「「先生、お世話になりました」」
モリアーティ家で最も年若いルイスが学生の間に、アルバートどころかウィリアムすらもその優秀な頭脳を活かし職に就いていた。
アルバートは貴族という立場を考慮して本人の意思とは無関係に軍へ入隊し、逆にウィリアムは長兄の思いやりゆえに己の知識欲を満たせる大学教授という道を選んだ。
ウィリアムが大学教授になるのならばその大学に通っておくべきだったかと、一人学生という身分のルイスは密かに後悔していた。
けれどアルバートが通っていた大学での学びはとても有意義なものだったし、自宅から短時間で通える距離に学舎があるというのもポイントが高い。
ウィリアムの授業を受けられないという少しの後悔はあるけれど、それでも今のルイスは現状に満足していた。
たくさんの知識を身につけ、最愛たる二人の兄を自宅で待ちながら日々を過ごす。
当たり前なのに尊く眩しい、そんな日常を送っていることがとても嬉しいと思う。
「ルイス、君に似合うと思って買ってきたんだ。受け取ってもらえるかな?」
「…ありがとうございます、ウィリアム兄さん」
ただ一つだけ不満というか、心が晴れない要素をあげるのならば、誰より愛しいウィリアムの行いだろうか。
彼は帰宅早々に持っていた紙袋から真新しいシャツとジャケットを取り出しては軽く広げてルイスの体に当てていき、納得したように頷いてからにっこり笑みを深めてそれを手渡す。
上質なサテン生地を使ったシャツは光を含んだ光沢がとても美しい。
柔らかなそれはきっと着心地も良く、薄青色はルイスの真っ白い肌に映えることだろう。
ジャケットは深い紺色の中にくすんだ金糸で細かな紋様が刺繍されているというのに重さはさほどない。
ボタンやジッパーといった装飾品一つ一つが重厚感を感じさせており、シャツと合わせて着ればカジュアルな場での装いとしては十分過ぎるほどに合格点を出すはずだ。
ルイスは体に当てられたそれらを受け取り、軽く胸に抱きしめてから上目でウィリアムを見る。
「ありがとう、ございます。…嬉しいです、兄さん」
「きっと良く似合うよ。羽織ってもらっても良いかな?」
「はい」
首を傾げて瞳を細め、満足そうにルイスを見たウィリアムは渡したばかりの衣服を取りあげる。
そうしてジャケットのボタンを外して広げて見せれば、その意図を察したルイスが後ろを向いて袖を通した。
新しいジャケットに両袖を通してから軽く皺を取り、襟元を少し合わせただけでもう一度ウィリアムと向き合ってみる。
やはり重厚な見た目の割に軽いようで、着ていても肩が凝るということはないようだ。
この場所には姿見がないから見栄えは分からないけれど、ウィリアムの反応を見ればおそらく似合っているだろうことがすぐに分かった。
「やっぱり!とても似合っているよ、ルイス。買ってきて良かった」
「本当ですか?服に着られていませんか?」
「大丈夫、よく似合っている。サイズも問題なさそうだね」
「ピッタリですね、動きやすいです」
「サイズをオーダーし直して正解だったよ」
なるほど、予定していた帰宅時間よりも一時間ばかり遅く帰ってきたのはそういう訳か。
仕事終わりにこれらの服を一から選んでいたのでは短すぎる。
予め見繕っていた衣服を取り寄せるなり調整するなりしておいて、今日引き取ってきたということなのだろう。
ウィリアムの帰宅から少しだけ疑問に思っていたことが暗に解決してスッキリするが、それでもルイスの心は僅かに曇っている。
「今度、このシャツとジャケットを着てデートに行こうか」
何とも魅力的な問いかけに頷く以外の方法を、ルイスは知らない。
反射的に頷いてから頬を染めると、着ていたジャケットの袖を緩く握って縋りついた。
大学で教鞭を執るようになったウィリアムは彼個人に収入が入るようになった。
その優秀さは既に大学側に知れ渡っているようで、より高度な授業を必要としている大学への移動も検討されているようだ。
そのこと自体は大変に誇らしいことなのだが、そうなると今以上にウィリアムが手にする金銭は増えるのだろう。
それは少し、ルイスにとって心が晴れない要素に繋がる。
何せ自由に扱える金を自ら稼ぎ出したウィリアムは、その大半をルイスへの贈り物に使っているのだから。
貢ぐ、という言葉の響きと印象はあまり良くないが、現状ウィリアムはルイスに貢いでいる状態だ。
昔から何かを手に入れるとルイスに譲ってくれる人だった。
