどになったが、両村とも譲らず、諏方神社境内で鉄火裁判による決着をつけるになった。

各村の代表者が焼けた鉄を所定の場所まで運ぶという勝負である。勝っても負けても実施者は大変なことになる。

松尾村の代表、長谷川清左衛門は真っ赤に焼かれた鉄火を両手に受け取るがその場に倒れ死亡、次郎右衛門はみこどこなし綱沢村の勝ちとなる。

清左衛門の遺骸は頭部・胴部・脚部に三分割し、綱沢村の主張する「綱沢山の山界」の三カ所に境塚を築き埋葬され、その塚は今も「足塚」「胴塚」「首塚」として残されているという。

私はこれを読み、啓示にも似た衝撃を覚えた。

裁判により事件は解決した。

だが、本当のところはまだ何も解決していないのではないだろうか。

幼少の頃、母の故郷であるその綱沢の地に数度訪れたことがある。

田園の広がる青々とした清々しい景色に反して、叔父の所有する周りの山々をひどく陰鬱に感じていたことを思い出す。

私の兄や、同じように関東から遊びに来ていた従兄弟たちが、山に遊びにいこうとするのを、母や叔父たちは「くまが出るから」という理由で必死になってとめていた。

もちろん、その山で熊がでたことなど一度もないのだが・・・

私の母の旧姓は長谷川である。

西会津にはこの姓が多い。

だから、ルーツをたどれば西会津鉄火裁判と私の先祖は関係ないかもしれない。

そう思うことは都合の良い話であろうか。

いや、むしろ鎌倉から戦国時代を経て江戸時代まで、この手の話はいくらでもある。

たまたまきちんと記録に残していた一つの村が、綱沢村であった。

そもそも、先祖に一度も、たとえ戦国時代と言えど、殺人者やその被害者をだしていない一族などないのでないか。

そう考え、私は自分の考えに身震いした。

そうした場合、祖先である我々が、先祖に起きた出来事に対し清める必要や、それを供養する方法はあるのだろうか。

ある、と言いたいところだが、私は今、これに対する答えを持ち合わせていない。

近いうちに(それが今年になるか、来年になるかはわからないが)、私は再び西会津の地を踏もうと思う。

叔父が所有するその山々も、いずれ私が引き取りたいと考えている。

私はあまり業という者を感じていないが、その山の供養は私がしなければいけないと思っている。