その手で 1.ナイと体育館
始業のチャイムが鳴った。私は教室には行かないで、人の気配がない体育館の重い鉄扉を押す。二階の窓から射す春の午後の日差しに細かな埃がチラチラ光っていた。しんとして、静かで、誰もいない。私の心のように、何もない。
私には何もない。家族も、友達も、居場所も、取り柄も、全部ない。
天井を見上げると大きな照明と鉄組の天井からバレーボールが首を吊っていた。
死んでしまいたいほど愚かでもなく、生きながらえたいほど希望もない。どちらかというと、バレーボールのように吊ってしまった方が潔いかもしれない。
教室では眠気と戦う生徒たちが同じ思想を植え付けられるべく大人の形をした生物の話を聞く。そして、普通じゃない者は弾圧してもいいと彼女たちは思うのだ。私は、弾圧される側。「あなたはいつもぼんやりしているね」と多くの人に言われたが、考えているうちに多すぎる時間が過ぎ去っているだけだと思う。じゃなければ私はこんなところに来ない。私の居場所はもうどこにもない。たくさん考えた末に気がついた。気がつくまでとても多くの時間を要した。だって私が迫害されているなんて思いもしなかったから。
右手に脱いだ上履きを持つ。トタ、トタ、と私の足音が誰もいない体育館に響く。板張りの床は冷たくて、このまま寝そべって体温を溶かしてしまいたい。でもいつ他の人がやってくるか分からない。規則から外れる緊張に身を固くした。
私は迷った挙げ句、舞台横の重いキルティングのドアを押して、普段生徒が入れない舞台裏に侵入した。鍵はかかっていないようで、私はするすると歩いて行く。
二階へ続く鉄階段ではカナブンが死んでいた。ここはみんなの墓場なのか。引き寄せられるように私も上る。カン、カン、カン。
登り切ると、入ったことのない広いスペースに出た。一階よりも埃の濃度が濃くて、太陽で熱せられた空気の臭いがした。奥にはしばらく使われた気配のない放送器具。横には体育中に舞台にボールが入らないようにするための緑のネットの束。かすかに甘いような煙たさを感じる。
「なんだよ、女か」
ネットの束の足下に、男子生徒がいた。この空間に元々備わっていたような自然さで。
「こんにちは」
私は頭を下げる。学ランの前ははだけ、インディゴブルーのトレーナーが見えていた。不自然に艶のない金髪。手元には炭酸ジュースの缶と、煙草。
「何がこんにちは、だ。お前、チクんなよ?」
この部屋には住人がいた。そう理解すると、私は踵を返した。男が、私のセーラー服の襟のうなじを掴む。
「だから、チクんな、って言っただろ。返事くらいしろよ」
男の体温を背中に感じる。私を頭まですっぽりと納めるほどの長身。甘く煙たい煙草の臭い。ここは彼の部屋だった。
「ごめんなさい」と私は立ち止まる。
男は私を引き倒して緑のネットに投げる。幾重にも重なったネットがクッションのように柔らかかった。額が触れる近さで男の顔が存在する。瞳が大きく、いくつかの頬のニキビが彼の若さを表していた。この男は何を求めているのだろう。ここに何を求めてやって来たのだろう。私と同じように何もかもを失って、可哀想と自己陶酔することを拒み続けた人だろうか。
「なんだよその目。殺すぞ」
湖のように深い瞳は揺れていた。男の手にある煙草が規則正しい形の灰となって落ちた。
「殺して、くれるんですか」
私は男に詰め寄る。手を握ると指が痛かった。煙草の火が焼いたらしい。男の手を掴んで、私の首にやる。
「私を、殺してくれるんですか」
男は舌打ちすると、手を振り払ってネットの端に腰掛けた。
「なんだよ、お前。悩みでもあるのか」
悩みと呼ばれる具体的なものは思いつかなかったので黙っていると、
「ここは教師も誰も来ない。学校の忘れられた場所。お前、無害そうだから好きなだけ居ろよ。ただ、俺がここで煙草吸ってるのは黙ってろ」
返事は、と語尾を上げるので、私はうなずいた。
ネットの端でカナブンが死んでいたので私は爪先ではじいた。男は意外そうに私を見る。「虫、平気なのか」
私はうなずいて肯定した。人もカナブンも、死んだらみんな同じただの入れ物だと思う、と話すと、男は小さくクックと笑った。吸い殻を空き缶に押し込んだ彼は、もう一本煙草を咥え、透明の使い捨てライターで火を付けた。
「俺はあまり虫が好きじゃない。潰すと変な色の臭い液が出るだろ?」
「それは、人間も同じだよ」
私は煙草を持つ彼の手を目で追っていた。骨張っていて、長くて、細い。男の子の手だった。
「なんだよ、その人間を潰したことがあるみたいな口ぶりは」
男は冗談めかして低い声で笑った。
「あるよ。十二年前、神戸で。お父さんも、お母さんも、お祖母ちゃんも、変な色の汁をだあだあ流しながら瓦礫に潰されて死んでた」
男は憮然として、悪かった。と煙草の中のフィルター付近を強く噛んだ。何も悪くない、と私は空いている方の手を重ねた。カサカサとしていて、ひどく落ち着く質感だった。
「私が持ってる、最初で最後の家族の記憶。それ以上でもそれ以下でもない。悲しいでしょうってみんな言うけど、もうそうなってしまったのだから私はそこに感情を持つことができない」
男は煙草をまた空き缶に押し込んで、私のおさげ頭にそっと手を乗せた。
「悲しめないのも、悲しいことだ」
「私もそう思った。周囲の人は悲しんで欲しそうだったけど、私は期待に応えることができなかった」
「悲しむときは自分のために悲しめばいい」
男に肩を抱き寄せられると、煙草の甘い匂いが強くなった。その奥に男の体臭というものを見つけて何をしているのだろうという気分になる。私は逃げたくてここに来て、そしたらこの男がいて、人間が潰れたらどうなるかという話をした。それで。
「お前、変なやつだな」
「高校生で煙草を吸っている人には言われたくない」
「それはマジで黙っててくれ」
「いいよ、その代わり」
――私を殺して。
代償が命は重すぎるだろ、と男は笑った。