綺麗な花を見つければルイスの指に結んでくれたし、譲ってもらった服は綺麗に洗ってからルイスの体に着せてくれる。
苦労して手に入れた食べ物だけはルイスが頑なに「半分ずつ、一緒に食べたい」と主張したから譲られることはなかったけれど、それでも自分の分を減らしてルイスにたくさん食べさせようとしてくれていた。
自分を思い行動してくれる兄の優しさが嬉しくて、けれど与えられるばかりでは寂しくて、何も持たないルイスはせめて言葉で返そうと「ありがとう」と「だいすき」をたくさん伝えてきた。
ウィリアムに文字の読み方を教わり、アルバートに綺麗な文字の書き方を教わってからは手紙も書いている。
一人イートン校の寮で過ごしていた頃はそれこそ毎週のように手紙を書いて届けていたのだ。
それ以外に返せるものがないから、ルイスは健気に自分の気持ちをウィリアムに返している。
昔以上に自由に使える金を得たウィリアムから贈られる、たくさんの服やアクセサリーや雑貨、美味しいお菓子。
そのどれもが心から嬉しいし有難い。
ウィリアムからの想いが詰まった全ての物がルイスの宝物である。
だからこそ、貰ってばかりいるのは心苦しく思うのだ。
「どうしたら良いんでしょうか、先生」
「なるほどなぁ」
今日のルイスは午前中で大学の講義が終わり、午後には以前世話になっていたロックウェル家を訪ねていた。
当主たる伯爵はいなかったけれど、元より彼に用事があったわけではない。
執事長かつ自分達兄弟の師であるジャックに用があったのだ。
忙しいはずの彼は突然訪ねてきたルイスに驚いた表情は浮かべつつも、すぐに豪快に笑って迎え入れてくれた。
すぐに美味しい紅茶と美味しいお菓子を用意してくれたジャックと共に、二人は以前使っていた三兄弟用のソファに腰を下ろす。
そうしてルイスは、近頃のウィリアムがやたらと贈り物をしてきて心苦しいという現状について相談していった。
「兄さんが買ってくださる服は着心地も良いし素敵なものばかりなので気に入っているんです。この前貰ったジャケットも高価なのに軽くて着やすかったですし…でも、兄さんにお返ししたいのに何も返せないのが心苦しくて」
「ふむ…もしや今日身に付けているものもウィル坊セレクトか?」
「はい。シャツとタイとスカーフと、あと靴も兄さんが用意してくれました。スーツ一式は兄様が選んでくれました」
「ほぼ全身があいつらのコーデだな」
それが何かおかしいのか、という目でルイスはジャックを見る。
ロックウェル家に居候していたときから感じていたが、ルイスにはあまり反抗期らしい反抗期がなかった。
この年頃の男ならば兄弟が選んだ服など着ないはずだ。
だがウィリアムもアルバートもセンスは抜群だし、二人に飾られたルイスの出立ちが見苦しいこともない。
自己主張の上手くないルイスとしてはむしろ都合が良いのだろう。
それはそれとして、身の回りのものを兄由来のもので固められていることにルイスが少しも疑問に思わないことこそ、一番の問題である。
「ルイス、お前自分で服を買わんのか?」
「僕はお金を持っていませんし、必要だと思う前に兄さんと兄様が買ってくださるので」
自分で買う必要がないです。
そう言ったルイスにジャックは口を閉ざした。
昔よりも断然見事な囲い込みに要らぬ成長を感じてしまったが、ウィリアムとアルバートらしいといえば二人らしいので、もはや気にする方がおかしいのかもしれない。
弟とはそういうものなのだろう、という歪んだ認知を持つルイスもある意味でルイスらしかった。
なるほどな、とジャックは一人納得しつつ紅茶で喉を潤していく。
「兄様は、その、モリアーティ家の次期当主として僕に相応しい格好をさせる義務があるので、お仕事をされる前から色々贈り物をしてくださっているんです。でも兄さんはご自分で使えるお金を手に入れてからのことなので…」
「何か返したいと?手紙で良いんじゃないか、ウィル坊も返礼など求めてはおらんだろう」
「手紙はいつも書いてるから代わり映えしないんです」
元より貴族で金銭感覚の違うアルバートから何かを贈られることにもようやく慣れてきたばかりなのに、実の兄であるウィリアムから一方的に贈られることには慣れないのだろう。
兄さんから施しを受けているようで嫌だ、と呟く声が聞こえてくる。
「なら卒業して自由に金が使えるようになったら返せば良い」
「僕の卒業はまだ先ですし、それまでずっと貰ってばかりは嫌です。お金が掛からない、手紙以外の贈り物って何がありますか?」
中々難しい案件だと、ジャックはようやく気が付いた。
今のルイスはアルバートから自由に使える金をいくらか貰っているはずだが、どうせルイスのことだから大切に貯めているだけなのだろう。
楽をして得た金を使ってウィリアムに物を返したくはないと考えているはずだ。
いつも書いている手紙は特別感がないというのも最もである。
ジャックはウィリアム好みにコーディネートされた末っ子と己が持っていた懐中時計を見る。
そろそろ執務に戻る時間が迫っていた。
「ルイスが何をやってもウィル坊は喜ぶと思うぞ」
「もっと兄さんに相応しい、特別なものをあげたいです」
「そうだなぁ…」
出会った頃より成長したとはいえ、ジャックにとってのルイスの印象は今でも幼い姿のままだった。
人見知り気質が強い上に兄以外には警戒心が解けないため、今この歳になっても友人すらいない末弟を放っておくのは心が痛む。
兄以外に頼れる人として己が選ばれたのだと思えば可愛らしいが、生憎と今は時間がない。
どうせルイスを溺愛しているウィリアムならば、こうして自分のことで思い悩むルイスが存在するだけで十分すぎるほどに嬉しいはずだろう。
だから、何でも良いのだ。
ルイスがいればウィリアムは何を貰っても嬉しい、それが正解である。
そろそろ時間だとジャックはソファから腰を上げ、ルイスの持つ細い金髪をわしゃわしゃと掻き混ぜるように撫でていく。
「何でも良い。どうしても何かあげたいというのなら、ウィル坊はルイスを貰うのが一番嬉しいだろうよ」
「僕ですか?」
「あぁ」
ニヤリと、数多の女性と浮名を流してきたジャックは男としての矜持を誇るように豪快に笑った。
プレゼントは私、など定番中の定番だが、喜ぶ人間が多くいるからこそ定番になっているのだ。
見目良い女にそう誘われたことは何度もあるし、それなりに楽しい夜を過ごしたこともある。
ウィリアムとルイスにはまだ早いかもしれないが、もう良い年なのだから構わないだろう。
それでも幼い印象の強い末っ子の前では色情めいた雰囲気は出さない配慮をしながら、ジャックはルイスの髪から手を離した。
「プレゼントは僕、とでも言ってみろ。きっと喜ぶぞ」
「…でも、僕はもう兄さんのものです。改めて差し上げるところもないのですが」
「あ?」
そうして聞こえてきた返事に、ジャックは思わず口元を引き攣らせる。
「髪の毛一筋から爪の先まで僕は兄さんのものだと、兄さんが言っていました」
「あぁ?」
「僕は兄さんのものだから、あげても喜ばないのではないでしょうか」
「……」
「元々持っているものをあげるというのもおかしな話です」
「…あぁそうか、そうだな」
眉を寄せて、うむむ、と悩む姿は昔と変わらず幼いのに、その唇が紡ぐ内容は随分と拗らせている。
正しく言うならば拗らせているのはルイスではなくウィリアムなのだが、それを受け入れているルイスも大概おかしいのだから問題はない。
「…ルイス。プレゼントは僕、とでも言いながら手作りケーキでも渡してやれ。ウィル坊はそれが一番喜ぶ。ワシが保証してやる」
「本当ですか?」
「あぁ。もう戻る時間だ、適当に茶を飲んだらお前も暗くならんうちに帰れ」
「あ、はい」
行儀良くカップを手に取り紅茶を飲む姿を横目に見ながら部屋を出ていったジャックは、扉を閉めてから呆れたように深い深い息を吐いた。
「ウィル坊め…何も知らんルイスに何を吹き込んどるんだ、あいつは」
誰にも聞かれなかったジャックの呟きはそのまま空気に混ざって消えていく。
後日、ジャックの教えの通り張り切ってケーキを焼いたルイスは、少しの疑問を覚えながらも「いつものお返しに僕を差し上げます」と言いながらウィリアムの手を握りしめる。
驚愕したように緋色を見開いたウィリアムの顔は徐々に満面の笑みで彩られることになるのだが、それは概ねジャックの予想の範疇であった。
(ねぇルイス。誰からそんなことを教わったんだい?)
(先生からです。兄さんはきっと喜ぶと言っていたので、本当に喜んでくれて僕も嬉しいです)
(そう、先生から教わったんだね)
(僕はもう兄さんのものなのに、それでも改めて貰うと嬉しいものなんですか?)
(勿論だよ。とっても嬉しかったよ、ルイス。先生にも今度お礼をしなきゃいけないね、こんなに可愛いルイスを見られたんだから)